tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

ミシュランガイド奈良 回顧(2011年総まとめ)

2011年12月26日 | 奈良にこだわる
奈良県の文化・観光の歴史において、異彩を放つのが今年(2011年)のミシュランガイド(レストランとホテルを紹介する「レッド・ミシュラン」)の発行であった。奈良県が初めてリストに加わることになり、「せいぜい10か店程度」という下馬評を覆し、25か店が三つ星を含む星を獲得したのである。
※写真は「ミシュランで知った!奈良にうまいものあり」という講話の様子。学園前の「パラディⅡ」で12/11に実施 

昨日の読売新聞奈良版(12/25付)「回顧 奈良2011(4)」では《初めて「ミシュラン」掲載 古都に美食の楽しみ》のタイトルで、このニュースを振り返った。《レストランを星の数で格付けする「ミシュランガイド」。京都・大阪・神戸版に奈良の店が加わった今年、県内の25店が星を獲得した。飲食店関係者らは「『奈良にうまいものなし』と言われているのを覆した」と喜んだ。日本ミシュランタイヤが発行元で、格付けの最高は「三つ星」。本場フランスでは、星の数がシェフの運命を左右するほどの影響力を持つという》。

《一つ星を獲得したフランス料理店「ラ・カシェット」(奈良市)のオーナーシェフ、吉岡高政さん(47)は、かつてフランスで修業した。それだけに「日本ではまだ歴史が浅いが、ガイドの権威を知っている料理人にとっては最高のステータス」と強調。「奈良の食がPRされたので、これからは県内に店を出すシェフも増えるのでは。業界全体の底上げにもつながる」と期待する。三つ星に選ばれた日本料理「和 やまむら」(奈良市)。ミシュランが発表した10月18日から予約の電話が鳴り続け、1週間で年内分が全て埋まったという。店主の山村信晴さん(58)は「とてつもない影響力」と驚き、「掲載をきっかけに訪れてくれたお客さんが、どれぐらい常連になってくれるか。これからが正念場です」と気を引き締める》。

私の「京都や大阪に食事に行っていた県内の人が掲載店を訪れ、地元の店の魅力に気付くきっかけになった」というコメントも、紹介していただいた。《誰もが平城宮跡や東大寺の大仏など、歴史や文化財を思い浮かべる古都に、「おいしいものを食べに行く」という新しい価値が加わった。1938年に随筆で「食ひものはうまい物のない所だ」と書いたのは、奈良市に一時暮らした作家の志賀直哉。約70年後の「食ひもの」を、ぜひ知ってほしかった。(白石佳奈)》



今朝(12/26)の奈良新聞「2011ニュースこの1年」でも、「ミシュランガイド 奈良登場、25か店に星」というタイトルで詳しく紹介し、《県国際観光課の中村昌史課長は「インバウンド誘致の際、アジアの旅行会社はミシュランガイドに高い関心を示す。奈良の店が加わったことをPRして旅行商品の造成につなげたい」と展望した。奈良を加えたミシュランガイドは本県の観光課題に一石を投じた。今後はガイド本の「生かし方」が注目されそうだ》と締めくくった。

当ブログではミシュラン関連の記事をたくさん掲載し、今も「ミシュラン 奈良」のキーワードで訪ねてこられる方が多い。それらの方のため、これまでの主なミシュラン関連記事を以下にリストアップしておく。

1.奈良のお店の傾向を探る ミシュラン掲載店のリストと傾向
2.識者コメントから「奈良の食」を展望する 新聞に掲載された識者コメントの紹介と分析
3.ミシュランで知った!奈良にうまいものあり 同名の講演録
4.奈良の「食」 復活の10年 毎日新聞記事による奈良の「食」事情
5.ミシュラン奈良 本日発売 ミシュランに掲載された奈良の飲食店リストと奈良新聞の記事

6.ホテル・旅館の快適度 ミシュランに掲載された奈良のホテル・旅館リスト
7.ミシュラン旅行ガイドで星ラッシュ ミシュラングリーンガイド(旅行ガイド)掲載の県下観光地を紹介

※ミシュランに掲載された料理店の紹介
8.万惣(小粋料理)
9.和牛ステーキ 関
10.味の風にしむら(桜井市)

ミシュランガイドは、「食」という「これまで、奈良の観光に欠けていたピースを埋めた」(「イ ルンガ」の堀江シェフ)。その効果は「奈良にうまいものなし」と自嘲していた県民に、大いなる勇気を与えた。ミシュランは毎年改訂される。来年はどんなお店が星を獲るのか、今から楽しみである。

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古事記がわかるKeywords(6)

2011年12月25日 | 記紀・万葉
隼別王子の叛乱 (1978年) (中公文庫)
田辺 聖子
中央公論社

さて、このシリーズもいよいよ最終回となった。今回は『古事記』下巻のキーワードを紹介する。これは木村三彦さん(奈良県観光ボランティアガイド連絡会会長)による「古事記を読もう会」の第8~10回、10/27(木)・11/11(金)・12/8(木)に学んだ部分である。以下に、下巻のキーワードを紹介する。ページ番号は、岩波文庫版『古事記』の該当ページである。

仁徳天皇P155
第16代天皇。Wikipediaによると《古事記の干支崩年に従えば、応神天皇の崩御が西暦394年、仁徳天皇の崩御が西暦427年となり、その間が在位期間となる。名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)》《応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である》。

《都は難波高津宮(なにわのたかつのみや)》。「高津宮址」は、大阪府立高津高等学校(大阪市天王寺区)の構内に現存する。なお、応神天皇(第15代)と仁徳天皇は、記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説も出されている。《人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する》。

《ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとも考えられる》。

石之日賣命(いわのひめのみこと=磐之媛命)P156
葛城襲津彦の娘、仁徳天皇の皇后。Wikipediaによると《古事記に「甚多く嫉妬みたまひき」という記述が見られるように、妬み深い人物として知られる。その様から他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇は宮殿を離れた時か、彼女が宮殿から出かけた時に迎えいれるしかなかったという。ただ、裏を返せばそれだけ仁徳天皇が多情であったということであろう》。

黒日売(くろひめ)P157
HP「やまとうた」によると《吉備海部直の姫。仁徳天皇の側室。大后磐之媛の嫉妬を畏れ故郷へ帰ってしまった姫を、天皇は吉備まで追って行ったという。
仁徳天皇に献ったという歌二首が古事記に伝わる。天皇上(のぼ)り幸(い)でます時、黒日売の献れる歌(二首)》。

《倭方(やまとへ)に西風(にし)吹き上げて雲離れ そき居りとも我忘れめ 【通釈】大和の方へ、西風が吹き上げて、雲が離れ離れになるように、遠く隔てられておりましょうとも、私は忘れなどしません》。

《倭方に往くは誰が夫(つま)隠水(こもりづ)の 下よ延(は)へつつ往くは誰が夫 【通釈】大和の方へ帰って行くのは、どなたのお相手かしら。隠れ水のように、忍んで通っては、帰って行くのは、どなたのお相手かしら》。

《【補記】以上二首、古事記下巻より。黒日売はその美しさを愛されて仁徳天皇の宮中に入ったが、大后の磐之媛の嫉妬に耐えきれず、故郷の吉備へ逃げ帰ってしまった。天皇は黒日売を追って淡路島から吉備へと行幸し、ついに再会を果した。上の二首は、天皇が大和へ帰る時に黒日売が詠んだ歌という》。

八田若郎女(やたのわきいらつめ=八田皇女)P159
Wikipediaによると《仁徳天皇の皇后。矢田皇女とも。古事記には八田若郎女(やたのわきいらつめ)とある。父は応神天皇、母は宮主宅媛(和弭日触使主の女)。菟道稚郎子皇子の同母妹で、雌鳥皇女の同母姉。子女は無し。仁徳天皇30年9月11日(342年10月26日)、異母兄である仁徳天皇の妃となった。この入内を巡り、天皇と当時皇后だった磐之媛命が不和に陥ったと伝えられる。同35年(347年)6月に磐之媛命が崩御したことを受け、同38年1月6日(350年1月30日)に新たな皇后に立てられた。但し、古事記には大后になったことは明記されていない》。

女鳥王(めどりのおおきみ)と速総別王(はやぶさわけのおおきみ=隼別皇子)P164
HP「やまとうた」によると。速総別王は《応神天皇の皇子。母は桜井田部連の糸媛。仁徳天皇の異母弟。日本書紀によれば、仁徳天皇四十年、天皇に命ぜられ雌鳥皇女(古事記では女鳥王)の媒(なかだち)として使者に立ったが、自ら皇女を娶り、天皇の恨みをかった。また皇子の舎人の歌に謀反の徴があったため、天皇は皇子を除くことを決意。皇子は雌鳥皇女をつれて伊勢神宮へ向かうが、伊勢の蒋代野(こもしろの。所在不詳)で天皇の遣った追手に殺された》。

次は、刺客に追われて女鳥王と山を越える時に詠んだ歌(古事記)。《速総別王、女鳥王(めどりのみこ)、共に逃げさりて、倉梯山にのぼりましき。ここに速総別王歌ひたまはく 梯立(はしたて)の倉梯(くらはし)山を嶮(さが)しみと 岩懸きかねて我が手取らすも 【通釈】倉梯山は険くて、岩に縋り付きながらのぼってゆくけれど、女のお前にはそれもしかねて、俺の手に取り縋ってくるんだよなあ。【語釈】◇梯立の 「倉梯」にかかる枕詞。高床式の倉に梯子を立てて登ったことに由来する。【補記】古事記下巻。仁徳天皇の追手を逃れ、雌鳥皇女と共に倉梯山(奈良県桜井市)を越える時に詠んだという歌。古事記ではこの直後、二人は宇陀の曽爾で殺されたと記す。古事記にはもう一首「梯立の 倉梯山を 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず」がある》。

女鳥王・速総別王(隼別王子)と仁徳天皇、また八田若郎女・仁徳天皇と石之日賣命の愛憎は、田辺聖子著『隼別王子の叛乱』(中公文庫)という見事な小説となって結晶している。「BOOK」データベースによると《ヤマトの大王の想われびと女鳥姫と恋におちた隼別王子は、大王の宮殿を襲う。無残に潰されるはん乱。若者たちの純粋で奔放な恋と死。陰謀渦まく権力の頂点にあって、ふたりの恋の残照を生きる大王たち。「古事記」を舞台に、著者が二十年の歳月をかけて織りあげた鮮烈な恋の悲劇》。いずれ当ブログでも紹介するが、残酷でもありロマンチックな、ぜひお読みいただきたい小説である。

履中(りちゅう)天皇P168
Wikipediaによると《仁徳天皇の第一皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛(いわのひめ)》《皇妃:黒媛(くろひめ。葛城葦田宿禰の女、一説に羽田八代宿禰の女)》《都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや、奈良県桜井市池之内に稚桜神社がある)》《古事記では、即位前に婚約者の黒媛と、大江之伊邪本和気命本人だと偽って通じた住吉仲皇子の反乱を受け、難波宮から石上神宮へ逃げている。その途中、少女に会って、伏兵が居るので、遠回りしろと教えられ、石上神宮で以下の歌を詠んだ。 大坂に遇うや嬢子を道問へば 直には告らず当岐麻路を告る (おおさかにあうやおとめをみちとへば ただにはのらずたぎまじをのる)》。

