津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■銀台遺事をよむ「萩原堤修復工事」-2(番外)

2022-10-17 06:29:38 | 先祖附

                            

 早稲田大学所蔵の原本「萩原堤修復工事」-2の左ページの3行目にこの文字がある。「木綿村木川」と読める。
本来は「木綿葉川(ゆうばかわ)」が正しく、明かな書き間違い(写し間違い?)であり、球磨川の古名である。

肥後文献叢書(一)「銀臺遺事」(p32)には「木綿柴川」とある。
細川靈感公(明治43年・宇野東風著)では「二十・球磨川堤防修築」の中に「木綿葉川」(p266)とあり、
肥後先哲遺蹟・巻一、稲津北地の項(p83)には「木綿葉川」とあった。
正解は「木綿葉川」なのだが、銀臺遺事では「木綿村木川」としているように、「葉」の文字を「柴」とよみ、早稲田大学所蔵の原本では「村木」と呼んでいるが、「柴」の崩しが「村木」にみえて書き写しを間違えたのであろうか?

 私が若い頃、某設計事務所に勤めた時、一年数ヶ月人吉に某工事の監理のために常駐したことがあり、人吉の事は見たり聞いたりしていろいろ勉強をした。それゆえ「木綿葉川」が球磨川の古名であることは承知している。「ゆうば川」と読むが、綿の葉かと思わせるが「麻の葉」だとされる。
日本に綿がもたらされたのは江戸時代に入ってからの事であり、大方の人は「麻」を加工して着ていたというから、寒気を過ごすには大変難儀な事であったようだ。
往古、八代の人たちは木綿葉川に上流から「麻の葉」が流れてくるのをみて、その上流部に人が住んでいることを確認したという話がある。
                        みそぎ

藤原定隆の歌「夏来れば流るゝ麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ」はまさにそんな風景なのだろう。
人吉球磨地方には、「木綿葉」を冠したいろんな名前が存在していたし、八代の萩原堤下流の前川添いには「夕葉町」の名前が残る。

宝暦年間、木綿葉川と呼ばれていたことが、なにかロマンティックに感じられる。

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■銀台遺事をよむ「萩原堤修復工事」-2

2022-10-16 10:01:27 | 先祖附

          右崩れ先 高二百間 横百間程築(突)上り是又崩れ落
          球广川突埋之候間 洪水却而逆流し水かさ三四十間程
          磧上小山抔ハ山上を水打越候程の水勢半時餘も右之 
          通にて程なく右突埋候所を洗い切押落候水勢一同
          に川下に溢れ候故 塘上道はゞ十五間餘横張四十間
          程有之候塘筋 悉崩れ申候 右は先祖越中守入国以後
          終(遂)に無之損にて別而水先之村々亡所におよひ溺死
          の者も多有之候旨注進仕候ニ付申上候 以上
            宝暦五年八月五日

      漸々水は落けれとも渺々たる曠原となりて又もや雨降り
      水かさ増らハ八代一郡の者ハ皆魚の餌に成ぬべくとぞ覚ける
      されば此堤速に築かずんば有べからず迚老臣評議す 扨此
          ゆうばがわ
      川は木綿柴(葉)川迚世に聞へたる大川なるか しかも球广の
      高山より落て流れの急なること矢を射るが如く 萩原の
      堤は其的になぞられけれは 是を築留ん事又なき大事
      なり 先主加藤肥後守忠廣の時 加藤右馬允正方迚文
      武兼備の老臣心力を盡して築立けり 今の世にハ正方程
      のものあるへくもなし いかがせんと案じ煩ひたるに稲津弥右衛門
      頼勝
迚郡目付たりける者進ミ出て 其正方とてもよも

      鬼神にては候まじ同じ人ならんにハ それがしたらん程の
     (事何条得せぬ事の候べき哉と云・・・)

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■横島山と干拓

2022-10-16 06:54:54 | 徒然

 今では玉名市に併合されたかっての横島町、天水町方面から唐人川をわたると右手に横島山(外平山とも)が見え、左は全くの高低差がない一面の干拓地である。
通り抜けて新大浜橋から、かっての岱明町に仕事で随分通った。

