先週の土曜日(2/6)、大和郡山市の椿寿庵(ちんじゅあん)を訪ねた。早くも、可憐なツバキが咲き始めていた。
※椿寿庵(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/acf1ada2fb927678c95c27a7fc0bd61d
ここは西畑さんという方のご自宅で、敷地内にビニールハウスの椿園がある。その中で1月下旬から4月下旬、1000種・6000本の椿が咲くのである(見頃のピークは、2月下旬~3月にかけて)。入場は無料で、鉢植えの即売もされている。
http://tmnabe.hp.infoseek.co.jp/home/tuba.htm
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Wikipedia「ツバキ」に、ツバキにまつわる詳しい話が載っている。《花が美しく利用価値も高いので万葉集の頃からよく知られたが、特に近世に茶花として好まれ多くの園芸品種が作られた。美術や音楽の作品にもしばしば取り上げられている》《和名の「つばき」は、厚葉樹(あつばき)、または艶葉樹(つやばき)が訛った物とされている》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%AD
《ツバキの花は花弁が個々に散るのではなく、多くは花弁が基部でつながっていて萼を残して丸ごと落ちる。それが首が落ちる様子を連想させるために入院している人間などのお見舞いに持っていくことはタブーとされている。この様は古来より落椿とも表現され、俳句においては春の季語である。なお「五色八重散椿」のように、ヤブツバキ系でありながら花弁がばらばらに散る園芸品種もある》。
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《武士はその首が落ちる様子に似ているというのを理由にツバキを嫌った、という話もあるがそれは幕末から明治時代以降の流言であり、むしろ潔しとした。実際には江戸時代には大々的に品種改良が進められていたというのが真相である。1600年代初頭には多数の園芸品種が流行。1681年には,世界で初めて椿園芸品種を解説した書物が当時の江戸で出版される》。
《歴史的な背景として、日本では733年「出雲風土記」にすでに椿が用いられている。その他、多くの日本の古文献に出てくる。中国では隋の王朝の第2 代皇帝、煬帝(ようだい)の詩の中で椿が「海榴」もしくは「海石榴」として出てくる。海という言葉からもわかるように海を越えてきたもの、日本からきたものを意味していると考えられる。しかしながら、海石榴と呼ばれた植物が本当に椿であったのかは国際的には認められていない》。
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《ツバキの花は古来から日本人に愛され、京都の龍安寺には室町時代のツバキが残っている。他家受粉で結実するために変種が生じやすいことから、古くから品種改良が行われてきた。江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、たくさんの品種が作られた》。
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《茶道でも大変珍重されており、冬場の炉の季節は茶席が椿一色となることから「茶花の女王」の異名を持つ。また西洋に伝来すると、冬にでも常緑で日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られた》。
《江戸のツバキ 徳川幕府が開かれると、江戸に多くの神社、寺院、武家屋敷が建設された。それにともない、多くの庭園が営まれ、ツバキも植栽されていった。ことに徳川秀忠が吹上御殿に花畑を作り多くのツバキを含む名花を献上させた。これが江戸ツバキの発祥といわれる。『武家深秘録』の慶長18年には「将軍秀忠花癖あり名花を諸国に徴し、これを後吹上花壇に栽(う)えて愛玩す。此頃より山茶(ツバキ)流行し数多の珍種をだす」とある。権力者の庇護をうけて、ツバキは武士、町人に愛されるようになった。江戸ツバキは花形、花色が豊富で、洗練された美しさをもつ》。
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《上方のツバキ 古来、都がおかれたツバキも古くから愛玩されてきた。ことに江戸期には徳川秀忠の娘東福門院和子を中宮として迎えた後水尾天皇や誓願寺の安楽庵策伝などの文化人がツバキを蒐集した。寛永7年(1630年)には安楽庵策伝によって「百椿集」を著した。さらに寛永11には烏丸光広によって「椿花図譜」が著され、そこには619種のツバキが紹介されている。現在でも京都周辺の寺社仏閣には銘椿が多い。上方のツバキは変異の多いユキツバキが北陸から導入されたことと、京都、大坂の人々の独自の審美眼によって選抜されたことに特色がある》。
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故入江泰吉氏は《”花は究極の美” といわれる。その美は純粋であるが故に、誰れの目にも美しいと感じられ、心にやすらぎがもたされる》《花のいのちは短いものである。”人見るもよし 見ざるもよし されどわれは咲くなり”と、短い命の限り精一杯けなげに咲くからこそ美しく、映えるのではなかろうか》(『万葉四季の花』)と書かれた。私も、「究極の美」を短い時間のうちに凝縮させた花々に、何だか陶然となって夢中でシャッターを切った。
大和三名椿(やまとさんめいちん)とは、「白毫寺の五色(ごしき)椿」「伝香寺の散り椿(武士[もののふ]椿とも)」「東大寺開山堂の糊こぼし」であるが、椿寿庵にはその3つが揃っているそうだ。ツバキの見頃はこれからである。ぜひ、お訪ねいただきたい。
http://jafnavi.jp/web/r5/291110400.html
※椿寿庵
所在地 〒639-1027 奈良県大和郡山市池ノ内町556 TEL 0743-52-6126
