奈良検定のテキストである『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)に、中将姫(ちゅうじょうひめ)ゆかりの寺として、誕生寺、高林寺(こうりんじ)、徳融寺の3つの寺が登場する。奈良検定によく出題される寺である。いずれもならまち内にあり、ごく近いところに建っている。空が曇り、やや暑さが和らいだ土曜日(8/7)、散歩がてらこれらの寺を訪ねてみた。
高林寺の山門
市内循環バスの田中町で降り、少し北西へ進むと高林寺(奈良市井上町)がある。門前に「中将姫修道霊場 豊成(とよなり)卿古墳之地」「高坊(たかぼう=桃山時代の茶人)旧跡」という石碑が建つ。中将姫の父・藤原豊成は、武智麻呂(藤原南家)の長男で、豊成の弟はあの藤原仲麻呂(恵美押勝)である。
「中将姫修道霊場 豊成卿古墳之地」「高坊旧跡」とある
ここで中将姫伝説をおさらいしておく。なら・観光ボランティアガイドの会“朱雀”のHPによると《中将姫は747年、右大臣藤原豊成と紫の前との間に生を受けましたが、姫が5歳の時に母が他界したため、その後は継母に育てられました。姫は利口で美しく、9歳の時には孝謙天皇に召され琴を演奏したところ、非常に上手であったので、後には三位中将の位を授けられるほどになり、このことから中将姫と呼ばれるようになりました。一方、継母は姫をいじめ、ついに殺害を計画し、姫が14歳の時山に連れ出し殺すように家来に命じました。しかし家来は信仰深い姫を殺すことが出来ず、雲雀山(宇陀市菟田野区)で匿い育てました》。
http://www.e-suzaku.net/osusume_course/oc_007/index.html
高林寺にある豊成の廟塔(墳墓)
《翌年、山へ狩りに来た父豊成に発見され、再び奈良の都に帰ることが出来ましたが、度重なる辛苦に姫は世の無常を悟り、当麻寺に出家するに至ります。26歳の時、蓮糸を用いて一晩で当麻曼荼羅を織り上げ、29歳で生きながら西方浄土へと旅立ったと伝えられている中将姫説話は、中世以降、能や歌舞伎、浄瑠璃に多く描かれています》。
高林寺について、検定テキストには《融通念仏宗の尼寺。奈良時代、藤原豊成の屋敷跡に建てられた寺で、豊成の娘の中将姫はここで成人し、當麻寺に入って出家、法如尼となった。豊成は死後この地に葬られ、藤原家の興隆を祈って高林寺と名付けられた。平重衡の南都焼き討ちで焼失したが再興、境内の豊成の廟塔(墳墓)を守って今日に至っている。また、桃山時代には数寄者(すきしゃ)の高坊一族が住み、茶湯等を楽しみ、奈良町の数寄者の一大サロンを形成、奈良町文化の中心となった》。
《松永久秀が多聞城築城のため、供養塔や豊成の廟塔を持ち去ろうとした時、「曳残(ひきのこ)す 花や秋咲く 石の竹」との心前法師の発句に心打たれ、危うく難を逃れたという逸話が残っている》。“朱雀”のHPによると、俳句にある《石の竹とは「石塔」と「石竹」(別称[カラナデシコ])とをかけた言葉で、「冬の間は雑草同然のカラナデシコも、秋が来れば美しい花を咲かせるように、荒れ果てた父娘の石塔でも、時節にめぐりあえば人々に供養される。だから曳き残して置くように」という意味》だそうだ。
外国人光客に人気の静観荘
誕生寺山門
高林寺から銭湯の前を通り、ほんの少し歩いたところに、誕生寺(奈良市三棟町)がある。外国人光客御用達のB&B、静観荘も近い。浄土宗の尼寺で、敷地が《藤原豊成の邸宅であったことから、姫の生誕地という意味で誕生寺の名がついた。境内には中将姫の産湯に使ったという誕生の井戸もあり、井戸端に江戸時代の二十五菩薩石仏が並ぶ。中将姫・豊成・紫の前(生母)の御殿が並置されたことから三棟殿とも称され、中将姫修道霊場の一院として信仰を集めてきた。毎年4月13・14日に浄土曼荼羅と中将姫真像が開帳される》(検定テキスト)。
