tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

不空院で、今日からご本尊の特別御開帳!(産経新聞「なら再発見」第115回)

2015年04月25日 | なら再発見(産経新聞)
不空院(真言律宗)は奈良市高畑町にある古刹で、奈良公園の南側を東西に走る県道80号線から新薬師寺に向かう細い南北の道の東側にある。今日から5月6日(水)まで、ご本尊の重要文化財「不空羂索観音菩薩坐像」が特別開帳され、南都銀行OB・OGから成るボランティア団体「ナント・なら応援団」のメンバーがガイドする。巡る奈良のHPによると、
※トップ写真は奈良市高畑町の不空院の本尊、不空羂索観音坐像。写真はお寺からいただいた

不空院 不空羂索観音菩薩坐像(重文)特別公開
ご本尊は、南円堂(興福寺)・法華堂(東大寺)に並び称される、不空羂索観音菩薩像。
特別開帳期間中は予約なしで拝観可能。
期間/2015年04月25日~2015年05月06日 09:00 ~ 17:00 500円
不空院 奈良市高畑町1365 詳細な地図はこちら 0742-26-2910
近鉄奈良駅から市内循環バス「破石町」下車、徒歩約10分 駐車場あり

産経新聞奈良版・三重版ほかに連載された「なら再発見」の最終回(3/28の第115回)に「高畑の不空院 鑑真や空海も住した古刹」として紹介したので、以下に全文を掲載する。


 
 奈良で不空羂索(ふくうけんさく)観音といえば、東大寺三月堂(法華堂)の立像(りゅうぞう)と興福寺南円堂の坐像が有名だが、他にもいらっしゃる。
 その1つが、奈良市高畑町の不空院だ。新薬師寺の東側の道を北へすぐの場所にある。檀家(だんか)寺のため、住職が留守がちなので、本堂は閉じられていることが多い。
 こぢんまりとしたお寺だが、歴史は古い。来日した鑑真和上は一時ここに住んでいたと、現在の奈良ホテルの場所にあった大乗院の門跡が3代にわたって書いた「寺社雑事(ぞうじ)記」に載っている。その住房跡に平安時代の初め、空海が住した。
 藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父・内麻呂の追善のため興福寺に南円堂を建てることを空海に相談したところ、空海はそのひな形として、当地に八角円堂を建てたのが始まりとされるが、詳細は不明だ。当院に残る昔の境内図には円堂が描かれ、「観音堂」と書かれている。その八角円堂は、安政の大地震で倒壊した。以後、廃寺同然となったが、大正末期に再興された。円堂の礎石は今、本堂床下に眠っている。
 本尊の不空羂索観音坐像は、鎌倉時代に制作された。像高1メートル余の寄木造で、国の重要文化財だ。鎌倉期には不空院中興の興福寺円晴が、唐招提寺覚盛(かくじょう)、西大寺叡尊(えいそん)、西方院有厳(ゆうごん)ら高僧とともに当院で戒律を講じ、多くの衆生に戒を授けたと伝える。
      ※   ※   ※
 不空院の院号は転じて「福院」と呼ばれた。江戸時代には弁才天信仰が高まり、本堂に祭られている弁才天(室町時代・秘仏)は奈良町の芸妓(げいこ)たちに深く信仰され、「駆け込み寺」としても名をはせたという。


えんきりさんとえんむすびさん。以下、2枚の写真は、ブログ「南都を一望す、日本を一望す」から拝借

 本堂前に「えんきりさん」「えんむすびさん」という小さな祠(ほこら)がある。いずれも女神で、薄幸で弱い立場の女性を救済する神として信仰され、縁切り寺、駆け込み寺としての役割も果たしてきた。
 嵯峨祇王寺の高岡智照尼(ちしょうに)が名妓・照葉(てるは)だった昭和の初め、難を逃れて当院へ駆け込み、かくまわれた後、出家したのもその一例。瀬戸内寂聴の小説「女徳」のモデルとなった。
      ※   ※   ※
 本堂後方の隅に光仁(こうにん)天皇の皇后・井上(いがみ)内親王の御霊塚がある。皇后が巫女に天皇を呪(のろ)わせたという罪で、皇太子の他戸(おさべ)親王とともに宇智郡(現在の五條市)に幽閉され、亡くなった。これは、山部親王(のちの桓武天皇)を担ぐ一派の陰謀とされる。


