tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

菅谷文則氏の遺作『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳を読む』/奈良新聞「明風清音」第37回

2020年04月24日 | 明風清音(奈良新聞)
奈良新聞「明風清音」欄に月2回程度、寄稿している。昨日(2020.4.23付)掲載されたのは「大安寺の威光しのぶ」、菅谷文則著『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳(がらんえんぎならびにるきしざいちょう)を読む』(東方出版刊)の話だった。早くに奈良新聞は、本書出版のことを「資財帳から見る天平の大安寺」の見出しで報じている(2020.3.22付)。一部を抜粋すると、

大安寺は聖徳太子が平群郡に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を発端とし、舒明(じょめい)天皇が太子の遺志を受けて設立した最初の官立寺院、百済大寺に始まるとされる。大安寺伽藍縁起并流記資財帳(重文、国立歴史民俗博物館蔵)は、天平19(747)年に作成された公式文書で、百済大寺が九重塔を持つ当時最大の規模で造営された伽藍だったことを伝える。現在は、桜井市の吉備池廃寺がその大寺跡だったとみられている。

寺地や伽藍、仏像のほか、僧の生活備品も記されている「資財帳」の目録からは当時の社会の姿も垣間見える。菅谷さんは講義で「代々の天皇が造営に力を尽くしてきた寺こそが大安寺で、王朝の安泰のためには大安寺を大切にすることなのですよというのが、奈良時代の大安寺が最も主張したいことだと言ってよい」としている。

大安寺の河野良文貫主は「菅谷先生の広範な知識からなる講義は面白かった。この書籍はいわば先生の遺稿。多くの方に寺のことを知っていただけるとありがたい」と話す。B6判、並製、150ページ。1500円(税別)。同寺寺務所でも販売中。問い合わせは同寺、電話0742(61)6312。


本書の内容は多岐にわたり、限られた文字数でその全貌を紹介することができないが、私の気に留まったところだけを「明風清音」に書いた。では記事全文を紹介する。

今年2月27日、『大安寺歴史講座1大安寺伽藍縁起幷流記資財帳(がらんえんぎならびにるきしざいちょう)を読む』(税別1500円)が東方出版から刊行された。平成25~26年、当時県立橿原考古学研究所長だった故菅谷文則氏が大安寺で6回にわたって行った講演の記録だ。大安寺を応援する「ナラ・スタッグ・クラブ」がテープ起こし作業などで尽力し、森下惠介氏(元奈良市埋蔵文化財調査センター所長)が協力した。

「わが国最初の官立寺院の大安寺に強いこだわりを持った菅谷さんが、史料を読み解き、分かりやすく創建の由緒などを解説。仏像をはじめとする財産目録から奈良時代の大寺院の姿を紹介している」(本紙3月22日付)。他の寺院の資財帳も残っているが、それらは新しい写本や一部だけの抄本。これに対して大安寺のものは「完全な形で伝わり、奈良時代の大寺院のことを知る上で第一級の資料」(同書)。以下、同書の一端を紹介する。

大安寺は聖徳太子が平群郡額田部に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を発端とし、舒明(じょめい)天皇が太子の遺志を受けて設立した最初の官立寺院、百済大寺に始まるという。同書には「平城京における大安寺の位置」という地図が登場し、大安寺と薬師寺がシンメトリカル(左右対称)に建てられていることを指摘。「平城京遷都で国家が計画的に作った寺は大安寺と薬師寺だと言ってもよい」。

さらに「奈良から京都へ都が移された理由の一つに、『奈良時代、平城京では仏教が力を持ちすぎて、その弊害が出てきたので平安京に都を移した。そのため大寺院は奈良に残された。』というようなことを教科書には書いていますが、それは全くでたらめです。東寺と西寺という国立の大寺院を新都にはシンメトリカルに作っているのです。これなどは明治以後の国史、日本史研究が排仏的な『水戸史学』が基盤になっている弊害だと言っても良いでしょう」と手厳しい。

同書に詳しく紹介された資財帳の中身が、とても興味深い。例えば「銭」(和同開珎)は「六千四百七十三貫八百二十二文」、これは現在の貨幣価値で約8億4千万円に相当し「法隆寺資財帳」の約19倍にもなる。菅谷氏は『日本霊異記』を引きながら「奈良時代の大安寺では、銭の貸付を行っていたことがわかります。この大安寺が保有する大量の備蓄銭は金融資本であり、利潤の増殖結果とみられます」。

「鏡」は「千二百七十五面」。「東大寺正倉院に現在伝えられている鏡は五十六面、『法隆寺資財帳』に記された鏡は六面だけですので、これはすごい数です」「個人の喜捨、寄進物の蓄積であった可能性も考えられますが、小型の鏡、『雑小鏡』などは量産制作され、大安寺の仏堂の荘厳(装飾)に使われたと思われます」。

