津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川家家臣-狩野家三家と狩野是斎-加納曲斎の関係

2022-10-09 07:33:02 | 先祖附

 我が家の祖母の実方・狩野家については、細川家家臣としては実方の源内家と俊太家・庄馬家が存在している。
三家が同根であることは承知していたが、俊太家のご子孫が見事なサイトを開かれている事を発見し、いろんなことが氷解した。

           肥後細川藩藩士狩野家の系譜  狩野家家系図

これはまことに有難いことで、初代上総介と嫡男・是斎(源内家)、二男・平左衛門(俊太家、庄馬家祖)がともに仕えた。
多分私のうっかりと思うが、「新・肥後細川藩侍帳」に於いては、狩野家の主筋・右近大夫を「左近」と表記している。
その高橋右近大夫と息・左京進等について正確な知見を得ることが出来た。
この人物が日向国縣(延岡)藩主・高橋元種であることが判明した。元種は筑前・秋月の秋月種実の二男である。
私の奥方は延岡の出身で、母方は秋月氏、どうやら高鍋に移封した秋月家の末の末の末の・・・らしい。
偶然が面白い。

狩野上総介の嫡男・是斎には男子がなく外孫が継いでいる。娘が松山権兵衛に嫁ぎ忠利はその遺児に母の実家を継がせた。
次郎大夫の父は田邊城に籠城した松山権兵衛だが、その祖父は同じく籠城した加納曲斎である。
狩野と加納、これは偶然の悪戯だろうか。相国寺の首座であったが還俗して田邊城の幽齋のもとに駆け付けた人物だが、松山氏と狩野家の関係は、二三代遡って研究する必要がありそうだ。案外同族ではないかと考えて居るが、全く手掛かりがない。

                      +----猪兵衛(嫡男)    
                      |                                                       
  加納曲斎----松山兵右衛門----権兵衛----+----権兵衛(三男)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 松山 繁家
                      |
                                                           +----次郎大夫(二男)
                       ‖----太郎右衛門
                      +----  女            |   
                                                          |                      ↓
         狩野上総介---+--是斎-----+=======太郎右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 狩野源内家
               |
                                         +---平左衛門----+---仁右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 狩野俊太家
                       |                        (名越谷狩野家)(名古屋狩野家)
                                                        +---小源太
                       |
                                                        +---四兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 狩野庄馬家

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■肥後熊本藩大名細川家54万石筆頭家老松井帯刀他重臣讃岐國切支丹宗門連判書状額装品

2022-10-08 07:07:15 | 史料

        

 偶然見つけたメルカリに出品してある細川家関係古文書である。
木下三郎左衛門の妹が讃岐の金毘羅参りに出かけるにあたり、供の下女二人都合三人の通行証である。

     此女三人木下三郎左衛門妹并譜代之女且下女ニ而候
     宿頼有之今度讃岐國金毘羅江致参詣候
     紛敷女ニ而無之切支丹将類族ニ而茂
     無之候右三郎左衛門書物ニ請人相立連判
     有之を此方江取置候間南関尾番所無■(異)議       ■(異体字=己の下に大)
     可被通者也
       寛政十一年四月十一日    松野外記
                     堀 丹右衛門
                     三渕八郎左衛門
                     小笠原美濃
                     松井帯刀
                     有吉主膳
                     長岡左馬助

 木下三郎左衛門は、木下肥後守家定(豊臣秀吉室ねね・実兄 姫路城主)の三男、豊後日出藩主・木下右衛門大夫延俊(室・細川藤孝女・加賀)の子・三郎左衛門・俊之を初代とする木下嘉納家の8代・勇(三郎左衛門)である。
寛政十二年閏四月~享和二年十月 番頭、享和二年十月~文化八年七月 用人、享和元年九月~享和二年十月 鶴崎番頭を勤めているが、番頭になる前の年の事となる。
細川齊茲の時代であり、こういう家系の女性という事から通行証も念が入っている。
そうそうたる重役7名が押印・花押を認めている。