《直とは直越えのこと。直越えとは、後世、生駒山を越える道(直越道)が有名であったが、埴生坂(羽曳野丘陵)から越えようとしているので、現在の穴虫峠付近と考えられる。穴虫峠の手前で出会った乙女に道を聞いたのだが、簡単に越えられるはずの直越え(穴虫峠)ではなく、遠くて、標高も高い竹之内峠越えをしろと教えられた。 穴虫峠(二上山の北)は標高約150mに対して、竹之内峠(二上山の南)は標高約300m、しかも数km南に遠い。逃げ込もうとしていた石上神宮は両峠の北東方向にあるのだから、回り道は2倍以上になる。住吉仲皇子反乱の襲撃を受けたとき、難波宮で酒に酔って寝ており、部下に馬にやっと乗せて貰ったくらいだから、恐らく二日酔いで、反乱に驚いていた身には堪えたであろう。これは、まさに王権を受け継ぐための試練であった。 (出典例:古事記歌謡 大久保正 昭和56年7月10日 講談社 P174)》。

反正(はんぜい)天皇P172
反正天皇は、第18代天皇。Wikipediaによると《仁徳天皇の第三皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)。履中天皇の同母弟、允恭天皇の同母兄に当たる》《都は丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや、大阪府松原市上田七丁目の柴籬神社が伝承地)》《父仁徳天皇の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子を誅殺した。履中天皇2年(401年)に立太子。同6年(405年)に履中天皇が崩御し、翌年(405年)1月に即位。兄弟継承はここに始まる。10月に河内丹比を都とする。天下太平であり、何事もなく在位5年。反正天皇5年(410年)1月に崩御》。

ワカタケル大王〈上〉 (文春文庫)
黒岩 重吾
文藝春秋

允恭(いんぎょう)天皇P173
第19代天皇。Wikipediaによると《仁徳天皇の第四皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)であり、履中天皇、反正天皇の同母弟である》《都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや、現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥か)。飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇が允恭であった》。御陵は《恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)に葬られた。同陵は、大阪府藤井寺市国府一丁目にある国府市野山古墳(前方後円墳・全長228m)に比定されている》。御陵は、近鉄南大阪線・土師の里駅から北へ600m。

木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)P174
Wikipediaによると《木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は第19代天皇であった允恭天皇の第一皇子、皇太子であった。母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつのひめのみこと)。同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)、大泊瀬稚武皇子(おおはつせのわかたけるのみこ、後の雄略天皇)など。『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)と情を通じ(近親相姦)、それが原因となって允恭天皇の崩御後に失脚、伊予の国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われる(衣通姫伝説)》。

異母兄妹は問題なく結婚できるが、同母兄妹は不義密通になったのである。《衣通姫伝説(そとおりひめでんせつ)は『古事記』、および『日本書紀』にある記紀伝説のひとつ。ヤマトタケル伝説を『古事記』中の一大英雄譚とするなら、衣通姫伝説は『古事記』中の一大恋愛叙事詩であると言える》。

※軽皇子は3人いる
ここで頭の中を整理したい。古代史において「軽皇子(かるのみこ)」と呼ばれる皇子は3人いた。
1.上記の木梨軽皇子。允恭天皇の第一皇子(皇太子)で衣通姫伝説に登場
2.乙巳の変(大化の改新)のあと即位し、孝徳天皇となった
3.珂瑠皇子(かるのみこ)とも。草壁皇子(天武天皇第2皇子、母は持統)の長男で、のちの文武天皇

安康(あんこう)天皇P179
第20代天皇。穴穂天皇、穴穂皇子(あなほのみこ)。Wikipediaによると《允恭天皇の第二皇子。母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)。雄略天皇の同母兄》《都は石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや。現在の奈良県天理市田町、あるいは同市田部か)》。

《允恭天皇42年(453年)1月に允恭天皇が崩御する。皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)には近親相姦の前科が有ったために群臣は皆従わず、弟の穴穂皇子の側に付いた。軽皇子は穴穂皇子を討ち殺そうとして兵を集めるが、群臣が離反していく不利な現況を悲嘆して、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に潜んだ。穴穂皇子が率いる兵に包囲され、大前宿禰の計らいで戦は避けられたが、軽皇子は自裁した(尚、『古事記』では伊余湯に流罪となったと記される)。こうして、穴穂皇子は12月に皇位を践祚した》。

《安康天皇元年(454年)、根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后に立てた。同3年(456年)8月9日、天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された。『古事記』『旧事紀』に享年56、『帝王編年記』に享年54と伝えられる。皇太子を指名することなく崩御したが、従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる》。

目弱王(まよわのおおきみ=眉輪王)P180
Wikipediaによると《父は大草香皇子(おおくさかのみこ。仁徳天皇の皇子)、母は中蒂姫命(なかしひめのみこと。履中天皇の皇女)。記紀によれば、父の大草香皇子が罪無くして安康天皇に誅殺された後、母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられた。安康天皇3年(456年)8月、年幼くして(記に7歳とする)楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する(眉輪王の変)。その後、坂合黒彦皇子と共に円大臣の宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、諸共に焼き殺されたという》。

市辺の忍歯王P182
Wikipediaによると《履中天皇の第1皇子で、母は葛城葦田宿禰(あしたのすくね)の女・黒媛である。また、顕宗天皇・仁賢天皇(・飯豊青皇女)の父、安康天皇・雄略天皇の従兄弟に当たる。押歯(八重歯)であったことから、この名があるという》。