数日前から八代の干拓についていろいろ資料を見る中、高島や白島が熊本低山の三本指に入る事を書いたが、横島はまさに横島山がもともとあった位で一面の海で、干拓で出来た土地と言って過言ではない。
横島山も八代の低山同様往古は海の中の孤島だった。横島干拓・今昔・・1
ここは55.5mの標高があるから、熊本低山のランクではベストテンからは外れている。

9年前、横島干拓事業組合にご連絡して、いろんな資料やCDなどをお贈りいただいたことを思い出して、一生懸命探しているがどこに御隠れか姿が見えない。横島干拓関係資料
仕方なくWEBで検索してみると、玉名市教育委員会が発行する「玉名市の干拓遺産」という立派な資料があった。
私は、横島の干拓は昭和42年に完成した大掛かりな国営干拓以外の大方は、細川家三卿家老の有吉家が行ってきたものとばかり思っていた。
ところが大開という干拓には、細川内膳家が関わっていたことを思い出すとともに、或ることに合点がいった。
それは、恕斎日録の編者・中村庄右衛門が玉名郡代の時代の記録に、内膳家が関わった干拓地が台風で決壊、潮入りの被害を受けてその負担金の事でもめ、庄右衛門が尽力したことが記されていたことであった。
         ■文久三年「恕斎日録」(20)

多額の資金を負担し、多くの農地が完成したがこの土地の扱いはどうなったのだろうか。
幕末の不穏な情勢が伺える中、藩の貴重な蔵入地になったのではなかろうか。
これを確認しなければならないが、行方不明の資料を探し出さなければならない。

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■「熊本四街道」記念シンポジウム・御案内

2022-10-15 09:02:52 | 講演会

                                                         

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■熊本史談会10月例会講演会

2022-10-15 08:55:22 | 熊本史談会
                                                熊本史談会10月例会講演会の御案内

           期日:令和4年10月22日(土)午前10時~11時45分
           場所:熊本市民会館 第6会議室
           演題:「くまもとお大師廻り‐第二回 参勤交代の道」
           講師:熊本史談会顧問(熊本歴史研究会・熊本地名研究会会員)
                           福田 晴男 氏             
 
           一般参加自由:
             参加費 500円を(資料代を含む)申し受けます。
             資料準備のため事前にご連絡をお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤) 
             尚、開会前に当会例会を催しますため、入場は9:50頃からと致します。
             又、当日はコロナ対策の爲、マスクの着用とご記名をお願いいたします。
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■銀台遺事をよむ「萩原堤修復工事」

2022-10-15 06:58:01 | 書籍・読書

 八代の宝暦五年球磨川の大水害に伴う「萩原堤修復工事」の詳細を知りたいと思うが、詳しい史料に行き着かない。
稲津弥右衛門が7日間でこれを修復したというが、いつ頃始めたのかさえ判らない。
時の藩主・重賢は四月には参勤交代でこの時期は江戸在住であり、この大事は当然江戸に急使が送られたことであろう。
稲津弥右衛門に事を当たらせるのにも、江戸の重賢の決裁を得ているようだから、一月以上は時間が経過していると思われる。
そこで銀台遺事の該当項を読んでみようと思い至った。原本は「早稲田大学所蔵本」を使わせていただいた。
肥後文献叢書(一)に「銀臺遺事四巻」の釈文が掲載されているが、若干の食い違いが見て取れるが、これは使用された原本が違うことを意味する。ここでは早稲田大学原本に添い、特に脱落が認められるものは肥後文献叢書から( )書にて補筆した。

       

                                      (四行目から)
          宝暦五年當国の洪水こそ夥しかりき 六月朔日ゟ降出
          せし雨篠を束て突くが如く九日まておやミたにセす川々
          の水皆あふれけるに芦北瀬戸石山たちまちに崩れて
          球广川をせき留けれハ川浪逆巻て山を包ミ陸に登る
          といへる 古の程も今眼前に見へけるハ頓て其ときおし
          流し一同に川下の方へ出けれハ八代萩原といふ所の堤忽
          数十丁おし切りて田も畑も道もしれ万分らず神社仏閣を初
          人家数多流れ溺死する者数百人目も當られぬ有様
          そかし 此年は君東都にまし/\けれハ其よし注進す
          君則 懸官へ言上したまふ其状に曰
             私領分肥後の内六月朔日ゟ九日迄追々強雨洪
             水山崩破損之覚
         一高貮拾三万五百六拾石餘 潮入・砂利洗・剝山崩
             此田貮万千七百五十三町餘
             畑七千六百二十五町餘間
         一塩濱九十七町五反
         一塩塘三千四百十五

         一川塘   十三万ニ百九十間
         一井手塘堤 八万七千八百九十五間
         一水除石垣 八百五十間
        (一磧所   一万九千五十七間)
         一磧除棚(水除棚)四千二百八十七間
         一山崩(山岸崩所)一万七千百九十三間  
         一土橋   百五十五ヶ所
         一往還道筋 一万九千七百四十六間
                                 一井樋   百八十七ヶ所
         一流舟   百一艘
         一流失御番所 二ヶ所
         一同 社   二ヶ所 
         一同 辻堂  八ヶ所
         一八代蜜柑木之内 二百四十本餘
                    ママ
        (一流家   二千百十八間)
         一流木   三千ハ百二十二本
         一流死(溺死男女) 五百六人
         一怪我之者 五十六人
         一溺死牛馬 五十八匹
          右損耗破損之儀水引上り候上相改国許留守居之者ゟ
          申越候 右損所郡村之内芦北球广川筋に有之瀬戸石
          山 高サ二百間 横百間程崩落川向二有之御山に
                 (次回につづく)
              

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■明治初年・内坪井之図

2022-10-14 06:59:18 | 史料

 先に書いた「八代城町絵図」とともに、行方不明だった「明治初年・内坪井之図」がでてきた。
これは「平成肥後国誌」を発刊された高田先生がお持ちだったものを、お借りしてコピーしたものだ。
先生がお亡くなりになり、コピー原本がどこへ行ったのか判らない今、貴重な資料となった。
B2判よりやや小さい66×47.5という大きさのものだが、もともとの図面が相当暗いし、壁に貼って写真撮影してみたが光が回らず、ますます暗い写真になってしまった。
コピー屋さんに持ち込み、USBに落とし込もうかとも思っている。そうすれば必要な方にお分けすることも可能になりそうである。
その内にそれぞれのお宅に№を打って、またご紹介しようと思っている。しばらくお待ちの程を・・・・・ 

    ちなみに、左下やや上の部分に棒庵坂の書き込みが有りその右手に小豆坂がみえ、下ると蛇行する坪井川に折栴檀橋が架かっている。
西と書かれたやや上に東へ向かう道があるがこれが観音坂、橋の手前の左手にこの坂の名のゆらいとなった「観音堂」がある。
参勤交代はこの坂を下り、十字路を北へ進み右折、流長院南側からくる道の突き当りが松下家、外坪井(豊後街道)への出口を守った。
「東」の書き込みのやや下の道筋が「八百屋町」現在の広丁すじ、現在ではこれが西側の坪井川の大蛇行している処へ直進し、上熊本駅方面への幹線道路となっている。
下に「東」の書き込みがあるがこれは間違いで「南」が正解である。右手が千葉城である。

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■熊本弁講座・いなう

2022-10-13 11:32:02 | 熊本

 散歩道の途中にスーパーマーケットがある。日曜日や祝日はお休みというユニークな店だが、これは市場が休みだという事と、社会人野球の選手(熊本ゴールデンラークス)を店員として多く抱えて居り、その練習時間を確保するためらしい。
オーナーは九州アジアプロ野球リーグの「火の国サラマンダーㇲ」のオーナーでもある。今年はリーグで優勝した。
そんなお店はいつもの事だが、平日だというのに大賑わい、駐車場待ちの車も見えた。
通りかかると、私より年上と思われるご婦人が、荷物を背に担げて歩いている。向こうから自転車のご婦人がやってきて、知り合いと見えて声を掛けた。
「どうかああたは、荷物ばいのうて・・」「下げちいくと腕ん痛(いと)なるけん、こるがいちばんよか・・」