  木下三郎左衛門の妹及び、譜代の女と下女の三人、今般金毘羅宮に参詣するが紛らわしいものではなく、切支丹類族
  でもない。三郎左衛門の書状と共に、請人の連判の請状もこちらに取り置いている。異議なく南関の御関所を通され
  るべきなり

大変興味ある書状だが、83,225円と何とも高額である。いつもの事ながら金欠爺には手が届かない。
精々読み下しなどを楽しみ、興味ある方へ情報をお伝えして置く。

付け足し:熊本市の新町地区西北の角に、明治・大正期にはかって木下町があった。木下氏の屋敷があった場所である。
     日出藩主・木下延俊室は細川忠利の妹・加賀、大変仲が良い義兄弟であった。 

            

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■安静に致しております・・

2022-10-07 11:28:26 | 徒然

 尾籠な話で恐縮だが、昨日の夕食前突然突き上げるような吐き気を催した。
洗面所に走り、うがいを何度もして治まったが、夕食を抜き、薬を飲んでひとまず落ち着いているが、胃から喉元にかけて不愉快感が今も残っている。
今朝の朝食はヨーグルトを食べてお仕舞、お昼も抜こうかと思っている。
そして相変わらず左肩・腕が痛くてたまらないし、今朝ほどは落ち着いていた左足のこむら返りに襲われた。
昨日も書いたように、熊本は急に秋の気配である。まだ靴下も履いてはいないが、膝から下に寒さを感じるようになった。
雨も降ったりやんだりしているので散歩もお休み、今日はかたずけ物もお休みにして、安静に過ごそうと思っている。

過日、blogのUPが少し遅れた時に悪友から「生きとるかい」メールが入った。
「生きとります」の一言でも良いから9時前頃にはUPしろとの命令であった。
ストックを作ろうと思うのだが、それがままならぬ状態がつづいている。

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■萩の花

2022-10-07 09:05:11 | 徒然

 高祖父・上田久兵衛が刎首の刑に処せられてから145年、そろそろ150年忌を迎えることになる。
ある方から、「萩の花がお好きなようですね」とメールを頂戴したことがある。
久兵衛の辞世の句の一つに「秋風ノタヨリニキケバ古サトノ萩カ花妻今サカリナリ」があって、これも大いに影響している。

萩の花が何となく好きになったのは、建築の世界に足を踏み入れてしばらくしてから、誰の著作かはしかとしないが建築に関する文章集を読んだ中で、日本に於ける庭の構成に「萩」は欠かせないといったことが書かれていた。
清水一の著作集だと思い込んでいたが、上下巻を再読しても見つからない。吉田五十八か村野藤吾あたりかもしれないが、いずれにしてもこれが不思議と頭に残った。
設計に携わった某病院の院長のご自宅の庭に、萩の花を見つけた時は大いに感激し、そんな話をしたことを思い出す。
亡き姉が嫁いだ先の家は、入り口から10mばかり本家さんの生垣がつづいていたが、これがなんと「萩の生垣」であった。
姉を介して一株もらい受けようと思ったが、これは実現しなかった。

先のメールでは、「株を一つお分けしましょうか」というお申し出であった。
大変ありがたいお話ではあるが、APのベランダではうまくいくか自信もないし、丁寧にお断り申しあげた。
植えようと思えばインターネットを利用すれば、苗木は簡単に手に入るのだが、庭がない暮らしでは簡単にはいかない。

大先輩のお宅を訪問した時、大学で日本画を学ばれたというお嬢さんが、見事な「萩」の絵をかいておられ額装して飾られていた。
ほれぼれするような作品で、今でもその構図が目に浮かぶ。
以来、「萩の絵」がインターネットで購入できないかと探しているが、気に入った構図の作品に出合わないこともあるが、金欠病の私には手が出ない値段のものが多い。