《安康天皇3年(456年)8月、安康天皇が眉輪王によって暗殺されたが、天皇は生前、押磐皇子(市辺忍歯別王)に王位を継承させ、後事を託そうとしていた。かねてからこのことを恨んでいた大泊瀬皇子(後の雄略)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。さらに、遺骸を抱いて嘆き悲しんだ帳内(とねり)の佐伯部売輪(さえきべのうるわ、仲子とも)をも殺して、皇子とともに同じ穴に埋めた(つまり、塚が築かれなかった)という。子の億計・弘計(後の仁賢・顕宗)兄弟は難が及ぶのを恐れ、帳内とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、名を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えた》。

《清寧天皇3年(482年)億計 ・弘計は宮中に迎えられ、顕宗天皇元年(485年)に弟の弘計王が即位。弘計は置目老嫗(おきめのおみな)の案内から亡父の遺骨の所在を知り得て、改めて陵を築いた。この時、皇子と仲子の遺骨が頭骨を除いて区別出来なかったため、相似せた2つの陵を造ったとされる。現在、滋賀県東近江市市辺町に存する円墳2基(古保志塚という)はそれと伝えられ、宮内庁の管理下にあるが、かつては同市木村町のケンサイ塚古墳(円墳・消滅)や妙法寺町の熊の森古墳(前方後円墳)を皇子墓に比定する異説もあった》。

雄略天皇P184
第21代天皇。允恭天皇の第5皇子。母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。安康天皇の同母弟。Wikipediaによると《『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる》。

《都は、近畿の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる。伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡とされ話題を呼んだ。これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる》。

《記紀によれば、安康天皇3年8月9日(456年9月24日)、安康天皇が幼年の眉輪王(まよわのおおきみ、古事記では7歳とあるが誤記と思われる)により暗殺されたとする。安康天皇が、仁徳天皇の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭姫皇女を同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した(大草香皇子と草香幡梭姫皇女は父系の叔父と叔母)際に、仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りするために、天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をする。安康天皇は大草香皇子を殺害し、その妃である中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后とした。中蒂姫は大草香皇子との子である眉輪王を連れており、これが眉輪王に安康天皇が殺害される直接の原因となった》。

《暗殺の事実を知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王をも殺そうとした。この2人は葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いた。即位後、草香幡梭姫皇女に求婚する道の途中で、志貴県主(参考:志貴県主神社)の館が鰹木を上げて皇居に似ていると難癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れる。それを婚礼のみやげ物にして、草香幡梭姫皇女を皇后にする》。

《平群真鳥を大臣に、大伴室屋と物部目を大連に任じて、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群をヤマト王権に臣従させることであった。特に最大の地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや ・463年)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ ・463年)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して(479年)、ヤマト王権の優位を決定的にした。雄略22年1月1日(478年2月18日)、白髪皇子(後の清寧天皇)を皇太子とし、翌23年(479年)8月、大王は病気のため崩御した》。

《即位後も人を処刑することが多かったため、後に大悪天皇と誹謗される原因となっているが、大悪天皇の記述は武烈天皇にも見られることから、両者は同一人物ではないかとの説もある》《さらに、前述の草香幡梭姫皇女を始めとして、雄略天皇の皇后、妃は実家が誅された後に決められたものが多い。王権の強化のため、有力皇族や豪族を征伐したのち、その残党を納得させてヤマト王権に統合するために妃を取るということであろう》。

《兄である安康天皇のやり方を見習っただけではなく、雄略天皇の治世では、皇族だけでなく有力豪族にも拡大適用してヤマト王権の強化を強行し、征伐された皇族・豪族からの恨みを買って雄略天皇暴君の記述が残されていると思われる》。雄略天皇は《丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に葬られた。大阪府羽曳野市島泉にある高鷲丸山古墳(円墳・径76m・島泉丸山古墳とも)と平塚古墳(方墳・辺50m)に比定》。

引田部の赤猪子(ひけたべのあかいこ)P186
向じま梅鉢屋のHPによると《若き日の雄略天皇はある日、大和の三輪河に遊び、川のほとりで衣を洗う美しい童女に逢った。天皇が名を聞くと「引田部の赤猪子と申します」と答えた。天皇は赤猪子に「おまえは嫁に行かずに待て。いずれ私が召す」と言いおいて宮に帰って行った。赤猪子が天皇のお召しを待つうちに80年が過ぎ、「私はもうやせしぼんでしまって、もはやお召しの希望もなくなった。しかし、お待ちしていた心を示さずにはいられない」と思った赤猪子はたくさんの土産を供の者に持たせ、宮中に参上する》。

《昔、三輪河のほとりで言った事をすっかり忘れてしまっていた天皇の「どこの老女だ?何ゆえに参った?」の問いに答え、赤猪子は「陛下よりの命をこうむり、お約束をお待ちして80年が経ってしまいました。もはやお召しの希望も有りませんが、せめて私の志だけでも…」と答える。たいそう驚いた天皇は志を守り、盛りの年頃を無為に過ごさせてしまった事を憐れみ、この老女を今からでも召そうかとも思ったが、さすがにひどく老いた姿にはばかり、歌を2首贈り、たくさんの物を持たせて帰すこととした。赤猪子はその歌を聞いて涙を流し、涙は赤く染めた袖を濡らし同じく2首の歌を詠んだ。その1首に蓮の花が詠まれている》。

