tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

う、うまいっ!「旬彩坐 立山」の富山県直送・新鮮魚介料理

2018年06月20日 | グルメガイド
久々に、旬彩坐 立山(しゅんさいざ・たてやま/奈良市上三条町12-1 三条ミドービル2階)の夜の部に、4人でお邪魔した(6/15)。ランチはよく利用するが、夜の部はこれで2度めである。店名のとおり、ご店主の谷口俊彦さんは黒四ダムで知られる立山町(富山県中新川郡)のご出身である。富山県の氷見漁港や魚津漁港から新鮮な天然魚介類を仕入れ、厳選された日本酒とともに提供されている。



料理は予算だけ伝えて「おまかせ」でお願いしていた。この日の圧巻は、お通しの次に出てきたこの一皿「天然お造り盛り合わせ」だった。新鮮なトビウオをメインに、鯛やヒラメやマグロの舞い踊り!これはお酒が進む。



トビウオはあまり意識して食べたことがないが、味はあっさりとしていて身はモチモチ。これはうまいっ。



何とも不思議なゲンゲ(幻魚)という富山湾に生息する深海魚の干物。むしゃむしゃと美味しくいただいた。



何でもない一皿のように見えるが、いいダシが出ていてとても美味しい。



魚介ダシのきいた茶碗蒸し



タコにホタルイカ、お酒が進む。



ホクホクとしたカレイ



追加注文した白エビの唐揚げ。よく「白えびせんべい」をいただくが、これが現物。からりと揚がっている。



追加注文したまかないカレー。1人前を4人でシェアした。魚介ダシがよくきいていてこれは新鮮だ。



こちらはコースのミニ丼。ご飯に油揚げを載せ、あんをかけている。



最後にデザート。今は糖質(炭水化物や糖類)を控えているので、これは他のメンバーに食べてもらった。

すぐ下のメニュー(同店のチラシ)にあるとおり、料理はこんなにたくさんある。店主の谷口さんは日本酒のソムリエ「唎酒師(ききざけし)」の資格もお持ちである。奈良の地酒も15種類以上。

皆さん、ぜひ新鮮魚介の「旬彩坐 立山」をお訪ねください!

※ぐるなびは、こちら



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日本遺産(2018年度)に13件が認定!

2018年06月19日 | 観光にまつわるエトセトラ
文化庁は今年度(平成30年度)の日本遺産として13件を認定した(申請および認定された市町村の情報は文化庁のサイトに出ている)。TSUTAYAのニュースサイト(T-SITE)によると、

ストーリーから地域の魅力を繙く。平成30年度「日本遺産」に13件が認定
「日本遺産」とは、文化庁が認定した、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化や伝統を語るストーリー。文化財の保護に留まらず、それを発信することで有形・無形のさまざまな魅力を多くの人に伝え、観光・産業の活性化につなげることを目的としています。

平成27(2015)年度から認定がスタートし、2020年までに100カ所を「日本遺産」として認定するのが目標。4年目となる平成28(2018)年度は、5月24日(木)に13の新しいストーリーが選ばれ、その認定証交付式が行われました。

今年度は、鬼退治伝説に関係する史跡などで構成される「『桃太郎伝説』の生まれたまちおかやま」、紅花栽培と交易が生んだ豊かな富と文化に関する「山寺が支えた紅花文化」などが認定。今回の認定式では各ストーリーをモデルの冨永愛さんが朗読し、その魅力を伝えました。

「世界の舞台でモデルとして活動してきた中で、日本の文化や歴史の魅力やそれを知る重要性を強く感じた」と語った冨永さん。今回着た着物は、平成29年度に「日本遺産」に認定された丹後ちりめんの特注品だそうです。

また、日本遺産大使として女優・武井咲さん、歌手・きゃりーぱみゅぱみゅさんなど7名が就任し、認定証交付式には、料理人の村田吉弘さんと三國清三さん、歌舞伎俳優の五代目中村時蔵さんらが出席しました。

