早稲田大学所蔵の原本「萩原堤修復工事」-2の左ページの3行目にこの文字がある。「木綿村木川」と読める。
本来は「木綿葉川(ゆうばかわ)」が正しく、明かな書き間違い(写し間違い?)であり、球磨川の古名である。
肥後文献叢書(一)「銀臺遺事」(p32)には「木綿柴川」とある。
細川靈感公(明治43年・宇野東風著)では「二十・球磨川堤防修築」の中に「木綿葉川」(p266)とあり、
肥後先哲遺蹟・巻一、稲津北地の項(p83)には「木綿葉川」とあった。
正解は「木綿葉川」なのだが、銀臺遺事では「木綿村木川」としているように、「葉」の文字を「柴」とよみ、早稲田大学所蔵の原本では「村木」と呼んでいるが、「柴」の崩しが「村木」にみえて書き写しを間違えたのであろうか?
私が若い頃、某設計事務所に勤めた時、一年数ヶ月人吉に某工事の監理のために常駐したことがあり、人吉の事は見たり聞いたりしていろいろ勉強をした。それゆえ「木綿葉川」が球磨川の古名であることは承知している。「ゆうば川」と読むが、綿の葉かと思わせるが「麻の葉」だとされる。
日本に綿がもたらされたのは江戸時代に入ってからの事であり、大方の人は「麻」を加工して着ていたというから、寒気を過ごすには大変難儀な事であったようだ。
往古、八代の人たちは木綿葉川に上流から「麻の葉」が流れてくるのをみて、その上流部に人が住んでいることを確認したという話がある。
みそぎ
藤原定隆の歌「夏来れば流るゝ麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ」はまさにそんな風景なのだろう。
人吉球磨地方には、「木綿葉」を冠したいろんな名前が存在していたし、八代の萩原堤下流の前川添いには「夕葉町」の名前が残る。
宝暦年間、木綿葉川と呼ばれていたことが、なにかロマンティックに感じられる。