 久々に「いのう=いなう」という言葉を聞いた。「いなう」は「担う=になう」の熊本弁、もう死語に近い。
私はあまり熊本弁が好きではなかったが、娘が大学時代、方言の研究をされる教授の下であちこち出かけて、方言の採取、聞き取りをしていたことから、そういう対象で見るようになった。
大阪泉州地方や九州筑後あたりでも使うようだが、いつどこで、どのよような形で変化を遂げたのか興味深い。
いつまで残るのかを調べるのも面白かろう。がんばれ方言・・・

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■八代地図散歩

2022-10-13 07:53:09 | 先祖附

 相も変わらず左肩・腕の痛みが続き、夜中寝返りを打ったりすると目が覚めてしばらく眠れない。これが4・5回あるから睡眠不足が半端ない。
勢い昼間椅子に腰かけた状態でうとうとすることになる。
今朝も同様で4時ごろに痛みで目が覚めた。解決策は痛いことを意識せずに、気を紛らわすために他の事を考えることにする。
今朝は昨日ブログで書いた八代の城下町の事を考えて居た。

そういえば資料整理の中で、八代の「八代城絵図」はどこにいったのだろうと思い至った。
そうすると目はさえわたり、6時前には起き出して、まだ手がついていない押し入れの一画を探し始めた。
奥まったところに、長い紙の筒がいくつも入った段ボールがある。
ここにその「やつしろ文化財シリーズ④ 八代城跡保存管理計画-八代城町絵図」があった。A0版の大きな地図で、八代市街地図の上に旧城下の城跡・町筋がカラー印刷で落とし込んである。この地図を以て八代の町を歩いてみたいという願望があるが、あまりにもデカい。それこそ「ミウラ折」にでもしなければ、持ち運びは出来ない。
昨日の「八代城元和六年建築之圖」や、八代の干拓の歴史の絵図などをくらべてみると、その時代の痕跡が地図上に見て取れる。
熊本で一番低い「白島山(はくと山)19m」、高島は三番目だそうで33m、それぞれにそんな過去があったことを皆さんご存知だろうか。

宝暦6年には萩原堤が決壊し、稲津弥右衛門が7日間で1㌔に及ぶ堤を完成させたことは、今日でも語り継がれている。
先年の人吉・球磨地方の大水害は多大の被害をだし、県は数十年ほったらかしであった川辺川の治水問題を、ダム建設に大方向転換して計画が進行している。
この計画の中では、下流部八代の萩原堤の保全が一大命題となっている。

宝暦の大水害はこの萩原堤(当時はハゼ堤)を決壊させ、水は千丁村(現・八代市)まで達したというから、大蛸川に落ちたのだろう。
いろいろ妄想の世界に入り込み、地図散歩を楽しもうと思う。

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■八代松江城と高島・白島

2022-10-12 13:50:56 | 熊本

             

 元和六年、八代松江城は加藤清正臣加藤右馬允によって築城された。
この絵図がその当時を表すものだという。前川と球磨川の間に麦島があり、かってはここに小西行長の麦島城があった。慶長五年小西氏が滅んだあと肥後一国加藤清正がおさめることになると、加藤正方が城代として入城したが、元和五年地震により倒壊した。
これにより徳淵の津に近い場所に松江城(八代城)が建設された。隣国島津氏を睨んだ見事な城である。
八代は「干拓の町」とも言われるが、松江城の完成当時は図の如く、西に八代海が広がり高島が望まれた。
高島(標高33m)は現在八代の「低山」として「白島」(標高17m)とともに脚光を浴びているが、松江城西部の干拓により、文化13年の高島新地の造成完了と共に陸地化した。
一次干拓は延宝元年・松井直之によって行われた高子原新地の造成である。高島新地の造成は松井微之によって行われた。
現在の県道八代不知火線を限りとした。それに続く郡築新地の造成は明治に入り37年の事である。沖にある「白島」がこの時期陸地化された。
現在の「松浜軒」(松井家お茶屋)は松井直之が元禄元年に母の為に建設したものだが、干拓の為に八代海が様変わりした後だが、かろうじて高島や白島は八代海の小島として存在していた。
移り変わる八代の風景が面白く思える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
NHKでは現在「日本百低山」を放送しているが、「熊本の低い山」を取り上げたのは、熊本のRKKの名物番組「土曜の番組」だった。
「各地の低い山を登る」という下らぬ企画が受けた。■愛宕山より低い山

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■雑感・先祖附

2022-10-11 17:48:20 | 先祖附
 
■先祖附の内容

 永青文庫が収蔵する「先祖附」は、正徳四年(1724)四月に命が下されて作成に至っている。綱利最晩年の事である。(11月死去)大概の書き出しは「先祖何某」とか「私曽祖父何某」......
 

