「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」加藤陽子
著者は、大学教授。
近代史が専門。
本作品は、高校生を相手に、5日間にわたって講義した記録である。
非常に丁寧、分かりやすく説明されている。
単に講義するだけでなく、質問が出て、高校生が答える、という授業形式。
一方通行でなく、双方向の関係。
内容もハイレベル。
よく、高校生がついていった、と思う。
それも、そのはず。
栄光学園・歴史研究部のメンバーを相手にしている。(ちなみに、加藤先生は桜陰高校出身・・・女子校では全国トップの進学校)
読んでいて、目からうろこの数々。
(講義を受けた高校生がうらやましい・・・この本は、教科書の副読本にしてもいいくらい)
ネット上の紹介によると、
『今までになかった日本近現代史の本。日清戦争から太平洋戦争まで。歴史の面白さ・迫力に圧倒される5日間の講義録』、とある・・・そのとおり、と思う。
内容は、序章+5章ある。
序章 日本近現代史を考える
1章 日清戦争―「侵略・被侵略」では見えてこないもの
2章 日露戦争―朝鮮か満州か、それが問題
3章 第一次世界大戦―日本が抱いた主観的な挫折
4章 満州事変と日中戦争―日本切腹、中国介錯論
5章 太平洋戦争―戦死者の死に場所を教えられなかった国
私が興味深く感じた箇所を、いくつか紹介する。
P63-64、なぜトロツキーでなく、スターリンが選ばれたのか?
この人たち(ボリシェビキ)は、1789年に起きたフランス革命が、ナポレオンという戦争の天才、軍事的なリーダーシップを持ったカリスマの登場によって変質した結果、ヨーロッパが長い間、戦争状態になったと考えていました。
(中略)
レーニンが死んだとき、軍事的なカリスマ性を持っていたトロツキーではなく、国内に向けた支配をきっちりやりそうな人、ということでスターリンを後継者として選んでしまうのです。
(そうだったのか!確かに、スターリンは「支配」をきっちりした・・・やりすぎたけど。スターリンの「粛正」の犠牲者は数百万と言われる)
(中略)
一つの事件は全く関係のないように見える他の事件に影響を与え、教訓をもたらすものなのです。しかも、此処が大切なところですが、これが人類のためになる教訓、あるいは正しい選択であるとは限らない。
P78、ベトナム戦争の遠因
満州事変、日中戦争の時期においてアメリカは、中国の巨大な市場が日本によって独占されるのではないか、門戸開放政策が守られないのではないかと考え、中国国民政策を支持してきたわけです。それが、せっかく敵であった日本が倒れたというのに、また戦中期に大変な額の対中援助を行ったのに、49年以降の中国が共産化してしまった。
これはアメリカにとっては、嘆きであったでしょう。10億の国民にコルゲート歯磨き1本売っただけで、10億本分儲かる、とはよく言われた冗談ですが。こういった景気のよい資本主義的な進出ができなくなる。この中国喪失の体験により、アメリカ人のなかに非常に大きなトラウマが生まれました。戦争の最後の部分で、内戦がその国を支配しそうになったとき、あくまで介入して、自らの望む体制つくりあげなければならない、このような教訓が導きだされました。ですから、北ベトナムと南ベトナムが対立したとき、南ベトナムを傀儡化して間接的に北ベトナムを支配するのに止まるではなく、北ベトナム自体を倒そうとするわけです。
以上が、ベトナム戦争にアメリカが深入りした際、歴史を誤用したという、アーネスト・メイの解釈です。
(う~ん・・・ベトナム戦争の遠因が、「中国喪失」にあったとは!しかも、いまだに引きずっているし)
P166、日露戦争の原因
日露戦争が起きたのはなぜかという質問への答え方には、時代とともにかなり変化があったのです。
(中略)
戦争を避けようとしていたのはむしろ日本で、戦争を、より積極的に訴えたのはロシアだという結論になりそうです。
(2005年国際会議、ルコイヤノフ先生の報告・・・このところは、実際読んでみて・・・私は逆だと思っていた)
P174、代理戦争
日清戦争は帝国主義時代の代理戦争でしたが、日露戦争もやはり代理戦争です。ロシアに財政的援助を与えるのがドイツ・フランス、日本に財政的援助を与えるのがイギリス・アメリカです。
P238、血脈について
吉田茂は自分の妻のお父さんが、パリ講和会議で次席全権大使を務める牧野伸顕だった。(中略)岳父である牧野に連れて行ってくれと頼み、1918年にパリに旅立つのです。
(牧野伸顕は大久保利通の二男である。麻生太郎は牧野伸顕の曾孫・・・権力者の血脈が絡まり合っている)
P241、アメリカ人は「折れた葦」
ケインズは、ドイツから取り立てるべき賠償金の額をできるだけ少なくするとともに、アメリカに対して英仏が負っている戦債の支払い条件を緩和するよう求めたのです。しかしアメリカ側は、このような経済学が支持する妥当な計画に背を向け、とにかく英仏からの戦債返済を第一とする計画を、パリ講和会議において主張したのです。
1919年の時点で、ケインズの言うとおりに、寛容な賠償額をドイツに課していれば、あるいは29年の世界恐慌はなかったのではないか、このように予想したい誘惑にかられてしまいます。そうであれば、第二次世界大戦も起こらなかったかもしれません。けれども、ケインズの案は通らなかった。その結果ケインズは「あなたたちアメリカ人は折れた葦です」という手紙を残してパリを去ることになりました。
P254、関東軍とは?