《雄略天皇の歌 御諸のいつ橿がもと橿がもと ゆゆしきかも橿原童女(みもろのいつかしはらのもとかしはらのもと ゆゆしきかもかしはらをとめ)大意 三輪山の神聖な樫の木、白樫の木は侵してはならないもの その樫の木の様に触れるのもはばかれるのは橿原の乙女》《引田の若栗栖原若くへに 率寝てましもの老いにけるかも(ひけたのわかくるすはらわかくへに ゐねてましものおいにけるかも)大意 引田の地にある若い栗林のように若い頃に一緒になれば良かったが、おまえはずいぶん年老いてしまった》。

《赤猪子の歌 御諸に築くや玉垣築き余し 誰にかも依らむ神の宮人(みもろにつくやたまかきつきあまし たにかもよらむかみのみやひと)大意 三輪山に築く玉垣の築き残しのように 誰に頼ればいいのか宮仕えの女は》《日下江の 入江の蓮花蓮 身の盛り人羨しきろかも(くさかえのいりえのはちすはなはちす みのさかりひとともしきろかも)》。この歌の意味は、「日下の入り江のあたりに美しく咲く蓮の花のように、若さの盛りにある人は羨ましいものだ」。

一言主(ひとことぬし)大神P191
Wikipediaによると《『古事記』(712年)の下つ巻に登場するのが初見である。460年(雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある》。

《葛城山麓の奈良県御所市にある葛木一言主神社が全国の一言主神社の総本社となっている。地元では「いちごんさん」と呼ばれており、一言の願いであれば何でも聞き届ける神とされ、「無言まいり」の神として信仰されている》《名前の類似から、大国主命の子の事代主神と同一視されることもある》。

清寧(せいねい)天皇P195
第22代天皇。白髪大倭根子(しらにのおおやまとねこの)命。Wikipediaによると《雄略天皇の第三皇子。母は、葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。 后妃なし、従って皇子女もなし》《御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、アルビノであったとみられている。父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという》《都は磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや、奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社が伝承地)》。

《雄略天皇23年(479年)8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川皇子が大蔵を占拠し、権勢を縦にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年(480年)正月に即位。皇子がいなかったことを気に病んでいた。清寧天皇2年(481年)、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年(482年)2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。5年(484年)正月に崩御した》。

《河内坂門原陵(かわちのさかとのはらのみささぎ)に葬られた。大阪府羽曳野市西浦六丁目の西浦白髪山古墳(前方後円墳・全長112m)に比定されている》。清寧天皇の崩御後、一時飯豊王(いいとよのおおきみ=飯豊青皇女、飯豊王女、忍海郎女)が政を執ったので、飯豊天皇と呼ばれることもある。

顕宗(けんそう)天皇P199
第23代天皇。都は近飛鳥宮(ちかつあすかのみや=大阪府羽曳野市飛鳥)。Wikipediaによると《市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、履中天皇の長子)の第3子。母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)。飯豊女王は同母姉、仁賢天皇は同母兄に当たる》。

《父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(おけのおおきみ=後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石に住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年(481年)11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年(482年)2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、弘計王(おけのおおきみ)を皇子とした》。

《同5年1月16日(484年2月27日)に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦(485年2月1日)、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる》。

《同3年4月25日(487年6月2日)、崩御。『古事記』に38歳(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお、即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)》。顕宗天皇は《傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)に葬られた。同陵は奈良県香芝市北今市にある前方後円墳に比定されている》。

仁賢(にんけん)天皇P203
第24代天皇。都は石上の廣高宮(いそのかみのひろたかみや=天理市石上町)。Wikipediaによると《名は億計天皇(おけのすめらみこと)・大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)》《履中天皇の孫、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子。母は荑媛(はえひめ、葛城蟻臣の女)。顕宗天皇の同母兄》。

《清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間飯豊青皇女が執政した。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位3年で崩御した。これを受けて、億計王が仁賢天皇元年(488年)1月に即位した。3年(490年)2月に石上部(いそのかみべ)舎人を、5年(492年)に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。また、6年(493年)9月に高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたとされる。仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された》。陵墓は《大阪府藤井寺市青山3丁目の埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)とされる。古墳名は野中ボケ山古墳(前方後円墳)》。

武烈天皇P203
第25代天皇。Wikipediaによると《父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女。同母姉妹に、手白香皇女(継体天皇の皇后・欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天皇の皇后)らがいる》《都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや、奈良県桜井市出雲か)》《仁賢天皇7年正月3日(494年1月25日)に立太子する。同11年8月8日(498年9月9日)に仁賢天皇が崩御した後、大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた》。

《皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした》。

《武烈天皇2年(500年)9月に、妊婦の腹を割いて胎児を見るという行為に及ぶ。この年以降、人の生爪を剥して山芋を掘らせる、人を木に登らせ、その木を倒して殺す、池の樋から人を流して矛で刺殺する、人を木に登らせて弓で射殺する、など猟奇性を帯びた愚行を行ったとされる》《なお、これら天皇による悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。また、天皇には太子がなかったため、御子代として小長谷部(小泊瀬舎人)を置いたという。武烈天皇8年12月8日(507年1月7日)に、後嗣なく崩御した。『扶桑略記』『水鏡』などに18歳とある。『天書』には61歳とあるが不明な点が多い》。

北風に起つ―継体戦争と蘇我稲目 (中公文庫)
黒岩 重吾
中央公論社

継体天皇P204
第26代天皇。都は磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)など。Wikipediaによると《戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている》。《『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた》。

《『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している》。

《531年に、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『日本書紀』では、『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して、天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。死去年に関しては、『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。古事記では没年齢は約40歳だが、日本書紀に従うと約80歳の長寿であった》。

安閑天皇P205
第27代天皇。都は勾(まがり)の金箸宮(橿原市曲川町金橋)。『古事記』の記述は《御子、廣國押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、勾(まがり)の金箸宮(かなはしのみや)に坐しまして、天の下治(し)らしめしき。この天皇、御子無かりき。乙卯(きのとう)の年の3月13日に崩りましき。御陵は河内の古市の高屋村にあり》の3行のみ。詳しくはWikipediaをご覧ください。