ただ、久兵衛の150年忌に当たっては、お墓のそばに「萩」の花を植えてみたいという思いが大いにある。
そして、辞世の句を標木にして建てたいとも考えて居る。長生きをしなければならない。

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■ハヤの大群

2022-10-06 11:20:42 | 徒然

 数日振りに朝散歩に出ました。コピー用紙が切れたこともあって、いつもとは違う短距離です。
近所の丘の上に、でかいスーパーが出来るというので現場見学、傘寿となっても建築屋の興味はつきません。
帰りに水無川の上流部の堰の上の水たまりを見ると、水面がキラキラしています。
目を凝らしてみると、ハヤの群れが二つ大騒ぎ状態です。
以前14~5㎝ほどのフナが流れのドン詰まりであるこの堰の上まで下ってきているのは見かけましたが、こんな大群は初めてです。
こんな風景を見ると、つりをしたくなりますね。二段構えの下の段は御花畑状態です。
この間アオサギが飛来してきましたが、これだけ魚がいればなんとなく頷けます。
熊本はどうも今日あたりが夏と秋の境目のようです。気温も25~6度で大変過ごしやすくなりました。
季節の変わり目、風邪など召しませんように・・・

                                     

   

            

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■書籍終活・ごみだし四回目

2022-10-06 06:57:59 | 徒然

 昨日は終活書籍ゴミ出し4回目の日で、段ボール3箱約150冊ばかりを準備していたが、あまりの肩の痛さに断念。
「買取送料無料」という案内が来ているのでこちらに送ろうかと考え始めた。
それでも、まだ処分したい本があるが、その前に一読と思って色々読み始めたら面白くなって捨てるどころの話ではなくなった来た。
また本棚に逆戻りするものが数冊出てきた。
問題は資料の方だ。本の量と同じくらいに場所を取っている。粗方は目的物ごとにA4封筒に入れこれをジュース缶の段ボールケースを利用して入れている。
本棚の上やサイドテーブル、足元に数十箱ある。
紙資料が数十センチ山を為していて、これが時折山崩れを起こすから、これを片付けようと頑張っているが、殆ど二三枚一組になった資料で、これも一々チェックしている。
7・8年の間御世話した史談会の配布資料や原稿などが顔を表し、必要のないものは処分しようと脇に寄せるとすぐさま5・6㎝の山となった。
行方不明だった資料、面白い史料が出てくるとついつい見入ってしまい、瞬く間に時間が過ぎる。
ご先祖探しにご協力した折のいろんな資料や、御礼状などが出てくるとその時代を振り返って懐かしさを感じる。
郵便物も多くありこれも捨てられず小さなダンボールに納め直した。

 多くの資料を残されて亡くなられた方を幾人も存じ上げているが、その後始末は拝見していると種々雑多で、明日は我が身と覚悟しているが、せめて処分しやすいようにはしておかなければならない。
中々やっかいな作業ではある。今日もせっせと作業に励まなければならない。

 ある方から、「息子の時代には皆んな廃棄ごみ・・」と言われたが、・・・・仕方がない。

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■ご紹介「忍者研究 第3号」

2022-10-05 17:27:51 | 書籍・読書

忍者研究 第3号
2020年8月31日 印刷・発行

【目次】

論文
戦国時代の忍びの実像(平山優)

熊本藩細川家の忍び(上田哲也)
「忍者・服部半蔵」の誕生(田村梨沙)
息長と簡易マインドフルネス訓練の比較(西村誠)

報告
書籍紹介:尼子騒兵衛「落第忍者乱太郎」とそのシリーズ(井上直哉)
二〇一九年の忍者界動向(福島嵩仁)
2019年忍者作品一覧(福島嵩仁・中津珠梨)
第3回国際忍者学会大会の講演・発表要旨
今号掲載の論文要旨

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■御侍帳・家紋から考える(45)