満州事変のほうは、二年前の29年から、関東軍参謀の石原莞爾らによって、しっかりと事前に準備された計画でした。関東軍というのは、日露戦後、ロシアから日本が獲得した関東州(中心地域は旅順・大連です)の防備と、これまたロシアから譲渡された中東鉄道南支線、日本はこの鉄道に南満州鉄道と名前をつけましたが、この鉄道保護を任務として置かれた軍隊のことをいいます。
P266
長谷部恭男先生の説・・・どんな時に戦争が起きるか?
ある国の国民が、ある相手国に対して、「あの国は我々の国に対して、我々の生存を脅かすことをしている」あるいは、「あの国は我々の国に対して、我々の過去の歴史を否定するようなことをしている」といった認識を強く抱くようになっていた場合、戦争が起こる傾向がある、と。
(これって、現在の韓国、中国の人たちが日本をそう思っているのに近い?そして、日本はその状況を察して憲法解釈を変えた、ということ?カウントダウン始まってる?)
P267、満州とは?
満州というのは「あて字」で、もともとはManjju(マンジュ)と発音する民族が住んでいた地域に対し、ヨーロッパ人や日本人などが、その発音に漢字の音をあてて「満洲」と書き、それが慣用的に戦後の日本では「満州」と表記されるようになったものだといいます。
P323、日本切腹、中国介錯!
日中戦争が始まる前の1935年、胡適は「日本切腹、中国介錯論」を唱えます。すごいネーミングですよね。日本の切腹を中国が介錯するのだと。
(この箇所はすごい・・・最後にリンクしておくから読んでみて)
P394-396、分村移民について
国や県は、ある村が村ぐるみで満州に移民すれば、これこれの特別助成金、別途助成金を、村の道路整備や産業振興のためにあげますよ、という政策を打ちだします。
このような仕組みによる移民を分村移民というのですが、助成金をもらわなければ経営が苦しい村々が、県の移民行政を担当する拓務主事などの熱心な誘いにのせられて分村移民に応じ、結果的に引揚げの課程で多くの犠牲を出していることがわかっている。
(中略)
満州からの引き揚げといったとき、我々はすぐに、ソ連軍侵攻の過酷さ、開拓移民に通告することなく撤退した関東軍を批判しがちなのですが、その前に思いださなければならないことは、分村移民をすすめる際に国や県がなにをしたかということです。
P399、日本とドイツの食糧事情について
戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つだと思います。敗戦間近の頃の国民の摂取カロリーは、1933年時点の6割に落ちていた。40年段階で農民が41%もいた日本で、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。日本の農業は労働集約型です。そのような国なのに、農民には徴集猶予がほとんどありませんでした。(中略)
それにくらべてドイツは違っていました。ドイツの国土は日本にもまして破壊されましたが、45年3月、降伏する2ヶ月前までのエネルギー消費量は、なんと33年の1、2割増しでした。むしろ戦前よりよかったのです。
【満蒙とはどこか?】P154
P268↓
満州事変・・・柳条湖は奉天の近く
日中戦争・・・盧溝橋は北京郊外
【まとめ】
学者らしく、文献に徹底してこだわっている。
タイトルを見て、この歴史の分岐点で別な行動をとっていたら、戦争を避けられたのか?、といった仮定の話を期待したら裏切られる。少しは出てくるけど、メインの論点ではない、そこが、ジャーナリストの作品とは異なるところで、内容も硬い。
でも、この本は面白く読む価値もある、と思う。
著者の歴史に対する情熱を感じて読み進む事が出来る。
様々な文献も記載されていて、次のステップも示されている。
【参考リンク】
日本切腹中国介錯論