宣化天皇P205
第28代天皇。建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)。Wikipediaによると《継体天皇の第二子。母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)。安閑天皇の同母弟。欽明天皇の異母兄》《都は檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや、現在の奈良県高市郡明日香村檜前)》《先の安閑天皇が崩御したとき、その子供が居なかったために同母弟の宣化天皇が即位した。筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。即位元年の536年に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる》。

《即位が満69歳と遅く、在位が3年余りと短いため、あまり主立った事績は無い。また、安閑・宣化朝は実は父継体天皇死後直ぐに即位した弟の欽明天皇と並立していたとの説もあるが、いずれにせよ、宣化天皇の血統も石姫皇女を通して現在まで受け継がれることとなる》。陵墓は《『古事記』に記載無し。『日本書紀』・『延喜式』に依れば、身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)。奈良県橿原市鳥屋町の鳥屋ミサンザイ古墳に治定されている。前方後円墳》。

欽明天皇P206

第29代天皇。天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。Wikipediaによると《この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した》《都は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山)。『古事記』に「師木島大宮」とある。2010年6月3日に奈良県立橿原考古学研究所が桜井市にある脇本遺跡にて大型建物跡などが出土したと発表。6世紀後半から7世紀にかけてのものであるため、欽明天皇の宮殿ではないかと推測されている》。

《継体天皇と手白香皇女(たしらかのひめみこ)との間の息子である。父親の継体天皇は傍系出身であり、先々代仁賢天皇の皇女で、先代武烈天皇の姉(妹)である直系の手白香皇女を皇后に迎え入れた。継体天皇は他に沢山の子がいたのにも関わらず、嫡子は手白香皇女との間の皇子であるこの欽明天皇であった。庶兄の宣化天皇、安閑天皇もまた継体天皇と同じく手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れている》。

《宣化天皇が身罷った時に、先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中継ぎとして推薦したが、これは辞退されたためまだ若い欽明天皇が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位した。ここに傍系の継体天皇と、直系の手白香皇女両名の血を引く天皇が誕生した。この欽明天皇の系統は現在まで長く続く事となり、現天皇家の祖となる。欽明天皇もまた宣化天皇と橘仲皇女(仁賢天皇皇女)との間の娘である石姫皇女を皇后とし、敏達天皇を儲けたほか、用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の父でもあり、厩戸皇子(聖徳太子)や押坂彦人大兄皇子(舒明天皇・茅渟王の父)の祖父でもある》。

御陵について《『古事記』には記載無し。『日本書紀』、『延喜式』によれば、檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)に葬られた。同陵は奈良県高市郡明日香村平田の梅山古墳(前方後円墳・全長140m)に治定されているが、橿原市の見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)とする説もある。なお、檜隈坂合陵には後に612年(推古天皇20年)に堅塩媛が改葬されている》。

磐舟の光芒―物部守屋と蘇我馬子〈上〉 (講談社文庫)
黒岩 重吾
講談社

敏達天皇P207
第30代天皇。沼名倉太珠敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)。Wikipediaによると《欽明天皇の第二皇子。母親は宣化天皇の皇女・皇后石姫皇女》宮は《初め百済大井宮(くだらのおおいのみや、大阪府河内長野市太井・奈良県北葛城郡広陵町百済・大阪府富田林市甲田・奈良県桜井市など諸説あり)を皇居としたが、575年 卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや、現在の奈良県桜井市戒重。他田宮)へ遷った》。

《欽明天皇の遺言である任那復興を目して百済と協議していたが、ほとんど進展は見られなかった。同時に新羅とも通交し、任那の調を受け取っていたと記されている。また、世界最古の企業とされる金剛組が敏達天皇6年(578年)に宮大工の集団として発足したと伝わっている》《敏達天皇は廃仏派よりであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立すると言う構図になっていた》。

《崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、585年に物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の8月15日病が重くなり死去(なお、古事記では没年は584年とされている)。仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された》。陵墓は《河内磯長中尾陵(太子西山古墳、大阪府南河内郡太子町大字太子)が敏達天皇陵に比定されている》。

用明天皇P208
第31代天皇。橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)。Wikipediaによると《欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛》第2皇子は《厩戸皇子(諡号は聖徳太子。上宮太子・豊聡耳皇子・法主王ともいう)…推古天皇の皇太子・摂政》《都は磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)。現在の奈良県桜井市阿部、あるいは同市池之内などの説があるが、同市池尻町で2011年に所在地が不明だった磐余池と見られる池の堤跡が見つかり、その堤跡上で発見された大型建物跡が磐余池辺雙槻宮であった可能性も出てきた》。

《敏達天皇崩御を受け即位。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は、敏達天皇とは違って崇仏派であり仏法を重んじた。一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明天皇の皇子の一人・穴穂部皇子と通じていた。しかしながら、用明天皇は疱瘡のため、在位2年足らずの用明天皇2年(587年)4月9日(古事記では4月15日)に崩御した。享年は36、41、48、67、69など諸説ある》。陵墓は《磐余池上陵(いわれのいけがみのみささぎ)に葬られたが後に河内磯長陵(大阪府南河内郡太子町大字春日)に改葬された》。

崇峻天皇P209
『古事記』に載っているのは
《弟(おと)、長谷部(はつせべ)の若雀(わかささぎの)天皇、倉椅(くらはし)の柴垣宮(しばかきのみや)に坐しまして、天の下治らしめすこと、四歳(よとせ)なりき。壬子(みずのえね)の年の11月13日に崩りましき。御陵は倉椅の岡の上にあり》のみ。詳しくはWikipediaで。

