「転害門ゲートサイドプラザ」(仮称)とは、奈良市手貝町にある南都銀行の旧・手貝支店(以下 旧支店)のこと。転害門の真横にあるので、ゲートサイドだ(門=ゲートなので「手貝ゲートサイドプラザ」の方が辻褄が合うが)。
10/29(日)10:00~16:00、普段は閉ざされている旧支店(今は奈良市の所有)が開放され、見学会が行われた。なお転害門は東大寺の西門で、天平の創建当初の建物である(鎌倉時代に修理されたが)。東大寺ではほとんど唯一の、天平時代の貴重な国宝建造物だ。
写真が転害門だ。この日、旧支店の2階から撮影したのだが、珍しいアングルの写真となった。
この日はさらに14:00~16:30、近くの手貝町会所で交流会(トークセッション)が行われた。以前このブログで紹介した「奈良きたまち交流会」の、いわば続編である。
※奈良きたまち交流会(9/9 ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/05bd569df5a6bc372019f87844090d52
会には、地元自治会長さんや市職員、女子大生(院生)、NPO関係者、住民など23名が出席。山口育彦氏(奈良街道まちづくり研究会)の司会・進行で、まず奈良女子大・増井正哉教授(建築史)が周辺地域の歴史や建物について講話された。
教授は、旧支店は以下の4点で、とてもユニークな建物だという。
1.地域住民が出入りしていた「思い出を共有する建物」である。
2.街道(旧 京街道)沿いの町並みに配慮された日本建築である。
3.国宝・転害門に隣接している。
4.奈良を代表する建築家、故岩崎平太郎氏の設計による。
続いて建築家・岩崎弘氏が父・平太郎氏のエピソードや戦前の旧街道筋の話をされ、住民の間からも貴重な証言が続出した。
とりわけ、転害門の前には交番や肉屋や銀行支店が建っていて、門が前面道路(現 国道369号線)に接していなかったことや、門に半鐘(火災警鐘)が取り付けられていたこと、門が板塀から白壁に修理されてから落書を恐れて通行止になったことなど、とても興味深い話だった(現在、通行者は門の横の小道を通り抜けている)。
旧支店の活用方法についても、様々な意見が出た。
アンケート用紙には
1.きたまち観光の拠点に
2.観光客のための公衆トイレや休憩スペースに
3.地元民が気軽に集まれる喫茶店みたいに
4.地域の防災拠点(防災倉庫)などに
5.むしろ解体して広場に
という選択肢が示されていた。私としては、銀行の雰囲気を復元し(ロビーの吹き抜け、高いカウンター、ゆったりした応接スペース など)、転害門や鹿を見ながらお茶が飲める空間(昼間は観光客向け、早朝と夜は地元民向け)にすれば良いと考える。なお敷地奥のスペース(結構広い)は、防災倉庫として利用できるだろう。何だか1~4の折衷案みたいだが。
5.の解体には反対だ。門の近くにあった名旅館・対山楼が取り壊され、往時をしのぶ縁(よすが)が跡形もなく消えてしまったという例を他山の石とすべきだ(最近になって句碑が建てられたが)。
※対山楼跡の「子規の句碑」(11/3 ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/9fcf8a88c2749f6ce4c3791319520022
いずれにしても、このような会合の積み重ねで旧支店の活用策が練られていくのは、素晴らしいことだ。良いプランを策定し、ぜひ持主である奈良市を動かして行きたいものだ。
10/29(日)10:00~16:00、普段は閉ざされている旧支店(今は奈良市の所有)が開放され、見学会が行われた。なお転害門は東大寺の西門で、天平の創建当初の建物である(鎌倉時代に修理されたが)。東大寺ではほとんど唯一の、天平時代の貴重な国宝建造物だ。
写真が転害門だ。この日、旧支店の2階から撮影したのだが、珍しいアングルの写真となった。
この日はさらに14:00~16:30、近くの手貝町会所で交流会(トークセッション)が行われた。以前このブログで紹介した「奈良きたまち交流会」の、いわば続編である。
※奈良きたまち交流会(9/9 ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/05bd569df5a6bc372019f87844090d52
会には、地元自治会長さんや市職員、女子大生(院生)、NPO関係者、住民など23名が出席。山口育彦氏(奈良街道まちづくり研究会)の司会・進行で、まず奈良女子大・増井正哉教授(建築史)が周辺地域の歴史や建物について講話された。
教授は、旧支店は以下の4点で、とてもユニークな建物だという。
1.地域住民が出入りしていた「思い出を共有する建物」である。
2.街道(旧 京街道)沿いの町並みに配慮された日本建築である。
3.国宝・転害門に隣接している。
4.奈良を代表する建築家、故岩崎平太郎氏の設計による。
続いて建築家・岩崎弘氏が父・平太郎氏のエピソードや戦前の旧街道筋の話をされ、住民の間からも貴重な証言が続出した。
とりわけ、転害門の前には交番や肉屋や銀行支店が建っていて、門が前面道路(現 国道369号線)に接していなかったことや、門に半鐘(火災警鐘)が取り付けられていたこと、門が板塀から白壁に修理されてから落書を恐れて通行止になったことなど、とても興味深い話だった(現在、通行者は門の横の小道を通り抜けている)。
旧支店の活用方法についても、様々な意見が出た。
アンケート用紙には
1.きたまち観光の拠点に
2.観光客のための公衆トイレや休憩スペースに
3.地元民が気軽に集まれる喫茶店みたいに
4.地域の防災拠点(防災倉庫)などに
5.むしろ解体して広場に
という選択肢が示されていた。私としては、銀行の雰囲気を復元し(ロビーの吹き抜け、高いカウンター、ゆったりした応接スペース など)、転害門や鹿を見ながらお茶が飲める空間(昼間は観光客向け、早朝と夜は地元民向け)にすれば良いと考える。なお敷地奥のスペース(結構広い)は、防災倉庫として利用できるだろう。何だか1~4の折衷案みたいだが。
5.の解体には反対だ。門の近くにあった名旅館・対山楼が取り壊され、往時をしのぶ縁(よすが)が跡形もなく消えてしまったという例を他山の石とすべきだ(最近になって句碑が建てられたが)。
※対山楼跡の「子規の句碑」(11/3 ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/9fcf8a88c2749f6ce4c3791319520022
いずれにしても、このような会合の積み重ねで旧支店の活用策が練られていくのは、素晴らしいことだ。良いプランを策定し、ぜひ持主である奈良市を動かして行きたいものだ。