青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

命綱 満身創痍の 橋だけど。

2022年05月07日 10時00分00秒 | 南海電鉄

(もう一つの紀ノ川橋梁@河西橋)

南海本線の紀ノ川橋梁でひとわたり本線で活躍する電車たちを眺め、気分がすっかり関西私鉄モードになったところで歩いて市駅に戻ります。が、真っすぐ市駅に戻る前にちょっと寄り道。和歌山市駅の裏側、紀ノ川の大きな流れにかかる新旧の橋。手前にはPCコンクリートの巨大な橋脚と鋼製桁で組まれた堅牢な橋が建設中ですが、その向こう側には何ともヘロッヘロな橋脚と細いガーダー橋が対岸に向かって続いています。

この橋の名前は「河西(かせい)橋」と言って、現在は2輪以下の軽車両と歩行者専用の道路橋となっています。何となく橋脚と主桁のプレートガーターの見た目でそれっぽさがお分かりいただけるような気もしますが、これは元々鉄道用の橋で、かつての南海加太線の紀ノ川橋梁でした。現在の加太線は紀ノ川橋梁を本線と共用し、和歌山市駅の次の駅である紀ノ川駅から加太方面へ分岐して行く形になっていますが、「加太軽便鉄道」として開業した当初は、和歌山市駅の対岸の北島地区を通って直接和歌山市駅に乗り入れる形になっていました。

ちなみに地図で見るとこんな感じ。当時の線路跡を赤点線で繋いでみましたが、ちょっとカンのいい地図見が出来る人なら、和歌山市駅から河西橋を通り東松江に至るルートを「これ廃線跡じゃね?」って読み取れるかもしれないね。現在の和歌山市駅の少し北側、今は南海和歌山検車区の詰所になっている辺りに駅を構えていた加太軽便鉄道、河西橋を渡った後は、北島・島橋の2駅を通って東松江に抜けていたそうな。加太軽便鉄道の開業は古く、既に明治44年には現在の加太と北島の間が開通。懸案だった紀ノ川の鉄橋を作って和歌山市に乗り入れたのはその4年後、大正3年の事でした。

加太軽便鉄道の設立理由としては、当時の加太は人口一万人弱を抱える港町として栄えていた事。加太港には淡路島、四国、大阪方面への航路が開通しており、加太と和歌山を結ぶ鉄道の開通は海運と陸運の相乗効果で交易を活発にさせる効果が期待できたこと。また沿線には加太淡島神社など神社仏閣への参詣者も多く、紀伊水道の友ヶ島には大阪湾を守るための砲兵部隊が陣地を置いており、参詣輸送や兵員輸送が期待されていた事など、事業化へは加太の人々の様々な思いがあったようです。資金の乏しい中、このヘロヘロな橋脚で何とか加太と和歌山を繋げようとした先人たちの苦労が偲ばれます。

河西橋を歩いて渡ってみる。橋とは思えない波打つ路盤がスリリング。ちょっとしたアトラクションである。ネイティブ和歌山市民はあっちからもこっちからもチャリンコや原チャリでスイスイとこのアップダウンを超えて行く。普段はどうだか知らないが、この日は存外北風が強くビュービューと橋の上を吹き抜けていて、ちょっと身構えていないと細い橋の上から吹き飛ばされてしまいそうであった。

河西橋北詰。加太側。何となく思わせぶりな廃線跡っぽい道路のカーブが先に続いている。この河西橋が実際に鉄道橋として使われた時代は短く、時代が太平洋戦争に及ぶ中、沿線の住友金属和歌山工場からの軍需物資の輸送には「この橋では貧弱過ぎて(重量物の輸送に)耐えられない」というトホホな理由で、現在の東松江~紀ノ川間に迂回ルートとしての貨物線が完成。結局、昭和25年に旅客列車も貧弱なこの橋を避ける形で紀ノ川駅経由を正式ルートとする事が決定しました。同年のジェーン台風により橋梁の橋脚が傾いた(前写真に傾いた橋脚が写ってますね)事もあり、同年和歌山市~北島間は運転を休止。北島~東松江間は「北島支線」として残されましたが、ともに昭和40年代までに廃止されています。ちなみに今の加太線、紀ノ川から東松江まで約3kmに亘って駅がないんですよね。これは当初貨物線として建設された事に起因しているのかもしれません。

加太側から市駅方面を見る。市駅にダイレクトにアクセスしていた鉄道路線の鉄橋なので、和歌山市も運転休止後にこの橋梁を接収し、道路として転用する事にはいささかの迷いもなかったものと思われる。この橋がなければ、紀ノ川北岸地域(特に北島地区)の住民が市駅に出るには上流の北島橋か下流の紀ノ川大橋まで迂回せねばならず、徒歩ではそれぞれ約30分程度の大きなロスになってしまうのだ。奥に見えてるのが県道15号の北島橋だけど、あそこまで行って橋渡って、渡ってからまた市駅の方に戻んなきゃいけないってなるとかなり面倒だよねえ。ちなみに、この河西橋をチャリンコで渡って来る人が多いのか、和歌山市駅周辺には個人の自転車預り所が多い。最初、紀ノ川橋梁まで行くのにレンタサイクルあるじゃん!って思って入ってったらオッサンに「ウチは預かるだけだ!」って言われちゃった(笑)。持ち主が帰って来るまで間合い運用とかダメっすか?(ダメに決まってんだろ)。こう言うニッチな商いが成立しているのも、河西橋のお陰なのかもしれない。

波打つ路盤を、今日もチャリンコが行く。大正時代の架橋から、幾多の数奇な運命を経て、今も和歌山市民を支える元鉄道橋梁・河西橋。さすがに老朽化による安全面の低下著しく、新橋への架け替えによりその姿を消す運命にあります。並行して建設されている新・河西橋が完成するのは2025年の予定らしいのだが、それまでは耐え抜いて欲しいもの。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 青空と 赤いトラスの 大鉄橋。 | トップ | めでたきに 色とりどりの ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

南海電鉄」カテゴリの最新記事