Sightsong

自縄自縛日記

石田幹雄『時景』

2018-05-02 13:44:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

石田幹雄『時景』(GAIA Records、2017年)を聴く。ようやくライヴ会場で入手した。

Mikio Ishida 石田幹雄 (p)

石田幹雄はいつもそのたびに、新たな言語を生み出す。ドゥルーズ=ガタリふうに言えば新たな数列を創出する。和音のchord、言説やルールの論理が依って立つcodeのいずれのコードをもその場で作りだす。

その状況証拠がライヴでの苦悶し苦闘しながらの演奏だ。この珠玉の、あまりにも美しく、文字通り独自のピアノの音は、それなくしてはこの世で形にならなかった。本盤でも石田さんの声が背後に聴こえてくる。定さんが「彼がどれほど苦しげに音を絞り出しているか、一つの音を生み出すためにどれほど全身全霊を傾けているか、その目で確かめてほしい。」と書く通りである(>> JazzTokyoにおけるレビュー)。

どの一部分、どの断面も何にも似ていない。

●石田幹雄
松風鉱一カルテット+石田幹雄@新宿ピットイン(2018年)
齋藤徹 plays JAZZ@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
後藤篤『Free Size』(2016年)
松風鉱一カルテット+石田幹雄@新宿ピットイン(2016年)
田村夏樹+3人のピアニスト@なってるハウス(2016年)
松風鉱一カルテット+石田幹雄@新宿ピットイン(2015年)
5年ぶりの松風鉱一トリオ@Lindenbaum(2013年)
纐纈雅代 Band of Eden @新宿ピットイン(2013年)

松風鉱一カルテット@新宿ピットイン(2012年)
寺田町の映像『風が吹いてて光があって』(2011-12年)
吉田隆一+石田幹雄『霞』(2009年)
石田幹雄トリオ『ターキッシュ・マンボ』(2008年)


『While We Still Have Bodies』

2018-05-02 10:35:43 | アヴァンギャルド・ジャズ

『While We Still Have Bodies』(Neither/Nor Records、2016年)を聴く。

CDで聴きたかったのだけど、昨年末に来日したベン・ガースティンに訊くと、持ってくるのを忘れてしまった、と。あまり動けない機会でもあるし、bandcampのデジタルアルバムで。

Ben Gerstein (tb, radio, cell phone)
Sean Ali (b, cassette player)
Michael Foster (ts, ss, cassette player)
Flin van Hemmen (perc, mp3 player)

本盤が録音された前年の2015年に屋外でのライヴを観たときには、マイケル・フォスターとベン・ガースティンの管楽器ふたりによるトリッキーな演奏に注目していた。フォスターの声は多彩で、サックスを地面に付けて吹いたり、ペットボトルを朝顔に入れたり(本盤でも水がぶくぶくいう音はかれによるものか)。ガースティンもやはりトロンボーンという楽器に縛り付けられないユニークな演奏であり、フォスターと一緒に口琴を弾いたりもした。

ここでもその印象は強くなるのだが、一方、そのときには脇役的に視ていたショーン・アリのベースとフリン・ヴァン・ヘメンのドラムスもかれら同様にユニークだと思えた。何しろ、ガースティンに、前観たけどそのときはヘメンじゃなかったよねと言ってそりゃ誤解だと完全否定されたくらい。

アリのサウンドへの関わりはかなり繊細なもので、音色は幅広い。フォスターらの発する音に即応している様子がよくわかる。また、ヘメンのドラムスはこれ見よがしなものではなく、確かに蓮見令麻さんが書いたように、「音の手触りには深く自然な充足感がある」のだ。かれらの貢献があって、このバンドのサウンドが一聴人工的なものであっても、それが自然の中における人間の振る舞いだと感じられるものになったに違いない。

●参照
「JazzTokyo」のNY特集(2017/4/1)(マイケル・フォスター+リチャード・カマーマンの「The New York Review of Cocksucking」)
「JazzTokyo」のNY特集(2016/5/1)(マイケル・フォスター+レイラ・ボルドレイユ『The Caustic Ballads』)
While We Still Have Bodies@Children's Magical Garden(2015年)
イングリッド・ラブロック UBATUBA@Cornelia Street Cafe(2015年)
イングリッド・ラブロック『ubatuba』(2014年)