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田中利典師の「お地蔵さま賛歌」

2025年01月15日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈お地蔵さま賛歌〉(師のブログ 2017.5.10 付)。師は常々、「日本人は無宗教ではない」とおっしゃっていて、今回は辻々の「お地蔵さま」への信仰からそれを説いておられる。
※トップ写真は、大和郡山市の矢田寺で撮影(2022.6.7)

私(鉄田)は以前、山折哲雄氏の「韓国の仏教学者に教えられたこと」という話を、ネットで読んだことがある(愛知県が運営する「学びネットあいち」)。そこでは、韓国を代表する仏教学者である李箕永氏の言葉が紹介されていた。

李先生が突然こういうことを言われました。「自分は日本人がとてもうらやましい。なぜならば仏教というすばらしい宗教が、多くの日本人の心の隅々にまで浸透しているから。自分は仏教を半生研究してきたけれども、何せ韓国は儒教社会だ。だから日本人がうらやましい」。

確かに日本には仏教が伝えられたかもしれないけれども、それは頭の上のことだけだと。自分も含めて、日本人が豊かな仏教信者であるとはとても思えませんと反論したら、李先生はこう言いました。

「いやいや、あなたがた日本人はあの『夕焼け小焼け』という童謡を歌うでしょう」。(中略)そのときはっと、ひょっとしたら李先生のおっしゃるとおりかもしれない、と思いました。

夕焼け小焼けで 日がくれて 山のお寺の 鐘がなる お手てつないで みなかえろ からすといっしょに かえりましょう


日本において仏教は、理屈とか教義ではなく、このような心性が童謡などのなかに、自然と溶け込んでいるのだな、と気づいた。そこで私(鉄田)もふと、かつて田原本町で奈良女子大の大学院に通う外国人留学生(中国人、台湾人など)をガイドしたとき、辻々に「お地蔵さま」(地蔵堂)があるのを見て、「この町は、仏教の信仰が篤いのですね」と言われたのを思い出した。

「ここには大きなお寺(田原本御坊「淨照寺」など)があるので、おのずと信仰心が高いのでしょう」と答えたがあとで、大きなお寺がない町でも、辻々に地蔵堂があるな、と思った。このようなごく自然な信仰心が、日本人の心の底に根付いているということなのだろう。前置きが長くなった。利典師のブログ記事を以下に紹介する。

「お地蔵さま賛歌ー田中利典著述集290510」
過去に掲載した機関誌『金峯山時報』のエッセイ欄「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。今回はもう14年前(2003年)の文章。この気持ちはいまも変わりません。日本人、みんなが大好きだった「お地蔵さま」。それはいまでも変わらない、と思いたいです。

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「お地蔵さま賛歌」
過日、家の近くのお地蔵さんで地蔵盆のお参りをした。近所の子供達と親が集まり、掃除をして、お供えをして、お勤めをしたのだ。お勤めは般若心経と地蔵菩薩の真言。「おん・かー・かー・か・びさまえー・そわか」と子供達にもお地蔵さまの真言を教えて、一緒にお唱えをしてもらった。

いつの頃からか、日本人は無宗教であるという流言が世間に充ち満ちている。耐えられない流言だ。日本人は決して無宗教であるはずがない。日本人ほど宗教的な民族はいないといっていくらい宗教的なのだ。ばかな文化人か、欧米政策に踊らされた売国奴の人種が垂れ流す誠に無知な流言なのである。

なにをもって日本人は宗教的な民族であるかというと、冒頭に書いた地蔵盆の光景などはその典型的な一例である。村の辻辻にはお地蔵さんが祀られていて、その土地土地に住む子供たちの成長を見守り続け、子供達も村々の鎮守様同様に、辻の地蔵様を拝んできた。

そんなことは誰でもが知っていたし、どこでも行われていたことだった。無宗教の民族がそんなことをするはずがなく、いまだ細々ながらでも続けられているはずがない。子供のそばでいつも見守るお地蔵さんのことは誰もが知っている。お地蔵さんも拝む、村の鎮守さまも拝む、家の仏壇も拝む、神棚も拝む…それは日本独自の習俗や信仰なのかもしれない。

少なくともキリスト教やイスラム教など一神教社会のような唯一絶対の神だけしか認めない民族からすれば、いろんな神さん仏さんを雑多のまま拝んでしまう日本人は無宗教に映るかも知れないが、四季の恵み豊かな日本の風土は、一神教を誕生させた砂漠の民たちには理解できない、多様な価値観を肯定する優れた感性が培われてきたのだ。地蔵盆のお勤めをしながら今更ながらそんな思いを抱いていた。

「おん・かー・かー・か・びさまえー・そわか」のかーかーかーとはお地蔵さんの笑い声である。子供と共に生き、子供の成長を見守り続けた地蔵様の歓声である。この声が聞こえる限り、日本の明日はまだまだ捨てたもんじゃないと思っている。子供達に地蔵さんの真言を唱えさせながら、いつまでもこの地蔵さんの笑い声がとぎれない日本の民衆文化を自負心を持って、継承させていきたいと願うものである
※『金峯山時報』平成15年9月号「蔵王清風」より

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この間、子供とお墓参りに行きました。途中で、件のお地蔵様の前を行き来します。そのたびに子供が黙ってお地蔵様にお辞儀して、通っていました。

幼い頃、毎日のように、おばあちゃんに手を引かれて、このお地蔵様にお参りしていましたが、そういう日課が、いまでも子供にお地蔵様への、畏敬の気持ちを伝えているのだと思って、嬉しくなりました。変な理屈をこねるより、こういうことが一番大事なのだと思います。
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