推古天皇P209
こちらも『古事記』には
《妹(いも)、豊御食炊屋比賣命(とよみけかしきやひめのみこと)、小治田宮(おはりだのみや)に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそぢまりななとせ)となりき。戊子(つちのえね)の年の3月15日癸丑(みづのとうし)の日に崩りましき。御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大き陵に遷しき》のみ。詳しくはWikipediaをご覧いただきたい。

下巻は、ざっと以上のとおりである。辛抱強く最後までお読みいただき、感謝を申し上げる。『古事記』はおしまいに行くに従って記述が素っ気なくなるのは、完成を急いだからなのだろうか。とにかくこれで全3巻すべての要点を抽出したので、あらましは分かっていただけたことと思う。

私としては、これまでの6回分に、概説書からの引用を加え、『つぎはぎ古事記入門』という「古事記攻略本」をまとめ、Webに載せようと企んでいるところなので、お楽しみに!
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奈良検定(第6回)の応募者は、▲191人

2011年12月24日 | 奈良検定
奈良県の歴史散歩〈上〉奈良北部
奈良県高等学校教科等研究会歴史部会
山川出版社

第6回奈良まほろばソムリエ検定試験の応募者数が、発表された。毎日新聞奈良版(12/20付)「1511人が応募 奈良まほろばソムリエ検定」によると《奈良商工会議所は19日、来年1月8日に実施する「第6回奈良まほろばソムリエ検定」の応募者数は1511人(前年比191人減)と発表した。参加者は過去最少となった》。
※画像は、山川出版社の名著(1級・ソムリエ対策用)。辞書的にも使える

《最高ランクの奈良まほろばソムリエ296人(同63人増)▽奈良通1級373人(同55人減)▽同2級842人(同199人減)。全体で応募者は12~88歳の男性1032人、女性479人。年代別では60代が385人と最多。同会議所は「東日本大震災の影響のためか、東京会場の2級受験者が119人と昨年より48人減った」としている》。

第5回検定では例年より合格率がアップしたので、受験者総数が増えると踏んでいたが、減っていたのには驚いた。PR面で、もう一段のテコ入れが必要ではないか(特に、ベースとなる「2級受験者」を増やさなければならない)。そのなかで唯一ソムリエ受験者が増えたのは、朗報である。合格者が増加し、「奈良まほろばソムリエ友の会」に入会する人も、増えそうだ。

奈良県の歴史散歩〈下〉奈良南部
奈良県高等学校教科等研究会歴史部会
山川出版社

取らぬ狸の皮算用というと失礼な話だが、シミュレーションをしてみる。友の会の現メンバーは154人(ソムリエ有資格者は209人)、入会率は73.7%である。ソムリエの前回合格率は34.9%なので、今回の合格者(予想人数)は103人(=296人×34.9%)、ここに入会率をかけると、入会予想者数は76人(=103人×73.7%)となる。すると友の会の入会者総数は230人(=76人+154人)に達するのである。これはすごい団体になる! ソムリエに合格された方は、ぜひ友の会にお入りいただきたい。会員限定のツアーや講演会、懇親会など、盛りだくさんなメニューを用意してお待ちしています。

閑話休題。今からの受験対策としては、2級をお受けになる皆さんは、ひたすら「ズバリ!奈良検定2級の要点整理」の丸暗記に努めていただきたい。1級をお受けになる皆さんは、テキストを隅々までお読みいただき、これも正確な暗記に努められたい。ソムリエ受験者の皆さんは、ご自分で作られたサブノートの見直し・暗記と、記述式対策(自分で問題を作り、何も見ずに制限時間内に答案を書き上げる練習)に打ち込まれれば良いだろう。

試験日は1月8日。このお正月は、浮かれている場合ではありませんよ!
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冬至と天の岩屋戸ごもり

2011年12月23日 | 日々是雑感
2012 日本人のしきたり手帳
飯倉 晴武 (監修)
青春出版社

昨日(12/22)は二十四節気の1つ「冬至」だったので、県下ではいろんな行事が行われた。奈良新聞(12/22付)によると《1年中で一番夜の長い日で、この日を境に昼間の時間が長くなることから、古代では年の初めと考えられたこともあったという》《奈良市菩提山町の正暦寺では、訪れた参拝客にカボチャ尽くしの精進料理が振る舞われる。同寺近くにある奈良市高樋町の農家レストラン「清澄の里 粟」では、育てているユズの木に黄色い実がたわわに実った。先月下旬から料理に使い始め、カブと一緒に土佐酢に漬けたものが好評》。この「清澄の里 粟」は、ミシュラン奈良で1つ星を獲得している。

また同紙12/23付には《「冬至」にちなんで22日、奈良市押熊町の天然湧出温泉「ゆららの湯」押熊店と同市八条5丁目の奈良店の2店舗で「生ゆず湯の日」を実施。入浴客をゆず湯でもてなした。平成13年の奈良店の開店以来、同店が毎年行っている恒例行事。押熊、奈良両店では主に徳島産のユズ約1千個をそれぞれ用意。ユズを入れた湯は血行促進や風邪予防のほか、美容にも効果があるとされ、古くから冬至の行事として親しまれている》。

「冬至冬中 冬初め(とうじふゆなか ふゆはじめ)」という俚諺(りげん)があるのだそうだ。サーチナニュース(12/22付)によると《暦の上では立冬から冬が始まって冬至は冬の真ん中に当たるが、実際の季節感ではこれからが冬本番。そのことを表して「冬至冬中冬初め」と言われる。特に今年は秋が暖かかったせいもあり、なおさら、この言葉が実感される。京都の紅葉も、東京・外苑前の銀杏並木も、12月上旬が見ごろであった。今日の冬至に続いて、この週末はクリスマスだが、やっと秋が終わったばかりで、もうクリスマス?との感覚だ。季節感が狂う》。インフルエンザの流行も、これからが本番だ。