今年度の認定をもって、「日本遺産」は計67件に。日本各地の魅力を点ではなく面で捉えるこの試みでは、国内だけでなく広く海外への情報発信も目指しているそうです。買い物よりも得がたい体験を求め、我々日本人でもなかなか足を向ける機会がない場所を訪れる外国人観光客が増加している昨今。「日本遺産」を知ることは、自分たちの国に眠る唯一無二のストーリーたちを再認識するよいチャンスとなりそうです。


日本遺産の申請は市町村が行うことになっているが、奈良県内の市町村は、大津市が事務局を務めた《観音巡礼の根源・西国三十三所観音巡礼~1300年間継承されてきた「巡礼」の原風景~》に「高取町,明日香村,桜井市,奈良市」が加わった程度で(認定は見送られた)、単独での申請はなかった。全国で76件もの申請がなされたというのに、これは誠に残念なことである。

「申請にかかる市町村の事務負担が大きい」「認定されても観光客の増加につながりにくい」という声も聞くが、長い目で見れば、確実にプラスになることは明白だ。1300年以上の歴史があり、全国に誇れるナンバーワン、オンリーワンに恵まれた奈良県内市町村は、ぜひ積極的に挑戦してもらいたいものだ。
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にわか鉄っちゃん、大井川鉄道をゆく/SLに近鉄・南海電車も!

2018年06月18日 | 観光にまつわるエトセトラ
6月2日(土)、奈良まほろばソムリエの会の柏尾信尚さんとペアを組み、奈良検定の「体験学習プログラム」として法隆寺宝物館(東京国立博物館)を訪ねた。近くの黒田記念館で40分の講話を3本(柏尾さんは「法隆寺」と「宝物館の概要」の2本、私は「聖徳太子と雪丸」の1本)を済ませたあと、法隆寺宝物館を訪ねるという趣向である。


牧之原台地に向かう坂道の途中では、アジサイが咲き始めていた(写真は全て6月1日の撮影)

東京での講座は交通リスクを回避するため、前泊することを基本としている。なので私は前日(6/1)の早朝に奈良を出た。めったにない上京の機会だったので、私は静岡県の浜松駅で新幹線を降り、在来線で金谷駅(静岡県島田市)へ向かった。徒歩で茶畑(牧之原台地)を見学したあと、金谷駅から大井川鉄道(社名は大井川鐵道)に乗り換え、つかの間の鉄道旅を楽しんだ。大井川鉄道に載るのはこれで2度めだ。なお『世界大百科事典』によると大井川鉄道とは、


牧之原の茶畑、広さは東洋一で東京ドーム約560個分・5,000ヘクタール!

静岡県にある延長65.0km(1997)の民営鉄道。創立は1925年。本線は東海道本線の金谷から大井川に沿って千頭(せんず)に至るもので,49年に電化された。井川線は千頭から井川までの非電化線で,中部電力の電源開発に関連して建設された。


昔懐かしい南海高野線の急行車両、これでよく九度山駅から大阪・難波へ行った!

旅客誘致のため蒸気機関車の保存に努めてきたが,76年には国鉄払下げの機関車と客車を用いて本線に蒸気列車を復活させ,その後タイ国から戻ってきた国鉄の機関車も加わった。


座席の背もたれを倒せば、向きが変えられる

千頭駅構内には静態保存の機関車・電車が多数展示されている。井川線は野趣に富んだ風景の中を行く軽便鉄道的な路線で,90年にはダム建設に伴い一部の区間を変更してアプト式を採用した。寸又峡(すまたきよう),南アルプスへの観光ルートとなっている。



寸又峡というと私たちの世代は金嬉老(きんきろう)事件を思い出すが、あれはもう50年前の1968年(昭和43年)の出来事だ。私は金谷から新金谷を経由して下泉(しもいずみ)まで行き、そこからまた金谷まで引き返した(そのあとJRの在来線で静岡、そこから新幹線で東京に向かった)。Wikipedia「大井川鐵道」には、鉄道マニアが説明文を書いている。かいつまんで紹介すると、


