今日の「田中利典師曰く」は、「修験道とは親切な教え!」(師のブログ2014.12.04付)である。これは、大阪市天王寺公園内の映像館(マルチイメージシアター)で開催された、「役行者シンポジウム」(1999.10.9)での師の講演録からの抜粋である。
※トップ写真は、三重テレビ放送「新・ええじゃないか 第33話 青く奏でる交響曲の旅」
(2023.11.13放送)より。お坊さんは利典師のご子息の田中佑昌(ゆうしょう)さん
山修行をすると、自ずと大乗仏教の6つの徳目(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)が実践できる、というお話である。では、以下に全文を紹介する。
「修験道とは親切な教え!」
久しぶりの田中利典プチ著述集(2014.12.04)を掲載します。ちょっと古い文章ですけど。
私は修験道というのは、非常に親切な教えであると思っております…。仏教の教えは非常に宏遠でいろんな教えが説かれております。例えば大乗仏教における最も大切なものは何かと申し上げますと、六波羅蜜行、いわゆる布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という6つの修行が大乗仏教の修行の徳目でございます。
ところが日常生活の中で、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、この修行が出来るかといいますと、凡夫である我々にとっては、日日の事柄に流されて、なかなか怠り勝ちであるわけですが、山に入り、例えば我々は吉野から熊野にかけて八日ほど山を駈けますが、その八日の中では、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの修行が自ずから実践出来る。
青色吐息の人に優しく声もかけられますし(布施行)、少々のことも我慢出来ます(忍辱行)。まじりっけなく、今日の宿所を目指して心専一に歩くことも出来ます(精進行)。
あるいは歩く姿そのものが禅定に繋がる。「歩行禅」などと言われる方もおられますが、無念無想、サマディ(三昧)のような気持ちで、歩くことが出来る。
あるいは、教学担当という教団の仕事柄、よく人前で話をさせていただきますが、普段、娑婆の世界で法を説かせていただいても、しゃべっている方も、聞いている方も、どこか実感が伴わないこともありますが、山の中で毎日毎日共に行じながら修行しておりますと、一言一言の法話も、話をする方も素直に感じたままをお話することが出来ますし、聞いている方も素直に腑に落ちることがあります(智慧行)。
そういった、大乗仏教における六波羅蜜行といった修行の徳目も、ただ机の上で学んでいるだけでは、簡単には実践に結びついていかないようなことでも、山の中で修行すると、誰もが実感出来る、そういうことが多々あります。
それから「仏道とは自己を知ることと見つけたり」(道元)というような言葉がありますが、日常の生活ではなかなか本当の自分に気づかない、自分と自分自身とが離れていると申しますか、自分を見失っている様な生活が在るわけですが、山に入るとまさに間近に自分と向き合います。
たかだかこれぐらいの坂が、これぐらいの道が辛くなったときに、そこにいるのは、誰でもない自分であります。そういう自分に必ず出逢わせていただくことが出来ます。
ここで重要なのは、ただ山に登山で行くのではなく、山を曼荼羅世界とみて、神仏を拝む気持ちで歩くということです。我々は山に入りますと、石を拝み、岩を拝み、木を拝み、流れる川を拝み、空を拝み、風を拝みます。そこは久保田先生がおっしゃった通り、まさにあらゆるものを肯定しながら、歩かせていただく。
しかも人間の存在を超えたものを感じながら歩くことが出来るわけであります。そういう意味ではどういう人であれ、その人なりに、大きな人には大きく、小さい人には小さく響く、そういう親切さが、山の修行、修験道の修行にはあるのではないかと感じております。
平成11年(1999年)10月9日、大阪市天王寺公園内の映像館(マルチイメージシアター)で開催された「役行者シンポジウム」講演録より
※トップ写真は、三重テレビ放送「新・ええじゃないか 第33話 青く奏でる交響曲の旅」
(2023.11.13放送)より。お坊さんは利典師のご子息の田中佑昌(ゆうしょう)さん
山修行をすると、自ずと大乗仏教の6つの徳目(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)が実践できる、というお話である。では、以下に全文を紹介する。
「修験道とは親切な教え!」
久しぶりの田中利典プチ著述集(2014.12.04)を掲載します。ちょっと古い文章ですけど。
私は修験道というのは、非常に親切な教えであると思っております…。仏教の教えは非常に宏遠でいろんな教えが説かれております。例えば大乗仏教における最も大切なものは何かと申し上げますと、六波羅蜜行、いわゆる布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という6つの修行が大乗仏教の修行の徳目でございます。
ところが日常生活の中で、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、この修行が出来るかといいますと、凡夫である我々にとっては、日日の事柄に流されて、なかなか怠り勝ちであるわけですが、山に入り、例えば我々は吉野から熊野にかけて八日ほど山を駈けますが、その八日の中では、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの修行が自ずから実践出来る。
青色吐息の人に優しく声もかけられますし(布施行)、少々のことも我慢出来ます(忍辱行)。まじりっけなく、今日の宿所を目指して心専一に歩くことも出来ます(精進行)。
あるいは歩く姿そのものが禅定に繋がる。「歩行禅」などと言われる方もおられますが、無念無想、サマディ(三昧)のような気持ちで、歩くことが出来る。
あるいは、教学担当という教団の仕事柄、よく人前で話をさせていただきますが、普段、娑婆の世界で法を説かせていただいても、しゃべっている方も、聞いている方も、どこか実感が伴わないこともありますが、山の中で毎日毎日共に行じながら修行しておりますと、一言一言の法話も、話をする方も素直に感じたままをお話することが出来ますし、聞いている方も素直に腑に落ちることがあります(智慧行)。
そういった、大乗仏教における六波羅蜜行といった修行の徳目も、ただ机の上で学んでいるだけでは、簡単には実践に結びついていかないようなことでも、山の中で修行すると、誰もが実感出来る、そういうことが多々あります。
それから「仏道とは自己を知ることと見つけたり」(道元)というような言葉がありますが、日常の生活ではなかなか本当の自分に気づかない、自分と自分自身とが離れていると申しますか、自分を見失っている様な生活が在るわけですが、山に入るとまさに間近に自分と向き合います。
たかだかこれぐらいの坂が、これぐらいの道が辛くなったときに、そこにいるのは、誰でもない自分であります。そういう自分に必ず出逢わせていただくことが出来ます。
ここで重要なのは、ただ山に登山で行くのではなく、山を曼荼羅世界とみて、神仏を拝む気持ちで歩くということです。我々は山に入りますと、石を拝み、岩を拝み、木を拝み、流れる川を拝み、空を拝み、風を拝みます。そこは久保田先生がおっしゃった通り、まさにあらゆるものを肯定しながら、歩かせていただく。
しかも人間の存在を超えたものを感じながら歩くことが出来るわけであります。そういう意味ではどういう人であれ、その人なりに、大きな人には大きく、小さい人には小さく響く、そういう親切さが、山の修行、修験道の修行にはあるのではないかと感じております。
平成11年(1999年)10月9日、大阪市天王寺公園内の映像館(マルチイメージシアター)で開催された「役行者シンポジウム」講演録より