(日本の名城・白鷺城@姫路市・姫路城前)
前日は夜遅くに山陽姫路駅近くのホテルにしけこんで、シャワーだけ浴びて横になったのだがやはり旅の空というものは体が疲れていても神経が昂っているせいかあまりよく寝付けないものだ。それに加えて、泊まったホテルのエアコンがご丁寧に効きすぎていて正直寒かった(笑)。まあね、毎日35℃を超えるような猛烈な暑さだから、そらエアコン効いてないよりは効いてたほうがいいんだけども、モノには程度ってのがあるんだよなあ。とりあえずシャワーでもう一回温まって、短き姫路の一夜の宿を辞す。一応姫路まで来たので、朝から姫路城まで歩いてみたり。それにしても朝から暑い・・・姫路駅前から大通りの向こうにデンと聳える姫路城は、改めて目の前まで行ってみるとまあデカいね。手前を歩いてる朝の散歩の姫路市民と比べるとわかると思うのだが・・・
朝日に輝く白鷺城。「大天守」と言われる天守閣の高さは海抜93m、城の大きさと高さをどこから数えるかって難しいところだと思うけど、城の基礎部分の小山から積み上げられた石垣といい、自分が見たレベルでは文句なく一番デカいと思う。デカすぎてあんまり近付き過ぎると全体像が把握しづらく、そして城内がめちゃくちゃ広い。もう家臣とか腰元とか城下を移動するのにチャリンコとかセグウェイとか必要なんじゃねーのかと思うくらいで(笑)。
早朝の姫路城散歩、汗を拭き拭き姫路駅まで戻り、今日はこの電車からスタート。姫路から和田山へ向かう播但線。赤でも紫でもないビミョーなその中間の色。なんだろうねこれ。強いて言うならサツマイモの色だよなコレ。ってか先日和田岬線で「最後の103系が引退!」みたいな話でマニアがワーキャーやってましたけど、播但線でまだ走っとるやんけ。まあ播但線の103系は2連ワンマン対応で、側面窓など細かいところが結構改造されているみたいなんで原形があまり留まっていないというのが不人気の理由らしいのだが。おじちゃんそこまで気にしないので。
姫路駅の片隅に佇む播但線の寺前行き。播但線は、その名の通り播州・姫路と但馬の和田山を結ぶ陰陽連絡ルートの一つ。姫路経済圏の寺前までは電化されていますが、そっから先はろくすっぽ本数のない非電化ローカル線に変わります。陰陽連絡ルートってのは、山陽側と山陰側が分水嶺を境にガタっと流動量が変わることが多いのですが、この線もそんな感じですかね。昔っから「特急はまかぜ」が大阪から姫路を通って播但線経由で浜坂とか倉吉に向かっていますけど、かつてはキハ181系が最後まで現役で頑張ってたから晩年は結構人気ありましたよね。冬になると香住や浜坂の漁港に揚がるカニを目当てに運転される「カニカニはまかぜ」なんてのも名物列車ではありました。今でもキハ189系が毎日3往復の定期で播但線を通過して山陰方面に向かってますけど、播州地域から兵庫北部~鳥取方面の需要ってどのくらいあるのだろうか。
播但線の103系が、休日の部活に向かう大勢の高校生を乗せて、高架の姫路駅を出発。左にカーブして山陽本線と離れた後も、暫く姫路市街を高架で抜けて行く。京口を出て、左手車窓に目を凝らしていると・・・あった!姫路競馬場の大屋根。向こう正面に広峰山を望む姫路競馬場は、兵庫県競馬組合が主催する公営競馬の中でも園田に対して非常に年間開催数が少なく、日陰の存在にありました。北関東における宇都宮競馬と足利競馬の関係みたいな感じで、それこそ暇を見つけちゃ「旅打ち」に出ていた若かりし頃の自分でも、行くのが相当に難儀な競馬場ではありました。売り上げ減少や設備改修の負担が重く、2012年から長期間開催を休止していて、「もうこのままなくなるんだろうな」なんて思っていたのですが、2020年に8年ぶりに奇跡の開催復活。園田のナイター開始などで収益面の改善が図られたのが要因らしいのですが、よくもまあ廃止にならなかったなとびっくりしたものです。基本的に兵庫県競馬組合は、園田で金曜ナイターをやれる時期は園田開催にするみたいなんで、今年の姫路開催は1月から3月までの30日間のみ。来年以降もナイターをやれない(やらない)厳寒期の日中開催中心になるのでしょうか。