2022-10-05 06:39:37 | 家紋

                                         

              肥後細川藩侍帳の部

藤本伊右衛門は、(南東39-12)藤本吉太郎家の7代目・伊衛門(治部左衛門)か? 家紋は「隅立角に■■」
藤本八助は、(南東39-7)藤本九左衛門家の7代目・添(八助)。家紋は同上  
藤本亀之允は、(南東39-11)藤本学之助家の6代目。家紋は同上  

福田勝助は、(南東39-17)福田権兵衛家の7代目・勝之助、文化十一年一月~文政十年十二月 用人 文政十年六月杢平ト改名。
       家紋は「丸に浜洲」「隅切り平角に浜洲」紋。  


福田久右衛門は、(南東39-17)福田権兵衛家の6代目・勇記(久右衛門)。家紋は「丸に三つ柏紋」  

福田一八は、【丹後以来】 (南東39-14)福田平八家の8代目。家紋は「隅切り立角に隅切り陰井桁紋」  

福田平左衛門は、(南東39-16)福田抱一家の 8代目・平左衛門(十郎右衛門・十郎左衛門)。家紋は「違い角紋」  

福田次左衛門は、(南東39-15)福田三郎右衛門家の7代目・寿八郎(次左衛門)  
         文政十一年三月~天保三年七月 八代郡代 家紋は「隅切り立角に左三つ巴紋」 

不破万平は、(南東39-5)不破源次郎家の5代目、名は昌之、萬平と称し、観翁と号す。藩に仕へて食禄三百石、使番、川尻作事頭、
       江戸留守居、奉行職等の数役を勤む。当時其名高し。 
       家紋は「杏葉紋」「丸に不文字紋」 

不破大作は、同上分家、(南東39-6)不破小兵衛家の3代目。文政五年頃葦北郡代を勤めた。家紋は同上。  
不破兵太夫は、(南東39-4)不破太直家の9代目・数太(平大夫・太直)
          文政十一年十二月(三拾挺頭)~天保十一年九月 中小姓頭
          天保十一年九月~天保十二年十二月(病死)小姓頭 家紋は「丸に不文字紋」
 

不破五郎右衛門は、(南東39-3)不破仁三郎家の6代目・大次郎(五郎右衛門)。家紋は「   」「伍文字紋」  

福間恵迪は、御医師 (南東56-25 医)福間東海家の5代目、御用人支配・外科、金瘡師役兼 百石御蔵米
       家紋は「■■文字紋」

古庄角之允は、(南東39-9)古庄三郎家の5代目、もしくは7代目。家紋は「三つ星紋」  

古庄養拙は、御医師(南東56-23 医)古庄養拙家の5代目。家紋は「隅切り立角に二つ丁子巴紋」    

古市宗庵は、御茶頭(南東59-4 茶・鷹・馬)古市宗安家の7代理庵(宗庵)。千利休の女婿・円乗坊宗圓の女婿・宗庵
       を初代とし、利休正統のお茶道を伝えた。後・茶道肥後古流・家元の家であるが、後高弟、武田智徳に継
       承せられた。家紋は「   」「上り藤に一文字紋」    

古屋十次郎は、(南東64-10 *)古屋台輔家の2代目重次郎。古屋昔陽 名は鬲、字は公款、重次郎と称し、昔陽と号す。愛日斎の弟
       にして江戸に住し子弟を教授す。後兄の後を継ぎ細川藩に仕へて食禄百石を賜り儒臣となる。
       家紋は「六角に唐花紋」  