 一年前こんな記事を書いているが、今回遭遇したK家一族3家の内の二男家の先祖附では新発見があった。
大概は嫡家が遠祖以来の事を詳しく書き、兄弟家、分家などはそれに倣うという事が殆どである。
処がK家の場合は二男家の先祖附に詳細が書かれていて、嫡家である祖母の実家の先祖附を補強することが出来た。
どうやらこれは、初代に男子がなく藩主の命により外孫に継承されたことが理由ではないかと考えられる。
私の推測だが、初代は案外二男家に3名の男子があったから、誰かを養子にしようと考えていたかもしれないと想像していたのだが、藩主の命があればこれに従うほかない。


 一年前の上記記事の様に、「先祖附」がまとめられるのは正徳四年の頃であるから、4代目くらいになっている。そうすると分家筋などとの交流が疎かになっていると、遠祖の情報などを知らないで時を経たのではないかと思われる。
そしてその時間の経過は、兄弟や分家などの環境を越えて、それぞれの能力でその家の繁栄がみられたり、あるいは没落したりという現象が見えてくる。
私の「新・肥後細川藩侍帳」では、一族5~6家あるお宅などは、初代の兄弟順に記載するようにしているが、同じ苗字でも同族かどうかが先祖附ではよく判らない場合もあり、「家紋」などをチェックしてみると同族だったりして侍帳の記載順番の入れ替えなどの作業をしなければならないケースがある。
なかなか完成形にたどり着けないでいる。

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■顕光院と娘・勇姫

2022-10-11 11:52:11 | 徒然

   熊本県立図書館1階の一番奥まった南西の角の庭に面した部屋は、かってここに細川家のお屋敷があったおりには、細川齊護室の顕光院の居室跡に位置している。
床にはその間取りが表してある。
顕光院は安藝広島藩(426,000石)の松平(浅野)安藝守齊賢の女・益姫である。江戸藩邸に生まれ19歳で細川齊護に嫁いだ。
その実の娘が松平春嶽(慶永)に嫁いだ勇姫(いさひめ)である。慶永は田安家の出身だが、この婚姻については「慶永の生家である田安家老女から、慶永の叔母であり勇姫の祖母にあたる第9代熊本藩主・細川斉樹の正室・蓮性院附きの老女に対して内談があった。」とウイキペディアは解説している。
蓮性院は一橋家の徳川治済女・紀姫だが、蓮性院が松平慶永の叔母になるというのが良く理解できない。
一橋治済は将軍・家斉の実父である。蓮性院は家斉の妹だから、細川斉樹は将軍家斉とは義兄弟である。
一方、慶永は養子だが、越前松平家の先代藩主は一橋治済の24男だから、血のつながりはないが蓮性院は義理の叔母となる。(多分このことであろう)
紆余曲折があって勇姫は越前松平家に嫁いだ。

 江戸に生まれた浅野益姫は細川家に嫁ぎ、その娘細川勇姫は松平越前家に嫁いだが、それぞれは江戸城周辺の至近距離に屋敷がある。細川家・松平越前家は大名小路のなかにあり、道三橋をわたると数百メートルと離れていない。
浅野家は井伊家の隣である。それぞれ大名夫人は江戸に在って交流はあったであろう。

