優婆塞行者(在俗の行者)のYさん(大工さん・86歳)がお亡くなりになった。Yさんは利典師のご父君のお弟子だったので、利典師とは兄弟弟子ということになる。
吉野ではなく自坊の林南院(京都府綾部市)の近くにお住まいだったので、師はお通夜には間に合わず、夜10時を過ぎてからYさんの自宅を訪れ、棺を前に読経されるとともに、ご家族に向けて弔辞を披露された。
この辺りのことを師は「市井の行者さんを送る」として、「金峯山時報」とブログ(2013.3.28 付)で紹介された。ブログには、Yさんのお子さんから、こんな感謝のコメントが入っていた。
お通夜の時のありがたい読経、本当に嬉しかったです。本当にYの事を思った読経でした。どんなお経を唱えてもらっても、お通夜の読経ほどありがたいものはありませんでした。本当にありがとうございました。
亡父も人生の最後を見送って貰えて、喜んでいる事と思います。お忙しい毎日と思いますが、たまに亡父の事を思い出して頂けると、亡父も嬉しいと思います。本当に感謝感謝です。ありがとうございました。
これに対して、師はこのように返信された。
Yさんには本当に公私ともにお世話になりました。なんのお返しらしいお返しも出来ないまま、今生の別れになったことを申し訳なく思っています。でも良い顔をされていて、お別れの時に、ほっとしました。
人生をまっとうされたことを、本当に尊く思います。またお参りにも行かせていただきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。どうぞ、お疲れの出ませんように…。
師の優しいお心が満ちあふれた追悼文だ。以下に全文を引用させていただく。
「市井の行者さんを送る」
3月25日の夜、私は自坊へ帰山した。自坊で長い間お世話になった行者さんの訃報に接して、とるものもとりあえず帰ったのである。昨晩、機関紙(金峯山時報)用のエッセイとして、行者さんのことを書いた。レクイエムでもある。掲載前の早出しとなるが、紹介したい。
*************
「市井の行者さんを送る」
市井の行者として生きるとは、こういうことなのか、という思いで、ある優婆塞行者さまを見送った。その行者さんは亡父の弟子で、私から言うと兄弟弟子になる。自坊の建立当時から支えていただいた生え抜きの行者さんだった。
お通夜の席には間に合わなかったが、お葬式には出させてもらった。心の内では弔辞を用意したが読まなかった。棺は黒の道服を着ておられた。でも戒名は金峯山寺から授かった法名ではなく、旦那寺からいただかれた見知らぬ名前となっていた。
葬儀の中でも、行者として生きた人生は紹介をされなかった。だったらなぜ弔辞で紹介しなかったのか、って叱責されそうだが、言わなくてよかったと私は思っている。
実はお通夜の式には間に合わなかったが、夜10時を回って、行者さまの自宅を訪れた。そして棺を前に、読経とともに、弔辞のような表白文を一人披露した。家族の方々には聞いていただいた。それで充分だったと思ったからである。その要旨を記しておきたい。
「私は最近、人生を全うするということがどんなに大切なことなのか、ずっと考えています。Yさん、本当にお疲れ様でした。86歳の人生、ご苦労様でした。Yさんは腕のいい大工さんでした。たくさんの家を建てて、たくさんの人に喜ばれました。Yさんは地元の顔役でした。自治会長などたくさんの役をつとめ、たくさんの方々のために働かれました」。
「Yさんは大峯の行者さんでもありました。自坊のこともずっとささえていただきました。息子さんや娘さんなどご親族を除いては、私が一番Yさんにお世話になったように思います。そのお世話になった人間を代表して、御礼を述べたいと思います。本当にありがとうございました。奥様に先立たれた晩年は少し寂しかったとは思いますが、でも、見事に人生を全うされたことを、とても尊く感じています」。
ご家族には大変喜んでいただいた。「読経してもらって、父の顔がとても優しくなった」と言っていただいた。旅立ちの衣装は、子どもの頃から自分達が見慣れた道服にしたこと、そして棺の足下には行者装束も入れられていることを教えてもらった。
行者として生きた人生は葬儀では紹介されなかったが、きっと本人はそれでよいと思っておられたように私は感じた。家族全員がよくわかっていたのだから、それでいいのだ。市井の行者に生きるとは、そういうことであっていいのだと、Y行者を見送る中で私は漫然とそう確信していた。