不空院本堂

 怨霊(おんりょう)の祟(たた)りを恐れ、その地に御霊(ごりょう)神社が建てられた。不空院の近くに井上内親王の邸宅があったので、ここにも御霊塚が作られた。
 昨年夏、不空院は庫裏の一角に「羂索(けんさく)庵」を設け不動三尊像を安置し、常設の護摩堂とした。
 本堂の不空羂索観音は、春はゴールデンウィーク前後、秋は正倉院展の期間中と、興福寺南円堂が開扉される10月17日、特別開帳される。いずれの日も、南都銀行OBから成るボランティア団体「ナント・なら応援団」のメンバーがガイドする。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)


ご本尊の「不空羂索観音坐像」だけでなく、「えんきりさん」(法竜大善神)「えんむすびさん」(黒竜大神・市岐姫大神)がよく知られている。本堂の前に鳥居があり、祠が並んでいるので、否が応でも目に入るのだ。昨年は境内に「羂索庵」を建立され、ここで護摩が焚かれる。この機会に、ぜひお参りいただきたい。

記事制作に当たってご協力いただきました、お寺の三谷智蓮(ちれん)さん、「ナント・なら応援団」幹事の門口誠一さん、有難うございました!

コメント (6)
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なら食と農の魅力創造国際大学校、来年4月開校!(2015Topic)

2015年04月24日 | お知らせ
「なら食と農(しょくとのう)の魅力創造国際大学校」(通称:NAFIC=ナフィック)をご存じだろうか。県農林部のHPによると、
※当記事のイメージ画像はすべて本学ご関係者からいただいた。トップはオーベルジュが併設される安倍校舎の全景

奈良県農業大学校を改編し、平成28年度に「なら食と農の魅力創造国際大学校」(NARA Agriculture & Food International College [通称:NAFIC(ナフィック)])を桜井市に開設します。農業の担い手を養成する「アグリマネジメント学科」に加えて、農業に関する知識を持ち、世界に通用する優れた料理人の養成を目指す「フードクリエイティブ学科」を新設。ゆったりとおいしい料理を楽しめる宿泊付きのレストラン(オーベルジュ)を併設し、実践研修を行います。オーベルジュは平成27年度に先行オープンする予定です。


エントランス

NAFICの見学会・説明会は、第1回 平成27年8月22日(土)、第2回 平成27年10月17日(土)である。NAFICは専用のHPを開設するとともに、Facebookも設けている。これらによると、NAFICは、昭和46年に開校した奈良県立農業大学校が前身で、平成17年に農業育成校となり、あわせて一般の社会人や定年後の社会人による農業担い手の養成学校となる。その後、今回の開校に至った模様である。


ダイニング

校舎は3つに分かれていて、「安倍校舎」(フードクリエイティブ学科 桜井市大字高家2217)、「池之内校舎」(アグリマネジメント学科 桜井市大字池之内130-1)、「橿原校舎」(アグリマネジメント学科仮校舎 橿原市四条町88 農業研究開発センター内)がある。


バンケット

NAFIC設立の意気込みは、荒井知事の対談によく出ている。知事は「山深いレストランであっても、味が美味しい、宿泊ができる、土産物も買えるとなれば、多くの人を寄せつけ、地域に価値をもたらす存在となります「農家は効率や利益を求めるだけでなく、料理人、それを口にするお客様、消費者のことまで考えて生産することが重要です」「フランス料理、オーベルジュと『洋』にこだわったのは外国人観光客の誘致はもちろん、いにしえより国際色豊かな奈良の食と農の世界発信も視野に入れてのことです」と語る。


ラウンジ

我々一般県民にとって気になるのが、オーベルジュ(宿泊付きのフレンチレストラン)だ。関係者によると、オープンは本年9月上旬を予定しており、6月上旬に記者会見、そこで店名、オープン時期、メニューや料金、内覧会などの発表を計画しているという。なお予約は7月から受け付けるそうで、これは今から楽しみだ。

「奈良県下には良い食材があるのに、良いレストランが少ない」といわれる。荒井知事は「地方創生において『食』が大きな役割を果たす」と語る。農業の担い手を養成するとともに、世界に通用する優れた料理人の養成をめざすNAFICの開校は、とても頼もしい存在である。皆さん、NAFICにご注目を!
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ハラールを奈良県下全域に広めよう! 観光地奈良の勝ち残り戦略(89)

2015年04月23日 | 観光地奈良の勝ち残り戦略
「観光地奈良の勝ち残り戦略」シリーズは、早くも89回目を迎えた。私は「奈良のうまいもの部会」(県農林部)メンバーになった2003年頃から、奈良の観光振興について考えるようになった。ブログを始めた2005年以降は、奈良観光について感じたこと・考えたことを、勉強のためにと当ブログに書き連ねてきた。このタイトルは、藻谷浩介氏が奈良市で行った名講演「観光地奈良の生き残り戦略」からいただいたものだ。
※写真はすべて、Mくん(南都銀行の社内報編集者)の撮影。いつも上手に撮ってくれる

延々と12年もの間、奈良観光について考えてきた訳だが、「何となく見えてきたな」と感じたのは2010年の「平城遷都1300年祭」で、平城宮跡探訪ツアーの「ボランティアガイド」を担当した頃だ。観光について内側(提供側)から見る良い機会になった。私はこの年に「奈良まほろばソムリエ」の資格も取得した。

前置きが長くなった。2015年4月8日(水)、南都銀行本店6階大ホールにおいて、「これで分かる!ハラール対応セミナー」を開催した(主催:南都銀行 協力:南都経済研究所)。奈良を訪れる外国人観光客の増加に伴い、ムスリム(イスラム教徒)の来訪も増えている。これらの方々をもてなすには「ハラール」(イスラム教の戒律で許されたもの)に関する正しい知識が必要と考え、このセミナーを企画したものだ。式次第は

第Ⅰ部
 講演「ハラール対応入門」
 講師 一般社団法人ハラルジャパン協会 代表理事 佐久間朋宏氏
第Ⅱ部
 講演「ハラール食の実際」
 講師 株式会社 梅守本店 代表取締役 梅守康之氏/新規事業部 梅守志歩氏



開会挨拶に立つ和田悟部長(南都銀行 公務・地域活力創造部)

当日は、ホテル・旅館、レストラン・料理店、自治体関係者など、110名の方にご来場いただいた。手元のメモに基づいて、当日の様子をざっと紹介する。なお、正式な講演録は、南都経済研究所の「ナント経済月報」2015年5月号に掲載される予定である。

講演では冒頭、南都銀行公務・地域活力創造部の和田悟部長が「インドネシア、マレーシア、インドなど、奈良にも多くのイスラム教徒のお客さまが来られています。今日の話をヒントに、多くの方々を奈良観光に引きつけてください」と挨拶。引き続き講演がスタートした。

第Ⅰ部 講演(佐久間朋宏氏=トップ写真)
「ハラール」を知っているか否かで今後大きな差ができるが、まだ緒についたばかり。今日、ここに来られている皆さんは、トップランナーだ。ハラールは一過性のブームではなく時代の潮流(トレンド)であり、今後ますます重要になる。ハラールは「イスラムの聖典で許されたもの」。食べ物だけでなく、ライフスタイル全般にわたる。時間を守る、人を傷つけない、戦争をしないなど。

イスラム教徒は親日家でアジアに半数。熱帯の砂漠に多く住むので、甘いもの・辛いものを好む。肥満体や糖尿病が多く、我々より寿命が短い。だから健康・長寿でスリムな日本人を尊敬している。食べ物については豚および豚由来のものはダメ(ノンハラール)。ゼラチン、ショートニングや乳化剤に豚由来のものが入っていてもダメ。

牛・鶏・羊・鹿肉は食べるが、イスラムの法に則って殺処分したものが望ましい。基本的に土・川・海由来のものはハラール。だからお茶や焼海苔や鯨肉はハラール。生きた動物から獲れたもの(鶏卵、牛乳など)もハラール。酒(飲むアルコール)はダメ。アルコール添加した味噌・醤油もダメ。アルコール消毒は、他に消毒用の代替品がなければ、ハラールになる。

「ハラール認証」は約40年前、多民族国家であるマレーシアで生まれた。多種多様な輸入品の中から、ハラール商品を即座に見分けられるよう、マークを付けたのが始まり。ハラール認証はISO同様、「施設の認証」。
①材料がハラールか
②工場全体がハラールか(または専用ラインがあるか)
③製品を管理(分別)しているか
④イスラム教徒を雇用しているか(またはチームを作って管理をしているか)。

東京五輪では訪日外国人は約2,000万人と予想、するとイスラム教徒は100~150万人となり、これは昨年来日した韓国人や台湾人のレベルだ。「ハラール」だけにとらわれず、「ベジタリアン料理」や「英語表記」などの外国人対応と一緒に進めればよい。ハラール食品は、日本人向けには「ヘルシーな食品」として売れる。

在日イスラム教徒は約20万人。彼らは輸入したハラール食品を食べている。まずは彼らに奈良に来てもらい、奈良のハラール食を食べてもらおう。ハラールのお土産もいい。岡山のきびだんごや沖縄の黒糖菓子には、ハラール認証を受けたものがある。食べ物以外ではホテルなどでの「お祈りスペース」の確保も大切だ。

単にハラールだけでなく「ハラールで、しかもおいしい」を考えなければならない。精進料理では「味がない」といわれるだろう。ムスリムが好むのは1にラーメン、2に和牛(しゃぶしゃぶ、すき焼き、焼肉など)、3に天ぷらなどの揚げ物。寿司は食べるが、刺身はほとんど食べない。

食に関しては、4つの質問をすれば失敗しない。
①どこの国から来たか
②刺身が食べられるか(食べられれば、レパートリーがグッと広がる)
③来日は何度目か(回数が多ければ、新たな食にチャレンジしてもらう)
④酒(アルコール)は飲むか

イスラム教徒にも個人差がある。これらの情報を料理長に知らせれば良い対応ができる。(「豚肉は食べるか」は聞いてはダメ。)日本でもハラールの和牛が手に入るし(業務スーパーなど)、たいていの大学の近辺では、ハラール食品が充実している。

日本で「完全ハラール」はムリで、そんなことをすれば、逆に日本人客を失ってしまう。「ノーポーク・ノーアルコール」とか「ムスリムフレンドリー」(食材はハラールだが、アルコールは出す 等)などの「寛容なハラール」もある。美濃吉やホテルグランヴィアも、ムスリムフレンドリーだ。

大切なのは、取り組みの「情報開示」で、これを少なくとも英語でやるのが望ましい。最後に。ハラール対応はあわてず、まずは勉強し、参入に備えて準備を。取り組んだら旗を上げる(Webなどで公開)。すると国内外から注目される。皆さんはトップランナーだ。ぜひ頑張っていただきたい。
 


梅守康之氏(梅守本店 代表取締役)

第Ⅱ部 講演
[梅守康之氏]寿司の製造・販売をしている。かつて重病で入院している子供たちにクリスマスイブの夜、こっそり寿司を持ち込んで食べてもらった。そのときの笑顔が忘れられない。平成25年に寿司づくり体験「うめもり寿司学校」を始めた。香港などからの外国人観光客に人気で、これまで約2万人が来られた。「イスラムの人が食べ物に困っている」と聞き、ハラール認証に取り組んだ。今後「オール奈良県」で、一丸となってインバウンドやハラールに取り組めないかと考えている。



梅守志歩氏(梅守本店 新規事業部)
 
[梅守志歩氏]ハラール認証への取り組みは、昨年8月にスタート。プレ監査で認証取得が可能か見てもらい10月に本監査、11月に認証を取得。3ヵ月の短期間だったが、熱が冷めないうちにタイムスケジュールを決めて取り組むことが大切。当社は和食なので、野菜(土のもの)や魚(海のもの)が多く、認証が取りやすかった。

全ての原材料の「商品企画書」を取り寄せ、チェックした。疑わしいものはそのモトにまで遡り、ハラールであるかどうか確認した。社内スタッフへの教育・周知徹底が大切。イスラム教の教えを正確に知り、理解して取り組むことが必要だ。


質疑応答の時間に梅守本店のハラール弁当を紹介。司会・進行は私が担当

このあと質疑応答と、南都銀行バリュー開発部・大田直樹部長の閉会挨拶で終了。県下では珍しいハラールのセミナーだったので「ハラールの基本的な考え方が分かった」「目からウロコが落ちた」「当社でも対応を進めていく」とご好評いただいた。

このセミナーに参加された金田充史さん(魚佐旅館専務)が、Facebookで当日の様子を紹介して下さった。

昨日なんですが、ハラールの研修会に参加。南都銀行の公務・地域活力創造部さんの企画で、こんな研修会をして貰えた事に感謝せねばなるまい。今、日本に来られている外国人さんがも急増している昨今、このハラールも、避けて通れない案件となった。しかし、このハラール程、私たち日本人になじまないものは無いって感じがする。しかしながら、このハラールの問題、今の私たちが、普段、ナニを喰っているかを、再検証し、また、そんなので良いか悪いか、と云う事を考え直す機会にもなりそうだ。



豚がアウトって云うのは、これは有名だが、それだけではない。豚を使用している、全てのものがアウトなのだ、だから、ショートニングや乳化剤に、豚を原料としているものを、少しでも使えばアウトになる。だから、シーズニングなどに、少しでも混じればアウト。今の私たちの食材は、加工食品が多く、その原材料は様々で、これが、ハラールの対応を難しくしている。だから、通常に売っているパンもアウトなので、食パンとコーヒーって云う、単純な朝食でも、ハラールにならない。

生活習慣と宗教が絡んで、また、この基準がたくさんある、と来ているから、少しの理解は出来たが、まだまだハードルは高い。今、ネットでハラール対応の食材も出て、環境的には少し進んだ感もあるが、まだまだ高価だ。業務用食材としての価格での流通は少ない。それだけ、日本での市場が小さいのだが、今、ちょっと考えている事にも、これが引っかかってしまう。時間の取れる時にできるだけ沢山の知識を仕入れないと、この問題、一筋縄ではいかないぞ。



閉会挨拶する大田直樹部長(南都銀行 バリュー開発部)

この書き込みに対し、興味深いコメントが入っていた。奈良町にお住まいのMさん。《大学のときイスラム教の人がいて、カップ麺ひとつにも原材料を確かめていました。そのようすを見て、自分が食べているものに、ふだんどれだけ無頓着か、はっとさせられました》。

旅行業のTさん《イスラム教徒は豚関係がタブーなんですよね。去年行ったインドでは牛がタブーでした。理由は牛は神の使いで水を泳ぐのが上手くて、己が死んだ時に牛のしっぽにつかまって三途の川を渡らなければならないので生前に牛を食べると三途の川を渡る手助けしてもらえないからだそうです》。だからインドに「ビーフカレー」がない、という有名な話である。

金田さん《全世界での人口で、イスラムは、ほぼ1/3だそうで、この市場を見過ごすのは、もったいないって事なんですが、日本は、この点が遅れているのと、まだまだ、イスラム系の人たちが少ないので、商業として成立しないのが、難点だと仰ってました。しかし、いずれは、メジャーになるんでしょうねぇ》。

奈良観光では今、「インバウンド」が今後の成長分野として注目を集めている。県観光局は「今年はインバウンド元年」という。奈良県ビジターズビューローでは、インバウンドの促進に向け、ずらりと人材を揃えた。ハラールも、インバウンド促進の重要な要素である。

先日(4/16)は日本経済新聞が「イスラム客、和食に誘う 関西でハラル対応広がる 」という記事を載せていた。《関西の和食店でイスラム教の戒律に沿う「ハラル」メニューの提供が広がっている。がんこフードサービス(大阪市)は味や調理法を変えた天ぷらやすしを扱う店舗を増やす。グルメ杵屋は機内食向けの食材を増産する。和食人気に加え、関西を訪れる外国人客が増えていることが背景にある。がんこフードは京都ハラール評議会から認証を受け、がんこ寿司の京都三条本店(京都市)に続き、大阪法善寺店(大阪市)でも提供を始めた》とある。

梅守社長は「今後、オール奈良県でインバウンドやハラールに取り組もう」とお話になった。「奈良へ行くと、ハラール食に不自由しない」となれば、ASEANなどから多くのムスリム客が来られることだろう。ぜひ我々も手を携えて進めていきたい。

小雨の中、足をお運びいただいた皆さん、有難うございました! 参加されなかった皆さん、概要は上記の通りです。ぜひ、それぞれの持ち場で「ハラール対応」をお進めください。これを機会に、奈良を「ハラールの聖地」にしましょう!
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田中利典師の「こころの時代」 4月26日(日)午前5時!(2015Topic)

2015年04月22日 | お知らせ
3月末まで吉野の金峯山寺にいらっしゃり(前「金峯山修験本宗」宗務総長)、今は自坊(京都府綾部市の大容山「林南院」)の住職・代表役員をお務めになる田中利典(りてん)師が、NHK Eテレ「こころの時代」に出演される。NHKの公式HPによると、
※トップ写真は、吉野町地域おこし協力隊の古賀さんと利典師。利典師のFacebookから拝借

4月26日(日)午前5時~6時
こころの時代~宗教・人生~「花に祈る 山に祈る」


「吉野の桜は仏の慈悲の象徴。自然の中に生かされていることを忘れないで」と語る田中利典さんは金峯山寺の修験僧。吉野の山を駆け巡る厳しい修行で開けた祈りの世界とは?

「吉野を埋め尽くす桜は、仏の慈悲の象徴。桜の姿に“自然の中に生かされている自分”を気づいて欲しい」と語る田中利典(たなか・りてん)さんは、奈良・金峯山寺(きんぷせんじ)の修験僧。吉野の山を駆け巡る厳しい修行に、30年余り打ち込んできた。

「自然の中に身を置き、山で修行を積んだことで、開けた」という祈りの世界を、田中さんに聞く。【出演】金峯山寺一山宝勝院住職…田中利典,【きき手】濱中博久

再放送は、翌週土曜日(5/2)午後1時~2時である。なお、先日当ブログで紹介した「こころの時代 シリーズ日本仏教のあゆみ~信と行~ 第1回日本仏教の夜明け」は、4月25日(土)午後1時から再放送されるので、見逃した方はご覧いただきたい。

 修験道入門~体を使って心をおさめる~ (集英社新書)
 田中利典
 集英社

さて、そんな田中利典師は、5月1日(金)~6月19日(金)、自坊の「林南院」で、参籠修行である「化他行(けたぎょう) 蔵王供千願祈祷」をお勤めになる。お行のFacebookによると、

小生は本年で還暦を迎え、また本山金峯山寺の宗務総長職を担って15年の節目を迎えますが、この機を汐に、今年5月1日より50日間の、自坊での参籠修行を発心しました。実は私は過去、20代、30代の終わりに2度にわたって、自坊での参籠護摩修行を行じ、「一千座護摩供」は30代の終わりでした。

ところが40代の終わりは本山での総長職を担っていた関係で、思うような修行が出来ませんでしたが、本年3月末で、その職も辞し、20年ぶりに自坊での護摩供修行と、「化他(けた)行・蔵王権現供養法(蔵王供)百座千願祈祷」を発願しました。

修験道の教えでは「山の行より里の行」といいますが、このたびの蔵王供は自分のためではなく、山で得た力をまさに里の人々に向かわしめ、うち続く天変地異封じや、人々の安寧を祈るとともに、ご縁ある方々の祈願成就を祈祷させていただく「里の修行」として発願しました。「千願」とはあまねくという意味で、目標としています。

つきましては、蔵王供修法での「千願祈祷」の受付と、護摩供添え護摩木の勧進をお願い致したく、ご案内を申し上げます。申し込み受付中です。どなたでもお申し込みいただけます。

◇林南院 化他行蔵王供千願祈祷 勧進要項◇
○修行期間 5月1日より6月19日 (百座修法します)
○祈願志納金 一願につき1万円(お一人さま、何口でも申し受けます)
○祈願用紙 専用の祈願用紙があります。(一枚に一願をご記入のこと)
 *必要な方は郵送にてお送りします。
 お申し込みは電話か、メール( yosino32@gmail.com )で.。
 郵送にて申込書を返送します。また本紙のコピーでも申し受けます。
○申し込み方法 祈願用紙にご記入の上、同封の返信封筒にて当山まで返送下さい。
○申し込み期限 入行日の関係上、4月30日,迄にお届け下さい。
○入金方法 ご入金は郵送または振替用紙を利用下さい。
○お札のお届け 祈願終了後に、随時、郵送にてお届けします。

なお、期間中、蔵王供の直接参拝は出来ませんが、毎日午後1時から林南院脳天堂にて、長日祈願護摩供(約50分)を修法します。是非、護摩供に随喜ご参拝下さい。また、護摩供終了後には、ご予約いただければ、毎日、個別相談指導の時間も申し受けます。「化他行蔵王供千願祈祷」成就のために、なにとぞ多くの方々のお力添えご協力ご広宣のほどよろしくお願い申しあげます。 合掌



桐島洋子さんと。利典師のFacebookから拝借

利典師は今朝(4/22)、ご自身のFacebookに、こんなことを書かれていた。

自坊生活3週間…。まあ、3週間と言っても、じっとしていたわけではなく、九州への出向巡拝や沖縄旅行などがあり、実質は10日あまりしか、いなかっったのですが…。九州では10体の蔵王権現様を開眼させていただき、また弟子の棲む辻堂を本宗の非法人寺院に登録する手配をしてきました。離職直後の仕事としては、実りの多い九州行きでした。

さていずれにしても宗務総長職を辞して3週間が立ちますが、いろいろ気づかされる毎日です。足かけ15年間の総長職、そして34年の金峯山寺生活でした。つくづく。よく全うすることが出来たなあと思っています。

近頃、とみに思うのは、「人生は何事も全うすることが大事だ」ということです。教師は教師、公務員は公務員、大工は大工、会社員は会社員…それぞれ自分の与えられた人生を、自分の出来る範囲内で全うすることが大変大事だと思っており、そういう意味では私も見事に全う出来ました。それは全うさせてくれた数多くの人々の力と支えがあったからだと改めて感謝しております。職場や友人・知人や取り巻く社会の人々だけではなく、家族も当然そうですよね。

世の中は自分のことしか考えられない人、目先のことしか考えられない人ばかりかもしれません。私もそういう心が自分の中にあります。離職に当たって、もう一度、国軸山金峯山寺の役割、修験道の果たす責任など、自分に問い直したいと思います。自分のことしか考えられない糞みたいな人生にならないように自分自体もいさめていきたいと思っています。

とはいえ、自坊のことは30数年、ほったらかしにしすぎてきました。とりわけ開山住職の父が病気になり、その後死去してからのここ10年以上は、お寺のしての機能が著しく退化したまま、本宗の宗務などの忙しさに、手が回らず、年2回の大祭と、月2回の護摩を行うのが精一杯で、寺の法務だけではなく、修復や境内の整備も怠ってきたのが現実でした。そういうツケをここ3週間で痛いほど実感しています。勤行も事欠くようなここ10数年でした。

幸い学生生活を終えた長男がともに自坊での生活を支えてくれています。ある種、誰かがそばで仕事の指示を受けてくれるという宗務総長病ともいえる生活に慣れた今の私には、とても助かりますし、有り難いことです。

5月1日から「化他行蔵王供千願百座祈祷行」に入りますが、日本の軸を1000年以上にわたってお守りされてきた蔵王権現様にお祈りし、権現様とともに、この国の信仰を育んでこられた役行者さまを自坊から拝むことで、私の今後の、残された人生の意義を再認識出来る修行としたいと思っております。


「人生は何事も全うすることが大事」とは、けだし至言である。私は中途半端なままにいろんなところに首を突っ込んでいるが、「これからは、総まとめをしないといけないな」と考えているところだ。何しろ利典師より、2つも年上なのだから…。

皆さん、ぜひNHK「こころの時代 花に祈る 山に祈る」のタイマー録画をお忘れなく。そして「化他行蔵王供千願祈祷」にご協力を!
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嶋左近&松永久秀ゆかりの椿井城跡 (産経新聞「なら再発見」第112回)

2015年04月21日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載され、惜しまれながらこの3月末で連載終了となった「なら再発見」、当ブログで未紹介のものを順次紹介させていただく。今回(2/28付)は「椿井城跡(つばいじょうせき) 城主は嶋左近か松永久秀か」、筆者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員の藤村清彦さんである。まず、椿井城跡とは何か。平群町(へぐりちょう 奈良県生駒郡)の公式観光HPに、簡潔に紹介されている。


トップ写真を含む3枚の写真は、平群町の公式観光HPから拝借

矢田(やた)丘陵の稜線上に築かれた山城跡。南北が300mもある細長い城で、多くの曲輪(くるわ)や深い切り通し堀、土塁が残っておりごく一部に石垣も見られる。中央部がやや低く、城域が南北に別れ、高い北側部分が中心の主郭にあたる。西側山裾と主郭部との比高差が180mもあり、西側の平群谷への見通しが常に良く、谷の南半を抑える要衝に位置し、西側が城の防御正面と考えられる。

城主は当初椿井氏が築城し後に嶋氏が取って変わったと考えられ、戦国末には筒井傘下の嶋左近と信貴山城に入った松永久秀との間で幾度もの争奪戦が繰り広げれられたと考えられる。天正8年(1580)織田信長が筒井順慶に命じ、郡山城を残して大和の諸城を破却させており、本城もこの時に放棄されたとみられる。




つまり「城は椿井氏が築き、その後嶋氏が入り、のち松永久秀と争奪戦が繰り広げられた」ということだが、最近は「松永勢が築き、久秀が滅びたあと嶋左近が入ったのでは」という説が出て来ている、と藤村さんは指摘している。だから見出しが「城主は嶋左近か松永久秀か」となっているのだ。