 幕末に至り参勤交代が緩和され、大名夫人の江戸住まいが解放されると、それぞれの夫人たちは国元へ帰国することになる。
顕光院は義娘(故・細川慶前室)鳳臺院と共に、陸路長い道中を経て、それぞれが初めてお国入りした。
顕光院はその途次、広島の浅野家にも立ち寄っているが、その接待は確かなものではなかったらしく、国境から御国入りすると、細川家の歓迎ぶりは大変なもので、御供の女中衆などは歓声を上げたと、接待役を勤めた郡代・中村庄右衛門はその記録「恕斎日録」に記している。
顕光院は二の丸の御屋敷に入られたらしい。その跡を追うように細川斉樹室の蓮性院も帰国、こちらは花畑邸に入られた。
その後、江津湖河畔(現・熊本県立図書館)の御屋敷に入られた。顕光院の晩年、病の知らせが越前松平家に入ると、娘の勇姫は汽船に乘り、こちらも初めて熊本の地に入り、江戸を離れて久しく母顕光院を見舞われた。
顕光院には三人の女子が生まれたが二人は夭折しており、勇姫は末の姫で思い入れも如何許りかと思われる。
そして顕光院は夫を失い、娘とも遠く離れ、生まれた東京や故郷広島からもはなれた異郷ともいえる熊本の地で、明治8年7月20日亡くなられた。
勇姫の熊本入りは、今生の別れのお見舞いであった。



                        +----細川立之----立政==立芬
        |   ‖    (斉護
        |   ‖
        |老中・土井利厚女・福(栄昌院)
一橋家     
  徳川治済---+-----徳川家斉--+
                                                    
        +------蓮性院            *(顕光院の子ではない)
        |   ‖                   +----慶前 室・鳳臺院
     細川齊茲-----+----斎樹=====斉護        |   
                       |   ‖-------+----慶順(韶邦)
          浅野斉賢ーーーー顕光院    
                     +----勇姫
               家斉22男      ‖
  松平越前家   斉承====斉善====慶永(春嶽)     

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■狩野是斎のコネクション

2022-10-11 07:16:42 | 先祖附

    昨日は狩野家の狩野俊太上申書の読み下しにチャレンジしてみた。
祖母の実家・狩野源内家の「先祖附」には見受けられない記述が「狩野俊助家」の先祖附に見られ、夫々の家の当時の奉公に対する苦労ぶりが確認できた。
初代甚斎と弟・平左衛門は日向縣(延岡)の城主・高橋右近大夫、息・左京進に仕え甚斎は家老職を勤めたらしいが、高橋家が改易になると、甚斎は親交があったと思われる柳生但馬守・宗矩の許に引き取られている。
但馬守と細川忠利は大変懇意の間柄であり、その推挙があって細川家に仕えた。
甚斎は忠利の側近であったようで、そのことを示すいろいろな資料が存在する。
甚斎には男子がなかったようで、松山家に嫁いだ娘の嫡男をもって狩野家を継がしめたのは忠利の意向であったことも、資料が残されている。
一方、弟平左衛門については、高橋家改易のあとは、筑後の田中吉政に仕えたが、吉政の逝去後は田中家は御取つぶしになる。
又の浪人暮らしとなった平左衛門は、但馬守の口添えにより細川家に仕官、三人の息子もそれぞれに仕官するに及んだ。
甚斎の柳生但馬守とのコネクションが、狩野源内家・俊太家・庄馬家の仕官の道を拓いていた。

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 (家祖上総介嫡男)
    狩野是斎
と申者高橋家より浪人仕居候惣躰柳生但馬守様御懇意筋

 目有之候付是斎儀は但馬守様御引取被爲置候
 妙解院様御在江戸之砌但馬守様より御直ニ是斎儀被成御頼候処即刻可被召抱旨被遊
 御意御懇情ニ被仰付昼夜御側ニ被召仕御奉公申上候処豊前御帰着之上於小倉弐拾人扶持
 并御合力米現米百石被為拝領候 然処
 妙解院様被遊 御意候は兄弟共有之由但馬守様御物語ニ而被爲
 聞召上候由委敷可申上旨被遊 御意候付弟平左衛門と申もの高橋家より浪人仕
   候後田中家江奉公仕候処筑後守殿御逝去之砌又之浪人仕候訳并男子三人之者共之儀具ニ申上候処
   加賀山主馬江被仰付早速可被召抱旨被仰出右平左衛門并嫡子仁右衛門江先浪人分ニ被為
   拝領旨被遊   御意御扶持方弐拾人扶持被為拝領候 右平左衛門父子被召抱候節弟共は追々可被召出旨被遊
   御意候 其後二男小源太と申者被召出御扶持方御合力米被為拝領候 吉田御屋敷御番被 仰付候