交通アクセス 近鉄郡山駅から法隆寺行バスで10分。「池ノ内」バス停からすぐ
入場料 無料
※椿寿庵(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/acf1ada2fb927678c95c27a7fc0bd61d
ここは西畑さんという方のご自宅で、敷地内にビニールハウスの椿園がある。その中で1月下旬から4月下旬、1000種・6000本の椿が咲くのである(見頃のピークは、2月下旬~3月にかけて)。入場は無料で、鉢植えの即売もされている。
http://tmnabe.hp.infoseek.co.jp/home/tuba.htm
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Wikipedia「ツバキ」に、ツバキにまつわる詳しい話が載っている。《花が美しく利用価値も高いので万葉集の頃からよく知られたが、特に近世に茶花として好まれ多くの園芸品種が作られた。美術や音楽の作品にもしばしば取り上げられている》《和名の「つばき」は、厚葉樹(あつばき)、または艶葉樹(つやばき)が訛った物とされている》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%AD
《ツバキの花は花弁が個々に散るのではなく、多くは花弁が基部でつながっていて萼を残して丸ごと落ちる。それが首が落ちる様子を連想させるために入院している人間などのお見舞いに持っていくことはタブーとされている。この様は古来より落椿とも表現され、俳句においては春の季語である。なお「五色八重散椿」のように、ヤブツバキ系でありながら花弁がばらばらに散る園芸品種もある》。
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《武士はその首が落ちる様子に似ているというのを理由にツバキを嫌った、という話もあるがそれは幕末から明治時代以降の流言であり、むしろ潔しとした。実際には江戸時代には大々的に品種改良が進められていたというのが真相である。1600年代初頭には多数の園芸品種が流行。1681年には,世界で初めて椿園芸品種を解説した書物が当時の江戸で出版される》。
《歴史的な背景として、日本では733年「出雲風土記」にすでに椿が用いられている。その他、多くの日本の古文献に出てくる。中国では隋の王朝の第2 代皇帝、煬帝(ようだい)の詩の中で椿が「海榴」もしくは「海石榴」として出てくる。海という言葉からもわかるように海を越えてきたもの、日本からきたものを意味していると考えられる。しかしながら、海石榴と呼ばれた植物が本当に椿であったのかは国際的には認められていない》。
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《ツバキの花は古来から日本人に愛され、京都の龍安寺には室町時代のツバキが残っている。他家受粉で結実するために変種が生じやすいことから、古くから品種改良が行われてきた。江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、たくさんの品種が作られた》。
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《茶道でも大変珍重されており、冬場の炉の季節は茶席が椿一色となることから「茶花の女王」の異名を持つ。また西洋に伝来すると、冬にでも常緑で日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られた》。
《江戸のツバキ 徳川幕府が開かれると、江戸に多くの神社、寺院、武家屋敷が建設された。それにともない、多くの庭園が営まれ、ツバキも植栽されていった。ことに徳川秀忠が吹上御殿に花畑を作り多くのツバキを含む名花を献上させた。これが江戸ツバキの発祥といわれる。『武家深秘録』の慶長18年には「将軍秀忠花癖あり名花を諸国に徴し、これを後吹上花壇に栽(う)えて愛玩す。此頃より山茶(ツバキ)流行し数多の珍種をだす」とある。権力者の庇護をうけて、ツバキは武士、町人に愛されるようになった。江戸ツバキは花形、花色が豊富で、洗練された美しさをもつ》。
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《上方のツバキ 古来、都がおかれたツバキも古くから愛玩されてきた。ことに江戸期には徳川秀忠の娘東福門院和子を中宮として迎えた後水尾天皇や誓願寺の安楽庵策伝などの文化人がツバキを蒐集した。寛永7年(1630年)には安楽庵策伝によって「百椿集」を著した。さらに寛永11には烏丸光広によって「椿花図譜」が著され、そこには619種のツバキが紹介されている。現在でも京都周辺の寺社仏閣には銘椿が多い。上方のツバキは変異の多いユキツバキが北陸から導入されたことと、京都、大坂の人々の独自の審美眼によって選抜されたことに特色がある》。
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故入江泰吉氏は《”花は究極の美” といわれる。その美は純粋であるが故に、誰れの目にも美しいと感じられ、心にやすらぎがもたされる》《花のいのちは短いものである。”人見るもよし 見ざるもよし されどわれは咲くなり”と、短い命の限り精一杯けなげに咲くからこそ美しく、映えるのではなかろうか》(『万葉四季の花』)と書かれた。私も、「究極の美」を短い時間のうちに凝縮させた花々に、何だか陶然となって夢中でシャッターを切った。
大和三名椿(やまとさんめいちん)とは、「白毫寺の五色(ごしき)椿」「伝香寺の散り椿(武士[もののふ]椿とも)」「東大寺開山堂の糊こぼし」であるが、椿寿庵にはその3つが揃っているそうだ。ツバキの見頃はこれからである。ぜひ、お訪ねいただきたい。
http://jafnavi.jp/web/r5/291110400.html
※椿寿庵
所在地 〒639-1027 奈良県大和郡山市池ノ内町556 TEL 0743-52-6126
交通アクセス 近鉄郡山駅から法隆寺行バスで10分。「池ノ内」バス停からすぐ
入場料 無料