今朝(12/23付)の毎日新聞「余録」(魔法の薪)は、冬至の祝い火を題材にしていたと、松永洋介さんに教えていただいた。《クリスマスケーキの一つにブッシュ・ド・ノエルがある。ロールケーキをココアクリームで覆って丸太に見立て、デコレーションを施したものといえばお分かりか。英語圏で「ユール・ログ」と呼ばれるクリスマスの大薪(まき)をかたどったケーキだ。この薪、もともとは冬至の祝い火にたかれたものだったらしい。太陽の復活を助け、新しい時をもたらそうという土着の冬至の祝祭とキリスト教信仰が結びついたクリスマスである》。

《ユール・ログは森のブナやカシワなどから切り出され、家の暖炉へと運び込まれた。人類学者フレーザーの「金枝篇」によれば、この薪は太陽の輝きを増すほかに、種々の魔力を持つとされた。炭や灰を畑にまけば作物の生育を助け、燃え残りを保存しておけば家を雷や火事などの災害から守る。家畜を多産にし、病を治す御利益の言い伝えもあった。家族のだんらんを暖め、この世に光をよみがえらせ、人々の暮らしを災いから守る。そんな魔法がいつにもまして欲しい今冬の日本列島だ》。

古事記の世界 (岩波新書 青版 E-23) (岩波新書 青版 654)
西郷信綱
岩波書店

ところで『古事記』には、太陽神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)の「天の岩屋戸(あめのいわやと)ごもり」という神話が登場する。この話は「冬至」を象徴したものだとする説がある。Wikipedia「天岩戸」によると《天照大神が天岩戸に隠れて世の中が闇になるという話は、日食を表したものだという解釈と、冬至を過ぎて太陽が弱まった力を取り戻すということを象徴したものとする見方がある。日食神話、冬至神話とも世界各地にみられる》。

『古事記』の神話は、宮中祭式などをモチーフ(=創作動機となる思想・題材)としている。西郷信綱著『古事記の世界』(岩波新書)によると《古事記の神代の物語には、何らかの祭式行為と関連を有し、それをモチーフ――原因ではなく――としている様相が陰に陽に見てとれるものが多い》《宮廷鎮魂祭は11月の中の寅の日におこわれることになっていた。この日付で注目されるのは、それがほぼ冬至のころと一致する点でなければならない》。しかも、その翌日が大嘗(新嘗)祭の日であった。

《大嘗祭の中核をなすのは、天子が大嘗殿にこもっておこなう秘儀であった。(中略) 実はそこで死と復活の擬態が演じられ、それによって新しい君主が春とともに誕生するわけで、この秘儀こそが記紀をして「こもる」という語をかたくなに守らせた根であったと考えられる》《かくしてここには、根の国と高天の原、闇と光、夜と朝、冬と春、死と再生といったさまざまな原始的映像が交錯しあっている(中略) 肝腎なのは、古代人の経験のあらわれとして、これを、祭式と神話の力学のなかで読みとることである》。つまり、太陽神の力が最も弱まる「冬至」(宮廷鎮魂祭の日)の翌日が、君主の誕生を意味する大嘗祭(新嘗祭)の日、という関係(冬→春、死→再生)になる。ここには、ヨーロッパの「太陽の復活を助け、新しい時をもたらそうという土着の冬至の祝祭」と重なる部分がある。

ゆず湯に始まり、魔法の薪から大嘗祭まで、話がワープしてしまった。これは『古事記』の読み過ぎだろうか。
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「CARTA」2012年新春号は古事記特集!付録は新書『私の古事記物語』

2011年12月22日 | 記紀・万葉
CARTA 2012年新春号 2012年 01月号 [雑誌]
歴史群像1月号別冊
学研マーケティング

学研から、「CARTA(カルタ)」という雑誌(680円)が出た。付録に新書が1冊ついてくるという大盤振る舞いである。版元のHPによると《大人のための深くて楽しい教養情報を満載したビジュアル・カルチャー誌『CARTA』スタート! 第1号は日本人なら全員必須、2012年に編纂1300年を迎える「古事記」の総力特集。別冊付録で新書『私の古事記物語』(阿刀田高・著)がついてくる!》。

先週(12/16)の新聞広告で知ってはいたのだが、買い求めたのは昨日である。啓林堂書店奈良ビブレ店では売り切れだったが、同奈良店(小西さくら通り)で在庫があった。古事記(上・中・下巻)のうち、神代(上巻)の話が中心になっているのは、島根県のイベント「神話博しまね」(7/21~11/11)を当てこんだのであろう。付録の『私の古事記物語』は、「日本神話をイッキ読み! 簡明・軽妙・コンパクトな現代語『古事記』」という帯の文句のとおり、古事記の名場面がわかりやすく現代語訳されていて、これで十分680円の値打ちはある。なお次号(2012年3月16日発売)の特集は「いちばん新しい仏像学」だそうなので、これも必見である。

来年の「古事記完成1300年」に向けて、こういう企画本がどんどん出てくるのでは、と楽しみにしている。アニバーサリー・イベントは1年きりではなく、2020年の「日本書紀完成1300年」まで、9年間にわたる。わが奈良県でも、来年から「記紀万葉プロジェクト」が本格稼働する。皆さん、「CARTA」2012年新春号を買って、古事記のことを楽しく学んでください!
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