(6/12追記)「平群人」さんから、こんなコメントをいただきましたので追記します。
西が防御正面ではありません、西の尾根続きは開放的で防御が薄い特徴のある城です。各堀切の延長、竪堀の長さを比べてください。西が長いか東が長いかを見れば、どっちの斜面の横移動を封鎖したかったか一目瞭然ですよ。それと、東斜面には当城唯一の横堀まであって東を警戒しています。警戒度の高さからみても西より東が高いのです。正確には北東の白石畑集落方面から、平群谷の平等寺集落に繋がる道を警戒しています。有名な嶋氏なので幻想を持つ方は多いのですが、当時の嶋氏にこんな城を作れる実力はありませんし、筒井氏にしても信貴山城の鼻先への進出など無理だったでしょう。また、松永氏の城の特徴も垣間見える城ですから、松永氏の可能性が限りなく高い城です。

さて、そろそろ全文を紹介する。

 椿井(つばい)城跡は矢田丘陵の南端に近い尾根の西側に築かれた戦国期の山城(やまじろ)跡だ。矢田丘陵は、奈良盆地の西側を南北に走る丘陵で、平行して走る生駒山地との間には、竜田川を軸とした平群谷(へぐりだに)が広がる。
 椿井城跡には近鉄生駒線竜田川駅からまず東に進む。徒歩15分で麓(ふもと)の春日神社に着く。神社から城跡までは500メートル。遺構保存のため北郭跡への立ち入りは禁止されているので、春日神社の南にある椿井井戸の側から登らねばならない。
 地元では、筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えた後、豊臣家(とよとみけ)の五奉行の一人であった石田三成(いしだみつなり)に召し抱えられ、関ケ原の戦いに散った嶋左近ゆかりの城として左近使用の三つ柏(みつかしわ)紋の幟(のぼり)を要所に立てて道案内に努めている。
      ※   ※   ※
 城跡から西側の展望は素晴らしい。眼下に平群谷とその向こうにそびえる生駒山地が一望でき、平群谷の領主になった気分が味わえる。生駒山地の南端には、二上山のように盛り上がった信貴山が間近に見える。そこに築城の名手松永久秀(まつながひさひで)が信貴山城を築いたのだ。



平群谷椿井集落から見た椿井城跡

 標高は椿井城が243メートルに対し、信貴山城は437メートルと高いが、椿井城から信貴山城までは直線距離で約4キロ余り。復元された現在の平城宮大極殿から大仏殿までの距離に相当する。まさしく指呼(しこ)の間(かん)で、両城が対峙(たいじ)していたとすれば、互いの人馬(じんば)の動きまで読めたであろう。
 逆に東の奈良盆地側は全く見通せない。矢田丘陵は椿井城の北で東西に分岐しており、城跡の東側は、浅い谷の向こうにある高い尾根に遮られて展望がきかないのだ。
      ※   ※   ※
 椿井城築城の記録は残されていないので、戦国期の動きと城跡の構造から築城者を推定するしかない。
 戦国期の勢力関係は連携と離反が常だが単純化すれば、織田信長(おだのぶなが)の麾下(きか)、奈良盆地西部を拠点とした筒井順慶に仕えたのが嶋左近であり、この勢力と敵対していたのが松永久秀だ。久秀は一時織田信長に臣従するも、最後には叛(そむ)いて信貴山城で自爆(じばく)したとされる。



椿井城跡のV字形堀切(空堀)から見た信貴山城跡

 かつては、嶋勢が椿井城を築き、信貴山城の松永久秀と敵対していたと考えられていたが、最近では松永勢が信貴山城の出城として築き、久秀が滅びたあと石田三成に仕えるまでの間、嶋左近が入ったのではないかという説が浮上している。
 確かに城跡の東斜面は急峻(きゅうしゅん)で、奈良盆地側の筒井勢に備えて人工的に削られたとも見える。また、平群谷をおさえた力のある久秀の信貴山城から見てこの城は西に進出しすぎており、目障りであったと思われる。
      ※   ※   ※
 城跡はクヌギ林に囲まれており、とりわけ秋の紅葉の時季が素晴らしい。城跡の梢をわたる風の音に耳をすますもよし、戦国の豪傑たちの築城構想に思いをはせるもよし、戦国時代に関心のある人にとって、興味は尽きない所だ。
 ちなみに嶋左近の墓は京都、大阪、対馬にもあるが奈良では三笠霊園東大寺墓地にある。左近が天正5(1577)年、春日大社に寄進した石燈籠が楼門の東側に残る。信貴山城の主(ぬし)であった松永久秀は王寺町の達磨(だるま)寺に眠っている。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)


奈良県と言えば古代史のイメージだが、戦国~安土桃山時代の遺構もたくさん残っているのだ。そんな遺跡を訪ねて古(いにしえ)に思いを寄せるのもいい。藤村さん、興味深いお話、有難うございました!

コメント (2)
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