(筑豊の玄関口@直方駅)
遠賀川に沿って広がる直方市は、筑豊地方の玄関口とも言える存在の街。直方や飯塚を中心にかつては石炭というエネルギーで日本の近代化を支えた筑豊炭田は、石油へのエネルギー転換によってその役目を終えていますので、現在の直方は、北九州市や福岡都市圏のベッドタウンとしての役割が中心となりましょうか。駅は新しく建て直され、市の中心としての存在感を誇っていますが、かつての直方駅は石炭貨物用の多数の側線と、筑豊線区を走る気動車を統括する気動車区を擁し、筑豊の鉄道の要ともいうべき存在でした。今の駅舎が建っているスペースと広いバスターミナルも、以前は石炭やセメントを満載した貨車がたむろする側線の跡地。筑豊本線は、明治の殖産興業の時代から、筑豊炭田で産出された石炭を若松の港へ運び出す大動脈で、北海道の室蘭本線と同様に「黒いダイヤ」を運び続ける大きなうねりのような鉄道路線でしたが、現在筑豊地方に現役で残る鉄道貨物取り扱いは一つもありません。大きな日本のエネルギー政策の波に乗り、潮が引き、そして今がある・・・という、直方は、そんな栄枯盛衰の中の駅です。
昭和の時代の直方の街は「空飛ぶ雀も黒くなる」と言われたほど、炭鉱から出る石炭ガスを燃やす煙突の煙と、昼夜を分かたずひっきりなしに発着する石炭列車を牽引するSLの煙で、空が黒く煤けていたのだそうです。既に筑豊本線も篠栗線も電化され「福北ゆたか線」という愛称で地域輸送を担っていますが、直方駅構内には小さな気動車区があって、日田彦山線や後藤寺線を担当するキハ147形のねぐらになっていました。以前の直方気動車区は、駅の構内ではなく現在の新入(しんにゅう)駅の東側の広大な敷地にあり、昭和50年3月改正では最大143両もの大所帯を誇った九州有数の巨大気動車区でしたが、筑豊本線の電化に伴って気動車区は規模を縮小した上で現在の場所に移転したんだとか。大きな跡地は、現在はマックスバリュを中心にしたショッピングモールになっているみたいですね。
そんな直方駅の片隅に、平成筑豊鉄道のホームがあります。出炭目的のために網の目のように張り巡らされていた筑豊の鉄路から、旧国鉄の伊田線、糸田線、田川線の3線を転換した第三セクター路線。筑豊の鉄路では、日本一の赤字路線と悪名高き評判を誇った添田線とか、漆生線や上山田線、そして宮田線や香月線のような盲腸線に至るまで、半数に近い路線が廃止されてしまいました。しかしながら、早いうちから三セク転換をおこなっていたことで、それなりの筑豊の産炭路線が守られたということに、平成筑豊鉄道の大きな意味があるような気がしますね。設立当初から平成の中期まで、途中の金田駅から分岐していた三井鉱山鉄道のセメント輸送とかがあったので、そういう副次的な収入があったことも大きかったんでしょうが・・・
直方から田川後藤寺へ向かう単行のNDCに乗車し、後方の窓から流れて行く景色を見やる。直方から非電化ながらガッツリ複線。若松港に続いた黒いダイヤの道の一翼を担った国鉄の旧・伊田線ですが、その旺盛な運炭需要を見る思いがしますね。岩見沢から苫小牧までの室蘭本線も、今では超閑散線区の非電化路線ですけど、夕張や幌内から石炭を運ぶのに古くから複線なのと同じで、それだけエネルギーとしての石炭って大事だったんだよね。戦中から戦後間もなくの最盛期は、年間1,500万トンから2,000万トンの石炭を運んでいた筑豊の鉄路。石炭産業が斜陽化する昭和40年代前半まで、九州全体の石炭の出炭量のおよそ70%を運び続けていました。九州と一口に言っても、炭鉱は筑豊だけじゃなくて大牟田の三井三池だったり、長崎の池島や高島だったり、それなりに有力なヤマもあったと思うんだけど、それでも九州の石炭の70%というのだからすごい規模である。九州の石炭輸送のピークを迎えたのは1957年(昭和32年)で、年間2,013万トンの輸送記録が残っているのだけど、それが昭和50年代前半にはほぼ0になってしまうのだから、「国家政策」というのはつくづく残酷なものだ。
そんな筑豊の運炭路線・・・おそらく三井三池が掘り出していた田川坑を中心とした輸送を担っていた伊田線の中泉駅で下車してみる。平成筑豊鉄道に転換してから、沿線住民の利便性を高めるために多くの駅が新設されましたが、この駅は転換前の国鉄時代からの駅。駅舎の屋根や線路のバラストがどうにもざらざらと赤茶けていて、その中に白いものがパラパラと混じる感じの殺風景な色遣いが印象に強い。この全てのものがくすんだ色合いに包まれているこの感じが炭都・筑豊のそれであって、いかにもこのレールの上を走り抜けて行った石炭列車やセメント列車が落としていった石炭ガラやらセメントの滓が、落っこちたままそのままになっているような気がしてならない。平成筑豊鉄道に名誉のために言わせてもらえば、もちろん適正な時期に新しいバラストは散布しているのだろうけど・・・
そんなくすんだ色合いを破るかのように、鮮やかなディーゼルカーがやってきた。単行NDCが行き交うローカル三セク鉄道になってしまった今でも、運炭路線らしい遠くが見えなくなるくらいの有効長の長い構内は健在だ。剥がされた中線の枕木の跡もまだ鮮やかで、染み込んだクレオソートがそのままバラストに残っている。おそらくはC11や9600の運炭列車がこの中線に止まり、筑豊のヤマの男たちを乗せた上下の普通列車をやり過ごしたり対向の石炭列車を退避していたりするのだろう。昭和30年代の国鉄伊田線の時刻表を見ると、博多や小倉からの直通列車があったり、珍しいのは山口県の仙崎から関門海峡をくぐって現在の田川伊田まで運転された列車もあったようだ。普通列車だけでも一日で23~25往復程度の運転をしていた記録があって、これに石炭列車を加えるとそりゃ複線じゃないと捌けないよな、と思う結構な過密ダイヤである。
今にも泣き出しそうな空の下、中泉駅の待合室で次の列車を待つ。駅は無人駅だが、かつての駅員さんの詰めていたスペースが床屋さんに貸し出されており、店の中では店主が暇そうにテレビを見ていた。こんな感じの取り組み、駅を荒廃させないように・・・ということで、各地の三セクが良くやっているけど、効果ってどのくらいあるんだろう。天竜浜名湖鉄道なんかも積極的よね。まあ、入ってもらうからには駅の管理を込みでの格安の条件なのだろうし、テナントとして借りる側にもそれなりのメリットはあるのだろうけど。
行橋行きのNDCが到着し、私といつの間にか現れた地元の高校生が乗り込むと、空からとうとう雨が降ってきた。
泣きぬれて中泉、窓の外は陰に滲む雨の伊田線。これもまた趣である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます