今日の「田中利典師曰く」では、2003年2月に行われた「全日本仏教青年会全国大会」シンポジウムでの師の「まとめ」発言(前半部分)を紹介する(師のブログ 2013.5.18 付)。
※トップ写真は、吉野山の桜(3/28撮影)
このシンポジウムの模様は、全日本仏教青年会編『葬式仏教は死なない―青年僧が描くニュー・ブッディズム 』(白馬社刊)として刊行されている。シンポジウム当時、利典師は意気盛んな47歳。「葬式仏教」と揶揄される仏教に対する、僧侶側からの意見表明である。
最近では、通夜も葬式も行わず、病院や自宅から直接葬儀場へ向かって火葬するという「直葬」も行われているので、当時とはまた様相を異にするが(葬儀自体のお坊さん離れ)、当時の青年僧の発言として、興味深い。では、以下に全文を紹介する。
シリーズ・山人の自薦書籍(12)
『葬式仏教は死なない―青年僧が描くニュー・ブッディズム 』
シリーズ「山人の自薦書籍」(12)…いろんなお陰様で、私は自著以外でもたくさんの関連書籍を出していただいています。その第12弾。『葬式仏教は死なない―青年僧が描くニュー・ブッディズム 』出版社:白馬社・編集:全日本仏教青年会 (2003/08) 。
本書は私が全日本仏教青年会の副理事長時代におこなった全国大会のシンポジウム記録。大樹玄承さんが理事長だったけど、大会の仕切りを友人のT氏に依頼して、理事長以下、加盟団体のみなさんの協力を得て、ほとんどふたりで中身はやらせていただいた。
はじめから青年会の編集で、記録集を作成するつもりで大会も企画したが、シンポジウムで講師のひろさちやさんがコーディネーターの私やパネリストの高橋卓志さんとのやりとりで、怒ってしまい、ひろさんが呼んでいた春秋社での出版が出来なくなり、T氏のご縁で、京都の白馬社から上梓することとなった、なかなか苦労した本。
ひろさんが怒っちゃったので、かえって、シンポは面白くなりました。でもあとで謝ったけど、どうしても許してもらえなくて、出版社を替えないと上梓できなかったのです。
ひろさんの講演と私がコーディネートしたシンポジウム記録や葬式仏教の現状を調査した報告書のほか、「青年僧が描くニュー・ブッディズム」と題した私のまとめ文も載っている。もう10年も経つが、私が仏教青年会でいろいろやらせていただいた集大成の一冊(私は副理事長を7年させていただいた。結構、異例なのです)。
もちろんAmazonでは新品は売ってないが、中古品はあるらしい。金峯山寺ではまだ在庫があります。以下、所収された私の文章の原稿がありましたので、最初の部分を添付します。ご参照ください。考えが、若ーーい!…正直照れる。。
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まとめ――青年僧が描くニュー・ブッディズム 田中利典
シンポジウム中でもコメントしたが、私は昔「檀家制度があるかぎり、僧侶の資質は上がらない。日本仏教をダメにする」と思っていた。しかし近年は宗旨替えをして「檀家制度があるからまだましなんだ」と思うようになった。
偉そうに言うと「今ならまだ間に合う。日本仏教も捨てたものじゃない」と思っているのである。全日本仏教青年会全国大会「葬式仏教を考える~日本仏教活性化への道」のテーマに関わったのはまさしくそういった思いを持ってのことであった。
◎「葬式仏教」と揶揄される二つの理由
「葬式仏教」という言葉は、僧侶が自らを認めて使う言葉ではなく、外から仏教のあり方を揶揄して使用される批判的な言い方である。全国大会のテーマを決める実行委員会の席上、一部の理事から「僧侶自らが葬式仏教という言葉を使うのには抵抗がある」と反対意見が出たのも、世間の批判に対する嫌悪感の表れであろう。ではその葬式仏教のどこが問題なのであろうか。私は2点を考えている。
1つ目は仏教原理からみて葬儀に関わる仏教は間違いである、という見方である。基調講演の中でひろさちや氏も「お釈迦さまは葬儀は出家者のすることではないと言われた」と述べられ、「今の日本の様子をみたらお釈迦様はさぞや驚かれるだろう」とさえ言っておられる。
ところが逆にそんなことを聞いたら「えー、お釈迦さんってお葬式の親分じゃないの?」と一般の人からはびっくりされるくらい、日本仏教は仏教本来の原理原則から離れ、葬儀や法事に奔走している感がある。実際に今回の全国大会に際して行った僧侶アンケートの結果を見ても、その7割以上が、葬儀あるいは法事や墓地に関わる葬送儀礼の収入に依存しており、祈祷や拝観収益などを大きく凌駕していた。葬式仏教と言われる所以である。
しかし、だからといってお葬式や先祖回向に携わってきた日本仏教が全否定されるわけではないと私は思っている。シンポや全体会でひろ氏が述べられた仏教原理主義への回帰は見識である。仏教原理を離れてしまっては仏教でもなんでもなくなってしまう。
しかしながら私たちの先人は仏教伝来以前からある、我が国独特の祖霊信仰や、あるいは後に出てくる怨霊思想などと仏教原理を融合させ、日本ナイズした形で受容して、日本の精神文化を形成してきた。原理を捨てたのではなく、活用して変容させ、日本文化の血肉としたと言えるのではないだろうか。少なくとも今の日本仏教の基盤はそこにある。
問題は葬儀への関わり自体を否定するのではなく、仏教原理をどう活かして葬儀に携わるのかということであろう。今、多くの僧侶は宗門立の大学で仏教を学ぶが、大学で学ぶ仏教は仏道の実践ではなく、頭で学ぶ仏教原理ばかりである。そして卒業した彼らが直面する現実は葬式仏教の現場である。肝心の、大学で学んできた仏教原理をどう実践し、どう活かしていくかは個々人の問題として、放置されたままなのである。
2つ目の問題点は、肝心の僧侶たちがはたして葬儀自体を厳粛に執行できているのかという問題である。こういっては失礼かも知れないが、葬儀屋さんは商売で葬式をしている。同様に僧侶も商売で葬式をしている、とすればまさに葬式仏教、葬式坊主のそしりは免れない。
人生最終の通過儀礼の場で僧侶が必要とされているのは、宗教人としての聖職性や引導者としての信頼性があるからである。仏教原理の体現者としての実践性に帰依をするから、檀徒は檀那寺に信頼を寄せてきたのである。
それが檀家制度に胡座(あぐら)をかき、寺を私物化し、商売で葬式をやっているかのような姿勢を僧侶が取ったとき、葬式仏教と揶揄されることになったのではないだろうか。葬式を厳粛に執行しているというのは、仏教者として真摯に関わっているということである。
アンケート調査の結果を見ても「葬式仏教と批判されても仕方がない事実がある」と答えた人が8割を超え、僧侶自身の後ろめたさを感じさせる結果となったが、もっと自信をもって僧侶として葬儀に関わらなくてどうするんだ、と言いたい。
葬儀屋主導である、時間が限られている、などという言い訳も聞きたくない。たとえどうであれ、三界の導師として、死者や遺族に向き合う自信がなくて、僧侶と言えるであろうか。葬式仏教大いに結構! と言い飛ばすくらいの信心決定がないのなら、商売坊主に違いないのである。
◎葬儀をめぐる現代的問題
実は葬儀の問題は大変に複雑な要素を含んでいる。「葬儀は習俗である」とひろ氏は一刀両断にされたが、今はその習俗・習慣もくずれている。
明治初期に行われた神仏分離施策によって、神仏習合という我が国の精神文化の基層の部分を支えてきた独特の習俗は打ち壊され、戦後は家や家族、村を中心とする共同体社会の急速な崩壊によって、精神文化だけでなく慣習や社会制度など、あらゆる分野で大変革を迎えた。その結果、僧侶も習俗がわからない。神官も、村の長老もわからない。だれも習俗がわからなくなっている。
そもそも仏教葬儀式自体が習俗の上に、各宗派の教義を融合させて出来上がったという経緯がある。だから同じ宗派の葬儀式や追善儀礼も、土地土地によって多種多様である。その習俗が壊れ、変容している現状の前に、僧侶もまた立ちつくしているといえよう。正しい葬儀とは何なのか、今は誰もがそれを知らない時代なのかも知れない。「自分らしい葬儀」「友人葬」「音楽葬」などが流行る所以である。
しかし仏教徒としての葬儀、僧侶が関わる厳粛な葬儀を行うという定義は明白であろう。宗旨によっていささかの違いはあるにせよ、仏教原理の体現者として、死者に対してはこの世の執着を除き、遺族には故人の死への悼みを癒すと共に、死を通して今生の自らの命の意味に目覚めさせる務めを果たすことであろう。シンポのまとめとして私が提言した「オーダーメイドの葬儀を心掛ける」とはそういう意味である。
実は冒頭で「檀家制度が日本仏教をダメにする」と書いたのには2つの意味合いがあった。1つは檀家制度によって日本仏教は葬式仏教化し、社会のインフラが整い分業化が進んだ今日では寺院は葬儀のみをすればよいということになって、仏教本来の仏教教理の体現という側面が損なわれたという点と、檀家制度は寺族の世襲制や寺院私物化を促し、僧職自体が職業化してしまった点である。いずれにしても僧侶としての資質を問わずに僧侶となってしまう状況を生んでしまったというような一面を持つ。
しかしながらマイナス面だけを見ていた若い頃と違って最近檀家制度の優れた面に目がいくようになった。日本仏教は明治初期に起きた神仏分離政策による廃仏毀釈運動や、戦後の農地解放による寺院の財政基盤の喪失など近代社会を迎えてから幾たびかの大きな法難に遭っているが、ある意味、檀家制度が支えとなって生きながらえた。
もちろん先に指摘したとおり、僧侶の資質を低下させた面もあろうが、傍らでは多くの優れた僧侶を輩出してきた事実もある。日本仏教自体が死に絶えてはどんな優秀な僧侶も生まれ得ないだろう…。
※トップ写真は、吉野山の桜(3/28撮影)
このシンポジウムの模様は、全日本仏教青年会編『葬式仏教は死なない―青年僧が描くニュー・ブッディズム 』(白馬社刊)として刊行されている。シンポジウム当時、利典師は意気盛んな47歳。「葬式仏教」と揶揄される仏教に対する、僧侶側からの意見表明である。
最近では、通夜も葬式も行わず、病院や自宅から直接葬儀場へ向かって火葬するという「直葬」も行われているので、当時とはまた様相を異にするが(葬儀自体のお坊さん離れ)、当時の青年僧の発言として、興味深い。では、以下に全文を紹介する。
シリーズ・山人の自薦書籍(12)
『葬式仏教は死なない―青年僧が描くニュー・ブッディズム 』
シリーズ「山人の自薦書籍」(12)…いろんなお陰様で、私は自著以外でもたくさんの関連書籍を出していただいています。その第12弾。『葬式仏教は死なない―青年僧が描くニュー・ブッディズム 』出版社:白馬社・編集:全日本仏教青年会 (2003/08) 。
本書は私が全日本仏教青年会の副理事長時代におこなった全国大会のシンポジウム記録。大樹玄承さんが理事長だったけど、大会の仕切りを友人のT氏に依頼して、理事長以下、加盟団体のみなさんの協力を得て、ほとんどふたりで中身はやらせていただいた。
はじめから青年会の編集で、記録集を作成するつもりで大会も企画したが、シンポジウムで講師のひろさちやさんがコーディネーターの私やパネリストの高橋卓志さんとのやりとりで、怒ってしまい、ひろさんが呼んでいた春秋社での出版が出来なくなり、T氏のご縁で、京都の白馬社から上梓することとなった、なかなか苦労した本。
ひろさんが怒っちゃったので、かえって、シンポは面白くなりました。でもあとで謝ったけど、どうしても許してもらえなくて、出版社を替えないと上梓できなかったのです。
ひろさんの講演と私がコーディネートしたシンポジウム記録や葬式仏教の現状を調査した報告書のほか、「青年僧が描くニュー・ブッディズム」と題した私のまとめ文も載っている。もう10年も経つが、私が仏教青年会でいろいろやらせていただいた集大成の一冊(私は副理事長を7年させていただいた。結構、異例なのです)。
もちろんAmazonでは新品は売ってないが、中古品はあるらしい。金峯山寺ではまだ在庫があります。以下、所収された私の文章の原稿がありましたので、最初の部分を添付します。ご参照ください。考えが、若ーーい!…正直照れる。。
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まとめ――青年僧が描くニュー・ブッディズム 田中利典
シンポジウム中でもコメントしたが、私は昔「檀家制度があるかぎり、僧侶の資質は上がらない。日本仏教をダメにする」と思っていた。しかし近年は宗旨替えをして「檀家制度があるからまだましなんだ」と思うようになった。
偉そうに言うと「今ならまだ間に合う。日本仏教も捨てたものじゃない」と思っているのである。全日本仏教青年会全国大会「葬式仏教を考える~日本仏教活性化への道」のテーマに関わったのはまさしくそういった思いを持ってのことであった。
◎「葬式仏教」と揶揄される二つの理由
「葬式仏教」という言葉は、僧侶が自らを認めて使う言葉ではなく、外から仏教のあり方を揶揄して使用される批判的な言い方である。全国大会のテーマを決める実行委員会の席上、一部の理事から「僧侶自らが葬式仏教という言葉を使うのには抵抗がある」と反対意見が出たのも、世間の批判に対する嫌悪感の表れであろう。ではその葬式仏教のどこが問題なのであろうか。私は2点を考えている。
1つ目は仏教原理からみて葬儀に関わる仏教は間違いである、という見方である。基調講演の中でひろさちや氏も「お釈迦さまは葬儀は出家者のすることではないと言われた」と述べられ、「今の日本の様子をみたらお釈迦様はさぞや驚かれるだろう」とさえ言っておられる。
ところが逆にそんなことを聞いたら「えー、お釈迦さんってお葬式の親分じゃないの?」と一般の人からはびっくりされるくらい、日本仏教は仏教本来の原理原則から離れ、葬儀や法事に奔走している感がある。実際に今回の全国大会に際して行った僧侶アンケートの結果を見ても、その7割以上が、葬儀あるいは法事や墓地に関わる葬送儀礼の収入に依存しており、祈祷や拝観収益などを大きく凌駕していた。葬式仏教と言われる所以である。
しかし、だからといってお葬式や先祖回向に携わってきた日本仏教が全否定されるわけではないと私は思っている。シンポや全体会でひろ氏が述べられた仏教原理主義への回帰は見識である。仏教原理を離れてしまっては仏教でもなんでもなくなってしまう。
しかしながら私たちの先人は仏教伝来以前からある、我が国独特の祖霊信仰や、あるいは後に出てくる怨霊思想などと仏教原理を融合させ、日本ナイズした形で受容して、日本の精神文化を形成してきた。原理を捨てたのではなく、活用して変容させ、日本文化の血肉としたと言えるのではないだろうか。少なくとも今の日本仏教の基盤はそこにある。
問題は葬儀への関わり自体を否定するのではなく、仏教原理をどう活かして葬儀に携わるのかということであろう。今、多くの僧侶は宗門立の大学で仏教を学ぶが、大学で学ぶ仏教は仏道の実践ではなく、頭で学ぶ仏教原理ばかりである。そして卒業した彼らが直面する現実は葬式仏教の現場である。肝心の、大学で学んできた仏教原理をどう実践し、どう活かしていくかは個々人の問題として、放置されたままなのである。