誕生寺本堂。ここに中将姫の木坐像(本尊)、豊成公木坐像、中将姫作と伝える蓮糸織などが安置されている
あいにくお寺は留守だったので、石仏も井戸も拝めなかった。こちらのブログ(日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記)に写真が出ているので、ご参照いただきたい。
http://rover.seesaa.net/article/113464663.html
誕生寺から100mほどの所に、徳融寺(奈良市鳴川町)がある。《元来は元興寺の子院で北方にあったが、元興寺が土一揆で罹災したのち、天正18年(1590)に住僧の意順が現在地へ移したという。江戸時代初期、融通念仏宗に属して大念仏寺の末寺となって以来、信仰を集め今に至る》(検定テキスト)。
徳融寺山門
《寺地は中将姫の父である右大臣藤原豊成の旧邸宅と伝えられ、本尊の阿弥陀如来立像(鎌倉時代)は北条政子の念持仏であったという。延宝5年(1677)に高林寺から移された豊成父子の供養塔という二基の宝篋印塔がある》。もと高林寺にあり、心前法師が「曳残す 花や秋咲く 石の竹」と詠んだ豊成父子の供養塔は、徳融寺観音堂の裏手に移されていたのだ。
石に彫られた大日如来像(吉村長慶氏の作)
豊成父子の供養塔(二基の宝篋印塔)。トップ写真とも
本堂に上がらせていただいたが、ご本尊は厨子の中に隠れていた。観音堂では、赤ん坊を抱いた子安観音立像(平安時代初期)を目前で拝ませていただいた。江戸時代末、子安観音にちなんで寺子屋が開かれ、明治5年の学制で「魁化舎第三番小学」となり、後に西木辻八軒町に移転し、現在の奈良市立済美小学校になったそうだ。
徳融寺本堂
同寺毘沙門堂
徳融寺の隣に安養寺というお寺があった。お参りも写真撮影もせずに通り過ぎたが、こちらは中将姫が出家して開創したと伝わるお寺だった。ブログ「飛鳥への旅」によると《西山浄土宗紫雲山「安養寺」は、法如禅尼 (中将姫)開祖で、室町時代に建てられた本堂は、県の文化財に指定され、昔は「横佩(よこはぎ)堂」と呼ばれており、これは中将姫の父藤原豊成卿が横佩右大臣と称されていたため》。
http://blog.goo.ne.jp/mr_asuka2/e/d64f29f75cb11d05a6251beacf549bed
《後に恵心僧都作と伝えられる阿弥陀三尊(本尊阿弥陀如来、左脇侍観音菩薩、右脇侍勢至菩薩)を安置してから「安養寺」と改称した。「安養寺」は別名を「大和善光寺」とも呼ばれている。本尊の阿弥陀如来坐像と観音・勢至菩薩像(いづれも平安時代の作)は奈良国立博物館に寄託されており、現在は別の阿弥陀如来像と、善光寺如来三尊像を安置している》。
ならまちでは、金魚すくいもできる
ということで、中将姫ゆかりの寺は、ならまちに4か寺あったことになる。整理すると
1.誕生寺:中将姫が誕生した寺、姫の父・豊成の屋敷跡
2.高林寺:中将姫が成人した寺(「林のように高く成長した」と暗記する)、豊成の墳墓がある。高坊一族が住んだ。豊成の屋敷跡
3.徳融寺:豊成の屋敷跡。「曳残す 花や秋咲く 石の竹」と詠まれた父子の供養塔が現存する
4.安養寺:中将姫が開基と伝わる寺、徳融寺の隣にある