新金谷駅でSLに乗り換えた。SLの煙で、写真がかすんでいる

1976年(昭和51年)に日本で初めて蒸気機関車の動態保存を始めた鉄道で、現在でもほぼ毎日運転されている。また、蒸気機関車の保存運転を行っている縁から、1977年(昭和52年)12月19日にスイスのブリエンツ・ロートホルン鉄道と姉妹鉄道提携を結んでいる。


SLの座席はすべて指定席だ

大井川本線で運行されるSL列車(SL急行)に旧型客車を使用していることや沿線の風景から、戦前・戦時中に時代設定されているドラマや映画のロケーション撮影でよく使用される。


地元産品を使った駅弁。絵はがきがついてきた

鉄道路線は大井川本線と井川線(南アルプスあぷとライン)を有する。大井川本線は蒸気機関車 (SL) の動態保存、井川線は日本唯一のアプト式ラック鉄道として知られる。




トイレもそのまま残されている。走行中は使用可能だ

鉄道路線 以下の2路線を経営している。
大井川本線 金谷 - 千頭間 39.5 km/井川線 千頭 - 井川間 25.5 km
大井川本線と井川線とは建築限界が極端に異なり、共通するのは軌間だけである。千頭駅を境に大井川本線と井川線の運行ダイヤは分断されている。この分断は運賃にもみられ、同じ事業者でありながら、大井川本線と井川線相互間を乗車する場合でもそれぞれの運賃額を合算して算出する。乗車券は原則として通し購入可能だが、千頭駅で再購入する場合と同額となる。



発車時間か近づくと、たくさんのお客が乗り込んできた


窓の外には茶畑が広がる。このあたりは川根茶の本場だ

在籍している電車は、ほとんどが他社から譲渡を受けたものである。電化されている大井川本線でのみ運用。電化後間もない頃は国鉄の払下げ車両と西武鉄道からの譲受車両のみで構成されていたが、次第に様々な鉄道から車両を譲受していくようになる。以前はクリームと赤(一部車両は青)の独自の車体色へと塗り替えていたが、最近では譲受車両に動態保存の意味も込めているため、譲受元の車体色のままで運用されている。


下泉駅(静岡県榛原郡川根本町)でSLを下車。ここから金谷へ戻った

21000系 元・南海電気鉄道高野線の大運転(急行)用車両である。夏期の増発や特急車の検査時代走などで特急「臨時こうや号」運用へ充当する必要から、最後まで扉間に転換クロスシートが残されていた第1・第2編成の先頭車4両を譲り受けた。


対向車線に南海電車が入ってきた


おお、私が乗るのは近鉄特急だ!狭軌の南大阪線・吉野線を走る車両だ

16000系 元・近鉄の特急車で、2016年(平成28年)4月現在、2両編成2本が在籍する。トイレの閉鎖とワンマン化改造が行なわれた以外はほぼ近鉄時代のまま使われている。1997年(平成9年)に2編成、2002年に1編成の計3編成を譲受した。


南海と近鉄が1つのホームに並ぶという不思議な光景だ


特急車両なので、シートはふかふか

C10形C10 8 唯一のC10形の現存機かつ動態保存機。1994年(平成6年)4月24日に大井川鉄道に入線し、整備を受け、1997年(平成9年)10月14日に営業運転を開始した。



無事、金谷駅に到着。特急車両なのに「普通」とあるところが、近鉄沿線住民としては面白い

結局私は、金谷→(南海の急行車両)新金谷→(SL)下泉→(近鉄の特急車両)金谷と、3種類の列車に乗ったことになる。SLや近鉄特急はもちろん、子供の頃から慣れ親しんだ南海高野線の急行車両(今は走っていない)に乗れたことには驚いたし、昔の思い出がいろいろとよみがえってきた。皆さんも、ぜひお訪ねください!
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風の神さま・龍田大社の風鎮大祭/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第70回

2018年06月17日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。先週(6/14)掲載されたのは「風水害防ぎ豊作祈る 三郷町・龍田大社の風鎮大祭(ふうちんたいさい)」、執筆者は安堵町在住の柏尾信尚さん。
※トップ写真は、拝殿前の仕掛け花火 