古山常助は、(南東39--26)古山文内家の6代目。家紋は「隅切り平角に蔦紋」  

船津猪平太は、(南東39-27)船津東平家の2代目・猪平太(喜右衛門)か。家紋は「丸に隅立角紋」  

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■アオサギとカラス

2022-10-04 10:45:02 | 徒然

 ここ数日、肩の痛みと右足のこむら返りがあって散歩に出ていない。こむら返りで脹脛に張りがあって歩行がままならないし、肩の痛みで左手は振る事も出来ない。
実質身体障碍者状態である。
家を出るのは、ゴミ捨てで往復200mばかり、運動にはならない。
今日もゴミ捨てで出てみると、いつの名残か水無川のくぼみに水が溜まっている。
そんな中にアオサギが佇んでいて、大きなカラスと対峙している。いつも思うのだが、水無川だから日頃は川底は干上がっており、雨が降ると近くの排水溝の水が流れ込んで大濁流となる。
アオサギは下流の江津湖あたりから飛んできたのだろうが、魚はいないし早くお帰りと言いたいところだ。
カラスとみらめっこしていたが、私の気配を感じたのか更に上流部へ飛んで行った。
5~60mほどの上流の所に堰があり、それより上はよほどのことがない限り水が枯れあがる事はない。魚も多分いる事だろうからアオサギは良い選択をした。
そのアオサギが居た水たまりはどうも最近川底がえぐられたらしく、堆積物がなくなってASO4という溶岩流台地らしきものが露出していた。
先の大雨は一時間に満たない時間に40㎜程の大雨が降って、水無川(健軍川)は大濁流となった。
一面お花畑状態だった川底は、その時に川底がえぐられたらしい。

今朝ほども「生きとるね」「散歩はしよるね」と電話があった。
あと数日したら、お昼も27~8度くらいには落ち着くようだから、体の具合を見ながら散歩を再開しようと思っている。
皆様もお元気にお過ごしください。

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■Congratulations! 56号HR+三冠王

2022-10-04 06:43:56 | 熊本

 夕食後自分の部屋に入った奥方が手を叩き声を上げている。村上選手がHRを打ったなと瞬時に理解した。
「TV・TV・・・■■チャンネル」と騒がしい。  
打った瞬間は見れなかったが、両手を上げてパネルをかざしている姿を確認して、奥方に「良かったネ」と声を掛ける。
最近の奥方は村上宗隆・大谷翔平命と言った感じである。

 実は村上選手は東区御領(託麻南小→御領中)の出身でまさに地元の人である。
私流の興味としては、村上水軍の末裔で、細川藩士・村上氏の血族の人ではないかとひそかに思っている。

3年前■ヤクルトスワローズ・村上宗隆をかいた。違ったら大恥ものだが「熊日なんでも相談室」に連絡してみようか等と思ったりもした。
村上選手もいずれはアメリカに渡り、大谷選手と争うような大選手になるのではないか。
地元熊本は大いに沸いている。Congratulations! 56号HR+三冠王 

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■武衛とか羽林とか

2022-10-03 10:12:57 | 歴史

 どうも今年のドラマは人殺しの話ばかりだし、三谷幸喜のおふざけが過ぎてあまり見る気がしない。
我が熊本の偉人・横井小楠先生がまさしく北条の血を引いていることを想ったりしている。
小楠先生は北条時行の子孫、諱は「時存」(ときひろ・ときあり)、北条四郎平時存と名乗っていたようだ。

 さて最近のドラマでは、「武衛」「羽林」という言葉が登場していた。
武衛」という言葉が出てきたのは、佐藤浩市が演じた上総広常が酒の席で頼朝の名前を呼びたくなくて「武衛」と三谷幸喜は叫ばせている。
「武衛」とは右衛門府の長官、すなわち天皇をお守りする最高位の者を表す「唐名」である。もう大分以前「知ったぶりが金魚みて・・」ではないが、或るコメントをかいたら、「武衛」ではなく「武」が本当だから覚えておきなさいと注意を受けたことがあった。「近衛の衛も「衞」だからね・・」と言われたことを思い出す。
「衞」は「衛」の旧字だから、今日では残念ながら「武衞」「近衞」で検索しても引っかからない。
細川家家臣・津川家の初代・四郎右衛門辰珍は武衛家最後の当主・斯波義近銀(近)の二男である。