これは自分が初めて姫路競馬場に行った時の写真。本棚のアルバムの中に入っていた。日付を見ると1998年2月25日とある。もう時効だが大学の春休みの話(笑)。今にも雪が降りそうな寒い寒い冬の日であったことを覚えている。まだこの時は当然ながら園田・姫路はアラブの競馬場で、走ってる馬もアングロアラブだけ。ちょうどこの日は同じアラブの競馬場である広島県の福山競馬場との交流重賞「福姫交流」というレースが行われていた。その後全日本アラブ優駿を勝つ園田のタッカースカレーなんかも出ていましたね。タッカースカレーは曾和尚栄厩舎&小牧太という当時の園田のゴールデンコンビ。小牧太も、中央に移籍してからは後輩の岩田の方が圧倒的に活躍したけれども、園田時代の小牧太の剛腕ぶりというのは凄味があって、いかにも公営らしい腕っぷしで馬を御せる乗り役だったなあと思う。対して岩田の場合はたいして追わなくても園田の小回り道中でスーッと馬が動くような不思議な乗り役で、思えばああいう当たりの柔らかいところが中央(芝)向きだったのかなと。この写真を見ても、尾林、岩田、平松、三野なんかの勝負服が見えて懐かしいったらありゃあしない。
閑話休題。そんな播但線を、姫路から二つ目の野里駅で降りる。確かこの駅に降りるのは二回目、それこそ1998年に姫路競馬場を訪れた時以来だと思う。その頃はまだ播但線は電化されてなくて、キハ47かなんかに乗ったんであろう(あんま覚えてないけど)。播但線は、姫路市のベッドタウンとして開発されて行く沿線の人口増に車両の増備が追っつかず、平成初期までは朝のラッシュ時を50系客車の超大編成で通勤客を捌くような状況だったと聞きます。駅周辺はマンションが立ち並ぶ野里駅前、そらその当時はそんくらいの通勤需要があったんやろな、という駅前の風景です。
ここからはバスにお乗り換え。兵庫県西部地域の公共交通の王者こと神姫バス。アスティアかさい経由北条営業所行き。このバス、姫路駅前発なんで別に姫路駅前から普通に乗ってもよかったんだけど、何で野里の駅前?ってのは播但線も乗りたかったという単純な理由によります。この日の目的は北条鉄道。神鉄&加古川線の接続駅である粟生と北条町(加西市)を結ぶ旧国鉄北条線の第三セクター。JRで北条町に向かっても良かったんだけど、姫路から加古川、加古川から粟生、粟生から北条町とコの字型に回るより、姫路からバスでそのまま北条町に向かうほうが早いことに気が付いたので。
野里駅前で私含めて乗車人員は3名。2名の妙齢のご婦人は、野里から少し行った場所の停留所であっさりと下車してしまい、あとはひたすら自分と運転士氏のみのマッチレースという田舎のバスにはよくある光景が繰り広げられる。田園の中を走る神姫バス、律儀に運転士氏は自動放送をカチカチと切り替え、どうせ降りやしない&乗る人もいない停留所の名前が車内に流れるだけの緩やかな時間。そんな時間を流れるに任せてウトウトしていると、バスは40分ほどで北条町の駅前に着いた。
きれいに整備された北条町の駅のバスロータリー。駅もいわゆる第三セクターの駅らしく、国鉄から転換されてから整備されたのか波板の屋根材&鉄骨組の長いホームがある。側線に留置されたNDC。新潟トランシスによって製造された全国の第三セクター向けDCですが、ここ北条鉄道では「フラワ2000」の名称がつけられています。「フラワ」って日本の鉄道会社が付ける呼称の中でも一番よく分からねえなあ・・・となる形式名称だと思うのですが、加西市にある加西フラワーセンターからのネーミングなんだとか。後ろに見える大きな建物がアスティアかさい。旧国鉄の北条町駅跡地に建設された複合公共施設で、コープこうべ(生協)を中心にした専門店と、図書館やホールなどの公共部分で成り立っています。地区の核になる商業と交通網を結節させたコンパクトな街づくりの典型例のような駅前です。
北条町駅の周辺一帯の区画整理の結果、少し粟生寄りに移されて現在の位置に落ち着いた駅舎。とんがり屋根の二階建てで、一階が北条鉄道本社・二階が英会話教室。駅の隣には駐車場付きのセブンイレブンとはま寿司があって、食料調達にも困らない配置になっています。北条鉄道は、国鉄の第一次赤字交通線、いわゆる「特定83線」に選定された国鉄北条線を昭和60年に第三セクターへ転換したもので、国鉄の解体と民営化に際して全国に広がった三セク鉄道の一期生にあたる路線です。特定83線というのは、慢性的に赤字が続いた国鉄の経営体質の改善のため、真っ先に「廃止やむなし」とされた路線。三セク化された中でも、お隣にあった三木鉄道(国鉄三木線)なんかは収益が改善せずに廃線となっている訳ですから、今日まで鉄路を残し続けていることも、地元加西市を中心にした行政・利用者による弛まぬ支援が続いていることの証拠でしょう。
「応援は年一回の乗車から」という標語が重い北条町駅から、北条鉄道の旅が始まります。
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