「死を想う われらも終には仏なり」石牟礼道子/伊藤比呂美
石牟礼道子さんと伊藤比呂美さんの対談。
それだけで、(このテーマにもかかわらず)わくわくする。
どうして、このような対談をされたのだろうか?
あとがきに、次のように記されている。
P207
親が年老いて、死というものについて考えはじめたのが2年前、今、要介護五の母は入院して寝たきり、要介護一の父は家で独居、身の回りの世話は毎日1時間ずつのヘルパーさんに頼っている。わたしはほとんど1月おきに、カリフォルニアの家族と熊本の両親の間を行ったり来たりしている。
このような状況から、伊藤比呂美さんは「死とはどういうものか」と考えるようになった。
いったい誰に聞いたら、あけすけに語ってくださるだろう?
石牟礼道子さんなら、どうだろう?
そんな訳で、この対談が企画された。
P87
南無阿弥陀仏とは・・・
伊藤 それは、お経じゃない、なんて言うんですか。
石牟礼 「六字の名号(みょうごう)」と言いますね。
P110
「流流草花」(るーるーそーげ)と言う言葉は石牟礼道子さんの創作、とのこと。
そうだったのか!
山岸凉子作品に、同名の「流流草花」があるが、石牟礼道子さんの作品から拝借していた、という事が判明した。
即ち、山岸凉子さんは「あやとりの記」(1983)を読んで、自伝マンガ作品「流流草花」をASUKA1986年7月号に描かれた、と。
P114
石牟礼 お経を集団で詠むことを「声明」(しょうみょう)って言いますね。天台宗の声明が一番いいと言われているけれど、それで宗派によって、同じ『正信偈』(しょうしんげ)でも、ちょっと節が違うんです。
P136
この辺りから、本来のテーマから逸れて、「梁塵秘抄」や後白河院の話が中心になり、
どの歌が好きか、とか趣味の話に移行していく。(それはそれで面白いんだけど)
P188
石牟礼さんが子どもの頃のエピソードが語られる。
すぐ近くに末広という女郎屋があったそうだ。
七夕の日には大きな七夕さんが立ったそうだ。
石牟礼道子さんは母に、次のように尋ねたそうだ。
石牟礼 「末広の姉様たちは、なんば書きなはったやろか」って・・・・・・。
「良か夢なりとも、くださりませ」と書きなはるに違いないと母が言ってました。現世では良かことは来ないわけですから、夢でなりと、良か夢が来ますようにと、書きなはっとじゃなかろうかと。
伊藤 石牟礼さんも、そこに書かせてもらいました?
石牟礼 書きよりましたよ、一生懸命。
伊藤 なんて書きました?
・・・なんて書いたと思いますか?
小さな女の子なら、普通、夢のあることを書く、と思われる。
ところが石牟礼さん、想像を絶することを書かれている。
・・・「我に七難八苦を与えたまえ」、と。(山中鹿之助か!!)
【梁塵秘抄より】
「暁静かに寝覚めして、思えば涙ぞ抑え敢へぬ、儚く此の世を過しえは 何時かは浄土へ参るべき」
「をかしく舞うものは、 巫(かうなぎ)小楢葉(こならは)車の筒(どう)とかや、平等院なる水車、囃せば舞ほ出づる蟷螂、蝸牛」
【参考リンク】
本作品は、先日紹介した「「先生!どうやって死んだらいいですか?」の姉妹編。
対で読むと良いでしょう。
→「先生!どうやって死んだらいいですか?」山折哲雄/伊藤比呂美
・・・おおざっぱに言って、こちらは、自分自身どう死ぬか、どう向き合うか、がテーマ。
本作品「死を想う」は、死に逝くものをどう送るか、死とは何か、が語られる。
【ネット上の紹介】
寝たきりの母を持つ詩人は、死とはどういうものか知りたかった。他の人にあけすけに聞けない、「でも石牟礼さんなら」。これまで多くの苦しみと死を見つめてきた作家は、切実なことをぐさりと言われたような気がした。こうして十二月の穏やかな日、二人は語りはじめた。老いと病、介護・看護、家族の死、さらには『梁塵秘抄』。そして「いつかは浄土へ」という祈りに至る安らぎの対話。
[目次]
第1章 飢えと空襲の中で見たもの(パーキンソン症候群―読めなくなる、書けなくなる
声が出なくなるかもしれない ほか)
第2章 印象に残っている死とは(祖母の死
あの世は「良か所」 ほか)
第3章 それぞれの「願い」(『あやとりの記』―流々草花
お経はどこで習いましたか ほか)
第4章 いつかは浄土へ参るべき(『梁塵秘抄』を飛び飛びに読む
「我等も終には仏なり」 ほか)