柏尾さんは法隆寺でボランティアガイドを務めるほか、大相撲、鉄道などに造詣が深く、これらの分野でも講演をこなされている。ガイド名人を決める「第1回Nara観光コンシェルジュアワード」では、優秀賞を獲得された。では記事全文を紹介する。


この動画は、同大社のホームページから拝借

龍田大社は信貴山の東南、大和川北側の山裾に鎮座します。全国の風の神の総本宮で、「風神」と呼ばれ、御祭神は天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)、国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)です。創建は2100年ほど前、第10代崇神天皇が夢で神託を授けられ、造営されたと伝わります。

龍田大社で毎年7月の第1日曜日に行われるのが「風鎮大祭」です。日本書紀には675年にすでに行われていたと記されており、4月4日の例大祭と対をなし、かぜしずめの祭りとも称されています。



風鎮大祭が開かれる龍田大社

当日は午前10時半から、神事や神楽の奉納が行われ、午後からは居合劔詩舞道や風神太鼓、河内音頭などが奉納されます。そしてクライマックスは夜9時からの風神花火奉納で、迫力満点です。最後は拝殿前の仕掛け花火に点火し、すべての催事が終了します。平昌五輪を前に、スキージャンプの高梨沙羅選手が、風を味方にしようと祈願に訪れたそうです。

メモ 龍田大社へはJR三郷駅から徒歩約5分(奈良まほろばソムリエの会 柏尾信尚)。


今年の風鎮大祭は、7月1日(日)。ぜひ、お参りください!  

         
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重伝建・小江戸(こえど)埼玉県 川越市を巡る

2018年06月16日 | 観光にまつわるエトセトラ
6月3日(日)、上京のついでに「蔵の町」として知られる川越(かわごえ 埼玉県川越市)に立ち寄った。ここは江戸時代の蔵の風情を残し、「小江戸(こえど)」と呼ばれている。行きは西武新宿駅から「特急小江戸号」で本川越駅、帰りは東武東上線で川越駅から池袋駅へ戻った。どちらも東京から約1時間だ。



川越は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている(1999年)。この町については、「小江戸・川越のまちづくり」(by 福島朋子さん)という記事に詳しく掲載されているので、こちらから主要部分を抜粋して、以下に紹介する。

川越といえば、昔懐かしい「蔵造り」商家が残り、江戸の風情を残す街として観光客も多く訪れる街。



しかし今でこそ小江戸で有名な川越の景観も、一時期は高層ビル街に変わる危機に瀕していたという。そうした中、地元の商店街や住民が声をあげ、まちづくりに改めて取り組むことで、現在の魅力的な川越の街が保持・形成された。



江戸時代と明治時代が共存し、映画のセットの中を歩いているような気分になる

住民主体で行う川越のまちづくりとはどのようなものなのか? 長年にわたり川越のまちづくりを支えている「NPO法人 川越蔵の会」(以下、蔵の会)にお話をうかがった。


駅の観光案内所で町の名物を聞くと、「サツマイモとウナギ」という答が返ってきた

川越は、かつて「新河岸川」が交通の要となり、江戸の北の守りとして商業の発展した地域。東武東上線「川越駅」から約2km北に位置する「一番商店街」には、今も土蔵造りの構造を店舗に利用した「蔵造り」の建造物が立ち並ぶ。蔵造りの町並みを守る「蔵の会」代表 原 知之氏によれば、この蔵造りは江戸の文化を色濃く残す貴重な建造物だという。


町には和菓子屋さんも多い。サツマイモ(救荒作物)を使った和菓子もたくさんある

「川越は、これまでいくつかの大火を経験してきました。特に1893年(明治26年)の大火では街の約1/3以上が焼失するほど甚大な被害に見舞われています。この時、焼失を免れた建造物が蔵造りの建物でした。時はすでに明治に入り、レンガ造りの建造物が流行していた時代。しかしここ川越では火災に強い“蔵造り”に目をつけ、あえて江戸文化を色濃く残す蔵造りにより店舗を再建したのです」