こうして、ならまちを散策しながら4つのお寺を回ってきた。駅(近鉄奈良駅、JR奈良駅)から往復を歩くのは遠いので、片道くらいは市内循環バスを利用するのが得策だろう。現在開催中のなら燈花会(とうかえ)は午後7時に点火されるが、早いめに奈良に入り、中将姫ゆかりのお寺を回り、少し休憩してから奈良公園に向かう、という手もある。ぜひいちど、お訪ねいただきたい。
高林寺の山門
市内循環バスの田中町で降り、少し北西へ進むと高林寺(奈良市井上町)がある。門前に「中将姫修道霊場 豊成(とよなり)卿古墳之地」「高坊(たかぼう=桃山時代の茶人)旧跡」という石碑が建つ。中将姫の父・藤原豊成は、武智麻呂(藤原南家)の長男で、豊成の弟はあの藤原仲麻呂(恵美押勝)である。
「中将姫修道霊場 豊成卿古墳之地」「高坊旧跡」とある
ここで中将姫伝説をおさらいしておく。なら・観光ボランティアガイドの会“朱雀”のHPによると《中将姫は747年、右大臣藤原豊成と紫の前との間に生を受けましたが、姫が5歳の時に母が他界したため、その後は継母に育てられました。姫は利口で美しく、9歳の時には孝謙天皇に召され琴を演奏したところ、非常に上手であったので、後には三位中将の位を授けられるほどになり、このことから中将姫と呼ばれるようになりました。一方、継母は姫をいじめ、ついに殺害を計画し、姫が14歳の時山に連れ出し殺すように家来に命じました。しかし家来は信仰深い姫を殺すことが出来ず、雲雀山(宇陀市菟田野区)で匿い育てました》。
http://www.e-suzaku.net/osusume_course/oc_007/index.html
高林寺にある豊成の廟塔(墳墓)
《翌年、山へ狩りに来た父豊成に発見され、再び奈良の都に帰ることが出来ましたが、度重なる辛苦に姫は世の無常を悟り、当麻寺に出家するに至ります。26歳の時、蓮糸を用いて一晩で当麻曼荼羅を織り上げ、29歳で生きながら西方浄土へと旅立ったと伝えられている中将姫説話は、中世以降、能や歌舞伎、浄瑠璃に多く描かれています》。
高林寺について、検定テキストには《融通念仏宗の尼寺。奈良時代、藤原豊成の屋敷跡に建てられた寺で、豊成の娘の中将姫はここで成人し、當麻寺に入って出家、法如尼となった。豊成は死後この地に葬られ、藤原家の興隆を祈って高林寺と名付けられた。平重衡の南都焼き討ちで焼失したが再興、境内の豊成の廟塔(墳墓)を守って今日に至っている。また、桃山時代には数寄者(すきしゃ)の高坊一族が住み、茶湯等を楽しみ、奈良町の数寄者の一大サロンを形成、奈良町文化の中心となった》。
《松永久秀が多聞城築城のため、供養塔や豊成の廟塔を持ち去ろうとした時、「曳残(ひきのこ)す 花や秋咲く 石の竹」との心前法師の発句に心打たれ、危うく難を逃れたという逸話が残っている》。“朱雀”のHPによると、俳句にある《石の竹とは「石塔」と「石竹」(別称[カラナデシコ])とをかけた言葉で、「冬の間は雑草同然のカラナデシコも、秋が来れば美しい花を咲かせるように、荒れ果てた父娘の石塔でも、時節にめぐりあえば人々に供養される。だから曳き残して置くように」という意味》だそうだ。
外国人光客に人気の静観荘
誕生寺山門
高林寺から銭湯の前を通り、ほんの少し歩いたところに、誕生寺(奈良市三棟町)がある。外国人光客御用達のB&B、静観荘も近い。浄土宗の尼寺で、敷地が《藤原豊成の邸宅であったことから、姫の生誕地という意味で誕生寺の名がついた。境内には中将姫の産湯に使ったという誕生の井戸もあり、井戸端に江戸時代の二十五菩薩石仏が並ぶ。中将姫・豊成・紫の前(生母)の御殿が並置されたことから三棟殿とも称され、中将姫修道霊場の一院として信仰を集めてきた。毎年4月13・14日に浄土曼荼羅と中将姫真像が開帳される》(検定テキスト)。