 昨日のドラマでは「羽林」が出てきた。実朝の仲良しの和田義盛が「羽林と呼んでいいですか」などと軽々しく声を掛けていたが、これも三谷流。
此方は「近衛府」の長官を唐名で「羽林」と呼んだことによる。
「羽林」といえば、細川忠利を思い出す。その法号が「妙解院羽林臺雲宗伍」。この「羽林」がどこに由来しているのか承知していないが、「侍従・少将」に叙任されているからか・・・?

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■半病人

2022-10-03 09:36:52 | 徒然

 コロナワクチンの二回目終了後あたりから、左肩から腕・手首にかけて痛みが続いている。
左の方へ寝返りでもしようものなら、痛みが消える迄小一時間は眠れない。
それに加えて「こむら返り」が相変わらずで、これをやるとまたしばらくは寝付けない。
毎日睡眠不足で、午睡が欠かせなくなった。
昨晩は奇跡的に寝返りの痛みも、こむら返りもなかったが、夢ばかり見ていたから睡眠は相変わらず浅い。
手を振って歩くことが出来ず、最近は散歩も控えている。冗談ではなく三角巾で腕をつろうかと思うくらいである。
気が付くと右手で左の手首を握って引っ張り上げたりしている。
幸いタイピングには今のところ支障はないが、長い時間がたつと左手首に痺れが来る。そのためにサポーターをつけたりしているが手首が温まってしばらくすると治まってくれる。
肩の痛みよりも、毎日の様に起こるこむら返りの方が悶絶するような痛さで、一昨日はこれを二度やってしまい悲惨極まりなかった。
奥方からは「半病人」といわれ、「病院に行きなさいよ」と再三言われるのだが、これだけ痛めつけられるとさすがに重い腰を上げずばなるまいと思いだした。

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■戦艦ポチョムキンの反乱

2022-10-02 10:37:36 | 歴史

 乃木希典という人物は、明治10年(1877)の西南の役に出陣し、軍旗を失くすという大失態を為した。時に28歳である。
そして28年後、日露戦争(1904)に於いては将軍として、莫大な死傷者をもたらしながらも、なんとか日本軍に勝利をもたらした。
「露」とするのは当時の帝政ロシアである。ポーランドやウクライナなどを含む膨大な領土を有していたが、190余年に及ぶ帝政の終焉の13年前のことであった。
日露戦争に於ける敗戦は、帝政ロシア崩壊の一因となったことは間違いない。
後にサイレントの映画「戦艦ポチョムキン」で知られる「ポチョムキン号の反乱」が起ったのが、日露戦争終結の1905年の事だ。
2月革命(1917)によりニコライ2世が退位して帝政ロシアは亡びた。
今般のプーチンによるウクライナ侵攻は、かっての帝政ロシア時代の残影である「大ロシア」構想によるものであろう。
映画「戦艦ポチョムキン」は1925年に作られた、帝政ロシア崩壊後の共産党のプロパガンダの作品だと言われるが、帝政ロシア崩壊のエネルギーを見事に映像化している。

 映画好きの方ならとっくに御存知の、ケビンコスナーの「アンタッチャブル」の乳母車が駅の階段を落ちていくシーン、大変印象的だがこれも「戦艦ポチョムキン」の二番煎じである。
オデッサの階段で、多くの民衆に帝政ロシア軍の兵士が発砲する中に、若い母親が優雅な乳母車に赤ん坊を乗せていて巻き込まれる。「撃たないで」という彼女の哀願の表情が印象的だが、容赦なく撃ち殺され、赤ん坊を乗せた乳母車は階段を弾むように下へ落ちていく。周りの人たちも銃弾の餌食になり、乳母車を止めようという人はいない。
反乱を起こしたポチョムキン号から発せられた砲弾が、帝政ロシア軍の牙城に着弾する。
圧政の下、市民たちの考えが変化して解放の原動力となっていく。

