原題:『ICE』
監督:ロバート・クレイマー
脚本:ロバート・クレイマー
撮影:ロバート・マコーヴァー
出演:トム・グリフィン/ポール・マクアイザック/ダン・タルボット/バーバラ・ストーン
1969年/アメリカ
「説話」の必要性について
例えば、冒頭部分においてメキシコ解放戦線グループのリーダーであるテッドが出会う英語教師のレズリーがやがてメキシコ解放戦線のゲリラ活動に関わることになる原因として彼女の弟で兵士だったラリーが戦死したことや、そのテッドが警察に銃殺された後を引き継いだジムが、警察に撃たれて負傷した仲間のダイアンを自宅に匿うことで、ジムがそれなりの裕福な家庭の出自を持つようなことは分かるものの、それ以外のメンバーのプロフィールが描かれることはなく、真剣になってストーリーを追うことはかなり困難を伴う。ラストもメンバーの一人が公衆電話をかけていた後に、唐突に「ICE」というタイトルバックが現れて終わってしまい、ストーリーにとりあえずの‘オチ’さえ存在しないのであるが、見逃してはならないのは、作品のオープニングにおいてニュース写真の上に字幕が書かれた透明シートを置く手をわざわざ映し出していることで、どうも監督自らが作り出した近未来の「革命組織全国委員会」の物語をそもそも信じていない節がある。
だから『アイス』に関して、「いわゆる『68年』的なものと、人はいまどのように向きあえばよいのか」という映画批評家の蓮實重彦氏の問題提起(『群像』2013年9月号 「映画時評57」)は極めて適切だと思う。例えば、「どこかしらゴダールの『アルファヴィル』(一九六五)のフィルム的な触感を思わせるこのモノクローム作品が、それとはいくぶん手触りの異なるこれまた素晴らしいカラー作品『マイルストーンズ』(一九七五)とともに二十一世紀の日本で公開されることに、いったいいかなる意味を読みとればよいのか」という問いかけは、「すでに触れておいたように、『68年』的な雰囲気をまとった『アイス』は、同時代の社会をめぐる『可能世界』的なフィクションである。そこでは戦時下にある合衆国の大統領が、いったい何党の誰であるかなどはまったく描かれてはおらず、警察権力による暴力的な支配が都市のすみずみにまで貫徹されているだけのように見える。そのフィクションが、同時代の合衆国の政治的かつ社会的な現状をどれほど正確に反映しているかといった詮索は、この際どうでもよろしい。」とし、「ここにたちこめる『68年』的な雰囲気とは、何よりもまず、そのとき人が『何を考えていたか』より、誰がいかなる『言葉』を創始し、その『言葉』が多くの人びとをどのように変容させたかが問われる契機にほかならぬからである。ここでいう『言葉』とは、映画でいえばその『画面』ということだ。だから、問われるべきは、『アイス』の能動的な『画面』とはいまどのように向かいあうべきかにほかならない。」とされ、「実際、『68年』当時に『考えられていたこと』のほとんどは、日本でも合衆国においても、とりわけ新鮮な理念ではない。ゴダールの『東風』(一九六九)経由で世界に広まった毛沢東の『造反有理』にしたところで、高名な人物にいわれるまでもないごくありきたりな思考にすぎず、『68年』的な雰囲気の中で人びとが『考えていたこと』の大半は、掲げられた理想がどれほど高潔なものであろうと、愚にもつかぬものでしかない。それはどの時代であれ同じことなのだが、にもかかわらず『68年』的なものがいまなお意味を持つのは、ロバート・クレイマーの『アイス』がそうであるように、思考に変容をうながす能動的な『画面』からなる作品を生みだしたからであり、それ以上でもそれ以下でもない。」という議論までは理解できるものの、「クレイマーが個の責任で撮った『アイス』は、革命的な武装蜂起の映画ではないし、ましてやその挫折を描いた映画でもない。確かに『68年』的なものは不可避的に妥協をかかえ込んでいるが、それを必然化する挫折を心情的な回想の対象とは見なさず、日常への回帰を安易に自己肯定させまいとする非=情動的な磁力がこの作品には装填されている。」とし、「能動的な『画面』という言葉の意味は、キャメラが鋭利に切りとって見せる男女が、どれもこれも一度見たら忘れられない表情におさまっていることを意味する。」となると、例えば、ほぼ同時期に映画を撮り始めた、演出に「素人臭さ」が漂う『タクシードライバー』(1976年)のマーチン・スコセッシ監督や『キャリー』(1976年)のブライアン・デ・パルマ監督でさえ、素人臭いなりにごく稀に撮れたであろう能動的な「画面」との違いは何なのかがよく分からない。だからこの「1968年」の物語の映画がいまなお意味を持つとするのならば、どのように思考に変容をうながすのかを改めて検証しなければならず、どうしても蓮實氏が嫌う「説話」が必要になると思うのである。