誕生寺本堂。ここに中将姫の木坐像(本尊)、豊成公木坐像、中将姫作と伝える蓮糸織などが安置されている
あいにくお寺は留守だったので、石仏も井戸も拝めなかった。こちらのブログ(日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記)に写真が出ているので、ご参照いただきたい。
http://rover.seesaa.net/article/113464663.html
誕生寺から100mほどの所に、徳融寺(奈良市鳴川町)がある。《元来は元興寺の子院で北方にあったが、元興寺が土一揆で罹災したのち、天正18年(1590)に住僧の意順が現在地へ移したという。江戸時代初期、融通念仏宗に属して大念仏寺の末寺となって以来、信仰を集め今に至る》(検定テキスト)。
徳融寺山門
《寺地は中将姫の父である右大臣藤原豊成の旧邸宅と伝えられ、本尊の阿弥陀如来立像(鎌倉時代)は北条政子の念持仏であったという。延宝5年(1677)に高林寺から移された豊成父子の供養塔という二基の宝篋印塔がある》。もと高林寺にあり、心前法師が「曳残す 花や秋咲く 石の竹」と詠んだ豊成父子の供養塔は、徳融寺観音堂の裏手に移されていたのだ。
石に彫られた大日如来像(吉村長慶氏の作)
豊成父子の供養塔(二基の宝篋印塔)。トップ写真とも
本堂に上がらせていただいたが、ご本尊は厨子の中に隠れていた。観音堂では、赤ん坊を抱いた子安観音立像(平安時代初期)を目前で拝ませていただいた。江戸時代末、子安観音にちなんで寺子屋が開かれ、明治5年の学制で「魁化舎第三番小学」となり、後に西木辻八軒町に移転し、現在の奈良市立済美小学校になったそうだ。
徳融寺本堂
同寺毘沙門堂
徳融寺の隣に安養寺というお寺があった。お参りも写真撮影もせずに通り過ぎたが、こちらは中将姫が出家して開創したと伝わるお寺だった。ブログ「飛鳥への旅」によると《西山浄土宗紫雲山「安養寺」は、法如禅尼 (中将姫)開祖で、室町時代に建てられた本堂は、県の文化財に指定され、昔は「横佩(よこはぎ)堂」と呼ばれており、これは中将姫の父藤原豊成卿が横佩右大臣と称されていたため》。
http://blog.goo.ne.jp/mr_asuka2/e/d64f29f75cb11d05a6251beacf549bed
《後に恵心僧都作と伝えられる阿弥陀三尊(本尊阿弥陀如来、左脇侍観音菩薩、右脇侍勢至菩薩)を安置してから「安養寺」と改称した。「安養寺」は別名を「大和善光寺」とも呼ばれている。本尊の阿弥陀如来坐像と観音・勢至菩薩像(いづれも平安時代の作)は奈良国立博物館に寄託されており、現在は別の阿弥陀如来像と、善光寺如来三尊像を安置している》。
ならまちでは、金魚すくいもできる
ということで、中将姫ゆかりの寺は、ならまちに4か寺あったことになる。整理すると
1.誕生寺:中将姫が誕生した寺、姫の父・豊成の屋敷跡
2.高林寺:中将姫が成人した寺(「林のように高く成長した」と暗記する)、豊成の墳墓がある。高坊一族が住んだ。豊成の屋敷跡
3.徳融寺:豊成の屋敷跡。「曳残す 花や秋咲く 石の竹」と詠まれた父子の供養塔が現存する
4.安養寺:中将姫が開基と伝わる寺、徳融寺の隣にある
こうして、ならまちを散策しながら4つのお寺を回ってきた。駅(近鉄奈良駅、JR奈良駅)から往復を歩くのは遠いので、片道くらいは市内循環バスを利用するのが得策だろう。現在開催中のなら燈花会(とうかえ)は午後7時に点火されるが、早いめに奈良に入り、中将姫ゆかりのお寺を回り、少し休憩してから奈良公園に向かう、という手もある。ぜひいちど、お訪ねいただきたい。