   平左衛門儀は心はせ抔度々有之由被為聞召上沢村大学江吟味可仕旨被 仰付候ニ付
   委細之様子具ニ被承届言上仕候処御懇情之被爲添   御言葉候 右平左衛門當御國江御供仕御奉公
   相勤候内寛永十年九月朔日於阿蘇郡之内御知行五百石被為拝領外様御弓弐拾張被遊
   御頭長岡右馬助組被召加候 其節被為頂戴候御書出今以所持仕居申候 其後三男四兵衛
   猶又被 召出御知行百五拾石被為拝領八代御城附被 仰付候

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■なんでも鑑定団・加藤清正書状

2022-10-10 07:01:10 | 歴史

         
                    テレビ画面を写してみました。

 熊本では昨日放映されたなんでも鑑定団に登場した「加藤清正の書状」、内容は有名なものでよく知られたものです。
本物は群馬県立歴史博物館に委託現存しますから、写しであろうことは予想されましたが、これは本物かと見まごうばかりのなもの・・・
解説の東邦大学教授・増田孝先生によると、修史局(東京大学史料編纂所の前身)で寸分の違いなく作成されたものだろうとの事、評価は60,000円でしたが、見事なものでした。
ちなみに、この内容は天正十九年四月廿四日、聚楽第に居る清正から下川文左衛門に宛てたものです。
古城・隈本城普請に当たる人々の心労に対し、心配りの言葉を残しています。

                    返々万事一かきのほかニても、可然事相心へ可申付事、清正事も下国
            候ハん事ニ候へ共、いかにも下候てハ爰元なりかたく候間、七八月な
            らてハ下候ましく候間、内々ニて其心へ候て、今下々と申候て万可申
            付候、以上
          態申遣候、先度のもんとう具、少もいそきのほせ候へく候事
        一、未進方ゆたんなく納か申候事
        一、米大ッ共ニ二万石のふん、とうねん七月以前ニのほせ可申候、おそく候へは、
          うり候事ならす事
        一、はたへ申遣候さいもくの事、少もいそき可申候事
        一、其元石くら并ニ作事なと、ゆたん候ましく候事
        一、本丸ニおうへたて可申候、ざいもく用意させ候ておき可申候事
        一、てんしゆへ之はし出来候や、さ候ハゝ大川のはしかけさせ可申候事
        一、かうさく方之事
        一、おうへかたへしよさい候ましき事
        一、爰元ふしん大儀ニ候て、下々まてしんろうをさせ候間、其元ゆたんくせ事
          たるへく候、大物入ニて候間、万事其心へ尤候事、かしく
           四月廿四日
                          しゆらく
                                             より
             下川□左衛門殿        清正

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追記:後で気付いたことだが依頼者は、群馬県の四万温泉の「四万温泉 鹿覗キセキノ湯 つるや」の女将だった。
   現物が群馬県立歴史博物館に寄託されているという事は、「特別史跡熊本城跡総括報告書ー歴史資料編・資料解説」の
   「資料33-加藤清正自筆資料」に書かれている。
   偶然にも同じ群馬県であることに驚いたのだが、寄託されているという事は現物の所有者が居られるという事だろう。
   関係がお有りではないのかとふと思った。

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■不愉快な毎日

2022-10-09 18:10:13 | 徒然

 左肩・腕・手首の痛みが慢性化して、四六時中どんよりした痛みがつづいて不愉快の極みです。
寝ていても、いつも左手をどう置けば一番楽かを考えて居て、これを失敗すると痛みが小一時間はねられません。うっかり寝返りでも同様です。
昼食後、夕方など睡眠不足で椅子で寝入ってしまいます。
押さえてもどこが痛いという訳でもなく、ただ痛く、痛みがあちこち動き回ります。二の腕と手首はタイピングのせいでしょう。
そう考えると、すべての痛みがタイピングが原因かもしれません。
入浴のとき、シャワーの熱いお湯をかけると、一時的に治まる所を見ると、血行が影響しているようです。
今タイピングしている最中にも、どんよりした痛みの中に時折ぐっとくる痛みが襲います。
三角巾で手をっておきたい感じがします。揺れると痛いので、今日は散歩を控えましたが、家の中でも右手で抱え込むようにしています。
いよいよ病院に行かずばなるまいと思い至りました。(遅い・・・)

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