 この映画を見ていると、ロシアの中でまた「ポチョムキンの反乱」が起るのではないかという予感めいた気持ちが湧いてくる。
帝政ロシアの終焉がプーチン政権の終焉に重なってしまう。そしてあの長い/\オデッサ(ポチョムキン)の階段は今どうなっているのかと想像している。

 

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■ネズミが一匹死にまして・・・

2022-10-02 08:35:54 | 徒然

 終活を進めている中で、古いPCとかマウスとか処分してしまおうと思うが、何か捨てきれないでいる。
私のPCへの入り込みは、CADからスタートしている。建築設計のアイテムの変化は私の現役40年ほどの間で劇的に変化してきた。
製図板にT定規から出発して、ドラフターが出現、しばらくすると左右にスライドするアームに上下する定規がついたドラフターがでた。その後プリンターに連動するに及んで製図機械は小型自動車が買えるような価格のものになってきた。
PCが登場するとCADが普及し、ソフトがいろいろ開発され、やや大きめのデスクトップの画面をみながら仕事に励んできた。
PCもいろいろ使っては処分してきた。今では15インチのノートPCがあれば十分事足りる。
データの保存も随分変化してきたが、私が設計に携わった作品のデータ保存も多岐に亘っている。
これらも、すべてUSBに変換して保存し処分しようと思っている。

話がそれてしまったが、マウスも随分買い替えた。現在有線2と無線2のマウスが4種類あるが、無線マウスが壊れてしまった。
どうも電池の接触部分が痛んだらしく、使い慣れていたので現在のマウスにしたが、親指の少々上に変な機能を持つボタンがあって、時々意に反してこれに触れ作業に支障をきたしている。
又、買い替えようと思ったりするが有線のマウスもある事だから、しばらくは我慢しようかとも思う。シッポ付き、シッポなしを一つづつ残して古いPCとともに処分することにした。

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■かにかくに・・

2022-10-01 15:17:01 | 徒然

 処分しようと古い大学ノートをめくっていたら、下の歌が書かれてあった。なんで又という思いがある。           

           かにかくに渋谷村は恋しかり おもいでの山おもいでの川   啄木

石川啄木の「一握の砂」にある有名な句、中学時代「かにかく」つて何?と思いながらも諳んじていた。この歌が好きだという友達の影響を受けている。
内容的にはなんでもない望郷の歌のように思えるが、とにかく「かにかく」が効いている。意味は「あれこれと。何かにつけて。」

 「かにかく」といえば、京都祇園を愛してやまなかった吉井勇を偲んで、京都では「かにかく祭」なるものが催されるそうだが、勇の句碑に舞妓さんがお詣りするのだそうな。
それこそ一昨日のブログ「徒然なかはなし」にあった「だらりの帯の家紋」の舞妓さんたちが沢山集われたのだろう。京都の文化は豊かで羨ましい。

              かにかくに祇園は恋し寝る時も 枕の下を水の流るる   

こちらの「かにかく」は啄木とは随分様子を異にしている。啄木は苦学生、勇は華族さま、しかし二人は同時代の人で啄木が命尽きる迄のわずかな時期、大変親しかったという。
また、勇が通ったという「喫茶ソワレ」には、店先に彼の歌が表示されているそうだ。

              珈琲の香にむせびたるゆうべより 夢みるひととなりにけらしな   勇

これはもう10年以上前、ご厚誼いただいていたがお会いした事のないY氏が奥様と京都を旅し「ここを訪ねてひと時を過ごしてきました」とメールをいただき、そのことを知った。
良いご趣味だ。某藩主家の御一族だと御見受けした。
10年前のニュースだから確認してみると、まだ営業を続けて居られるらしい。文学趣味の方で大賑わいのお店らしい。
          

コメント
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