吉野ではなく自坊の林南院(京都府綾部市)の近くにお住まいだったので、師はお通夜には間に合わず、夜10時を過ぎてからYさんの自宅を訪れ、棺を前に読経されるとともに、ご家族に向けて弔辞を披露された。
この辺りのことを師は「市井の行者さんを送る」として、「金峯山時報」とブログ(2013.3.28 付)で紹介された。ブログには、Yさんのお子さんから、こんな感謝のコメントが入っていた。
お通夜の時のありがたい読経、本当に嬉しかったです。本当にYの事を思った読経でした。どんなお経を唱えてもらっても、お通夜の読経ほどありがたいものはありませんでした。本当にありがとうございました。
亡父も人生の最後を見送って貰えて、喜んでいる事と思います。お忙しい毎日と思いますが、たまに亡父の事を思い出して頂けると、亡父も嬉しいと思います。本当に感謝感謝です。ありがとうございました。
これに対して、師はこのように返信された。
Yさんには本当に公私ともにお世話になりました。なんのお返しらしいお返しも出来ないまま、今生の別れになったことを申し訳なく思っています。でも良い顔をされていて、お別れの時に、ほっとしました。
人生をまっとうされたことを、本当に尊く思います。またお参りにも行かせていただきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。どうぞ、お疲れの出ませんように…。
師の優しいお心が満ちあふれた追悼文だ。以下に全文を引用させていただく。
「市井の行者さんを送る」
3月25日の夜、私は自坊へ帰山した。自坊で長い間お世話になった行者さんの訃報に接して、とるものもとりあえず帰ったのである。昨晩、機関紙(金峯山時報)用のエッセイとして、行者さんのことを書いた。レクイエムでもある。掲載前の早出しとなるが、紹介したい。
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「市井の行者さんを送る」
市井の行者として生きるとは、こういうことなのか、という思いで、ある優婆塞行者さまを見送った。その行者さんは亡父の弟子で、私から言うと兄弟弟子になる。自坊の建立当時から支えていただいた生え抜きの行者さんだった。
お通夜の席には間に合わなかったが、お葬式には出させてもらった。心の内では弔辞を用意したが読まなかった。棺は黒の道服を着ておられた。でも戒名は金峯山寺から授かった法名ではなく、旦那寺からいただかれた見知らぬ名前となっていた。
葬儀の中でも、行者として生きた人生は紹介をされなかった。だったらなぜ弔辞で紹介しなかったのか、って叱責されそうだが、言わなくてよかったと私は思っている。
実はお通夜の式には間に合わなかったが、夜10時を回って、行者さまの自宅を訪れた。そして棺を前に、読経とともに、弔辞のような表白文を一人披露した。家族の方々には聞いていただいた。それで充分だったと思ったからである。その要旨を記しておきたい。
「私は最近、人生を全うするということがどんなに大切なことなのか、ずっと考えています。Yさん、本当にお疲れ様でした。86歳の人生、ご苦労様でした。Yさんは腕のいい大工さんでした。たくさんの家を建てて、たくさんの人に喜ばれました。Yさんは地元の顔役でした。自治会長などたくさんの役をつとめ、たくさんの方々のために働かれました」。
「Yさんは大峯の行者さんでもありました。自坊のこともずっとささえていただきました。息子さんや娘さんなどご親族を除いては、私が一番Yさんにお世話になったように思います。そのお世話になった人間を代表して、御礼を述べたいと思います。本当にありがとうございました。奥様に先立たれた晩年は少し寂しかったとは思いますが、でも、見事に人生を全うされたことを、とても尊く感じています」。
ご家族には大変喜んでいただいた。「読経してもらって、父の顔がとても優しくなった」と言っていただいた。旅立ちの衣装は、子どもの頃から自分達が見慣れた道服にしたこと、そして棺の足下には行者装束も入れられていることを教えてもらった。
行者として生きた人生は葬儀では紹介されなかったが、きっと本人はそれでよいと思っておられたように私は感じた。家族全員がよくわかっていたのだから、それでいいのだ。市井の行者に生きるとは、そういうことであっていいのだと、Y行者を見送る中で私は漫然とそう確信していた。