2つ目の問題点は、肝心の僧侶たちがはたして葬儀自体を厳粛に執行できているのかという問題である。こういっては失礼かも知れないが、葬儀屋さんは商売で葬式をしている。同様に僧侶も商売で葬式をしている、とすればまさに葬式仏教、葬式坊主のそしりは免れない。
人生最終の通過儀礼の場で僧侶が必要とされているのは、宗教人としての聖職性や引導者としての信頼性があるからである。仏教原理の体現者としての実践性に帰依をするから、檀徒は檀那寺に信頼を寄せてきたのである。
それが檀家制度に胡座(あぐら)をかき、寺を私物化し、商売で葬式をやっているかのような姿勢を僧侶が取ったとき、葬式仏教と揶揄されることになったのではないだろうか。葬式を厳粛に執行しているというのは、仏教者として真摯に関わっているということである。
アンケート調査の結果を見ても「葬式仏教と批判されても仕方がない事実がある」と答えた人が8割を超え、僧侶自身の後ろめたさを感じさせる結果となったが、もっと自信をもって僧侶として葬儀に関わらなくてどうするんだ、と言いたい。
葬儀屋主導である、時間が限られている、などという言い訳も聞きたくない。たとえどうであれ、三界の導師として、死者や遺族に向き合う自信がなくて、僧侶と言えるであろうか。葬式仏教大いに結構! と言い飛ばすくらいの信心決定がないのなら、商売坊主に違いないのである。
◎葬儀をめぐる現代的問題
実は葬儀の問題は大変に複雑な要素を含んでいる。「葬儀は習俗である」とひろ氏は一刀両断にされたが、今はその習俗・習慣もくずれている。
明治初期に行われた神仏分離施策によって、神仏習合という我が国の精神文化の基層の部分を支えてきた独特の習俗は打ち壊され、戦後は家や家族、村を中心とする共同体社会の急速な崩壊によって、精神文化だけでなく慣習や社会制度など、あらゆる分野で大変革を迎えた。その結果、僧侶も習俗がわからない。神官も、村の長老もわからない。だれも習俗がわからなくなっている。
そもそも仏教葬儀式自体が習俗の上に、各宗派の教義を融合させて出来上がったという経緯がある。だから同じ宗派の葬儀式や追善儀礼も、土地土地によって多種多様である。その習俗が壊れ、変容している現状の前に、僧侶もまた立ちつくしているといえよう。正しい葬儀とは何なのか、今は誰もがそれを知らない時代なのかも知れない。「自分らしい葬儀」「友人葬」「音楽葬」などが流行る所以である。
しかし仏教徒としての葬儀、僧侶が関わる厳粛な葬儀を行うという定義は明白であろう。宗旨によっていささかの違いはあるにせよ、仏教原理の体現者として、死者に対してはこの世の執着を除き、遺族には故人の死への悼みを癒すと共に、死を通して今生の自らの命の意味に目覚めさせる務めを果たすことであろう。シンポのまとめとして私が提言した「オーダーメイドの葬儀を心掛ける」とはそういう意味である。
実は冒頭で「檀家制度が日本仏教をダメにする」と書いたのには2つの意味合いがあった。1つは檀家制度によって日本仏教は葬式仏教化し、社会のインフラが整い分業化が進んだ今日では寺院は葬儀のみをすればよいということになって、仏教本来の仏教教理の体現という側面が損なわれたという点と、檀家制度は寺族の世襲制や寺院私物化を促し、僧職自体が職業化してしまった点である。いずれにしても僧侶としての資質を問わずに僧侶となってしまう状況を生んでしまったというような一面を持つ。
しかしながらマイナス面だけを見ていた若い頃と違って最近檀家制度の優れた面に目がいくようになった。日本仏教は明治初期に起きた神仏分離政策による廃仏毀釈運動や、戦後の農地解放による寺院の財政基盤の喪失など近代社会を迎えてから幾たびかの大きな法難に遭っているが、ある意味、檀家制度が支えとなって生きながらえた。
もちろん先に指摘したとおり、僧侶の資質を低下させた面もあろうが、傍らでは多くの優れた僧侶を輩出してきた事実もある。日本仏教自体が死に絶えてはどんな優秀な僧侶も生まれ得ないだろう…。