横道へ入ると、祭り道具の専門店があった

その名残が、現在も長さ430mにも及び蔵造りの建造物が点在する「一番街商店街」の姿だ。しかし、明治期に形成されたこの風情豊かな商店街も、1960年代に入ると街の中心地が南側の駅周辺地帯に移り、いつしか人通りの少ない商店街へと姿を変えていく。1960年代~1970年代は「商店街で足を止める人は少なく素通りするだけ」になっていたという。


川越氷川祭(ひかわまつり)=川越まつりが有名だ(同祭写真コンクールのサイトから拝借)

しかも、1970年代後半には周辺に高層マンションが建つようになる。一番街商店街も道路の拡張工事の計画があり保存の危機が訪れていた。そこで商店街の店主や住民は、協力して歴史的な町並みの維持に試行錯誤を重ねていくことになる。



そもそも1970年代の前半から、川越でも歴史的な町並み保存の意識は高まっていたという。川越の蔵造りに興味を持っていた建築家やまちづくりの専門家、大学機関などが川越を舞台にした歴史的街区再生計画のアイデアも提案され、文化庁でも「伝統的建造物群保存地区」に川越の指定を検討していた。しかし、こうした外部からの働きかけはなかなか街に根付かない。当時は商店会側で伝統的建造物群保存地区の指定にも難色を示したという。店主側に“看板も立てられなくなるのでは”という不安が強かったためだ。


左手奥の高層マンションとのコントラストが面白い

「蔵造りの建造物というのは、保存や修復に数百万から数千万の費用がかかることも少なくありません。これを個人で維持していくのは大変なこと。蔵造りは残っていましたが、当時は“蔵で人を呼べる”という考えもなかったため、無機質な看板や自動販売機、室外機などに覆われ、風情を感じられる町並みではありませんでした。蔵を残すためにはどうすべきか、“蔵を残して活用する”のではなく、“まずは商店街を活性化しないと蔵は残せない”と考えるようになったのです」


「2時間待ちもザラ」という老舗「小川菊(おがわぎく)」


番号札を早く取ったので30分待ちで済んだ。しかし注文して出てくるまで30分かかった

そこで、1983年には一番街の商店経営者や住民、川越を応援してくれていた建築家やまちづくりの専門家、有識者などからなる市民団体『蔵の会』(2002年にはNPO法人化)を結成。“蔵造り”の保全だけに目を向けるのではなく、商店街の活性化による街並みの景観保存を目指し活動が開始された。その内容は、まちづくりのデザイン活動や、イベントの開催、伝統的建造物の保存活動や広報および啓蒙活動などだ。


これはうまいっ!上(3,400円)だったか、特上(4,500円)だったかは、忘れてしまった

現在の一番街商店街をみると、その景観は圧倒的だ。重厚な蔵造りの店が通りの両側を埋めている。どこかのテーマパークのように、雰囲気だけを模した古い町並みではない。実際に年月の重みを感じさせる建物群を目にすることができる。それも「蔵の会」「町並み委員会」や「一番街商店街」など、この古き町並みを残そうとする住民の強い意思と働きがあったからだ。


時の鐘

住民主導だからこそ、ひとつの事例が周りに波及し、広いエリアで地域の活性化が実現している「川越」。今でこそ川越の街には重要文化財に指定された建造物が多くあるが、当時は消滅の危機もあった。それを守ったのは住民の強い意志と努力なのだと思う。





しかも保存を終着点とせずに、商店街の発展を目指したことが今の「川越」を形づくった要因なのだろう。次回は、こうした川越のまちづくりを行政側はどのようにサポートしているのか? 行政の立場から川越市のお話をご紹介しよう。

タイムスリップして、江戸時代や明治時代の町を歩いているような気分になった。町の人は親切で、町おこしの経緯を教えてくれたり、お薦めのうなぎ屋さんを教えてくれたり、お茶の販売店では座りこんで新茶を飲みながら町の話を聞かせてくれたり…。何より、町の人たちが自分たちの町を愛し、誇りを持っていることがビンビンと伝わってくるのが良かった。ついお土産もたくさん買ってしまった。

皆さんも大江戸(東京)へお出ましのおりは、ぜひ小江戸・川越をお訪ねください!
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