最後の「まとめ」には、「薬師寺は天武天皇のお寺、『天武王朝』歴代天皇の健康長寿、玉体安穏を通じて国家安泰を祈る寺であるのに対し、大安寺は王家の祖、舒明天皇が創建した王家の寺であったことは、『資財帳』に記された大量の財物だけでなく、財物の由緒来歴からもうかがうことができます。『資財帳』は舒明天皇から今上の聖武天皇に至るまでの王家歴代との深いつながりを主張、歴代天皇の保護を強調しているのです」。

日本で最初の官立寺院、大安寺の勇姿を浮彫りにした菅谷氏の遺作、ご一読をお薦めしたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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2020年 桜回顧(1)辯天宗 宗祖御廟(五條市野原東)

2020年04月23日 | 写真
さくらさくら さくら咲き初(そ)め咲き終わり なにもなかったような公園
俵万智『サラダ記念日』

今年もヤエザクラなどを除いて、桜の季節が終わった。今年ほど桜の美しさが心に染みた年はなかった。1つは新型コロナ禍のせいだが、私には別の理由があった。昨年秋の彼岸に母を亡くし、またこの3月には会社で1歳年上の友人だったMさんを突然死のような格好で亡くしたのである。母は私が撮った昨年の桜の写真を喜んで見てくれたし、Mさんは毎年のように、大阪城公園で花見をされていたと知った。







「花見は自粛を」とのお達しがあり、今年は吉野山はおろか大阪城公園に行くのも憚(はばか)られたが、人出の少ないオープンスペースを選び、急ぎ足で桜の写真をカメラに収めた。そのいくつかを紹介したい。







初回の今日は五條市野原東の「辯天宗(べんてんしゅう) 宗祖御廟(しゅうそごびょう)」の桜である。智辯学園中学・高校の南にある。以前から桜の名所と聞いていたが、訪れるのは今年(2020.4.8)が初めてだった。五條市の真土峠を訪ねることになっていたので、その日の朝にお参りした。





午前9時に到着したときは、掃除のおじさんのほかは誰もいなかったが、時間が経つと、ぽつぽつと花見客が増えてきた。それでも5~6人だった。とてもお天気が良かったのに、もったいないことだと思いながら、ひたすらシャッターを切った。





まず目に飛び込んできたのはソメイヨシノ。この桜は《オオシマザクラとエドヒガンの雑種で、明治初年に東京・染井(現在の豊島区巣鴨付近)の植木屋から売り出されたサクラである。初めはヨシノザクラとよんでいたが、奈良県吉野山のヤマザクラと混同されやすいので、藤野寄命(帝室博物館員)によりソメイヨシノと名づけられた》(日本大百科全書)。




こちらの手前はシダレザクラ

今「郡山城の桜はいつ植えられたか」という議論が巻き起こっているが、ほとんどがソメイヨシノなので、明治以降に植えられたということになるだろう。そもそも戦の砦である城に桜は似つかわしくないので、江戸時代にまで遡ることはなさそうである。







次はヤマザクラ。《東北地方の一部および北海道を除く日本の山地に広く分布するサクラ(中略)シロヤマザクラともいう。落葉高木で、樹皮は横に裂ける。葉は長だ円形で上面にのみ散毛があり、長さ8~12cm、幅3~5cmで、鋭い鋸歯がある。花は中輪で白色に近い。むかしから有名な奈良の吉野山・京都の嵐山・東京の小金井のサクラは大部分が本種である》(旺文社生物事典)。





上品な白い花びらと、花と葉が同時に芽を出すのが特徴である。青い葉が白い花を引き立て、良い雰囲気をかもし出している。最後はあでやかなヤエザクラ。《サトザクラの八重咲き品種の通称で、ボタンザクラともいう。4月中旬から下旬に大形の美しい花を開くものが多い》(日本大百科全書)。



奈良公園や、天理市の親里ホッケー場の周辺でもよく見かける。この日はベビーカーに赤ちゃんを乗せた若いママが、赤ちゃんと2人でヤエザクラの花見を楽しんでいた。





こうして写真を並べていると、あの日は汗ばむような暑い日だっことや、少し高台にあるので涼しい風が心地良かったことを今、思い出している。この連載は断続的にあと2回ほどさせていただく、お楽しみに!
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かぎろひ歴史探訪に参加(4月16日)、次回は4月26日(日)初瀬川源流へ!(2020 Topic)

2020年04月22日 | お知らせ
かぎろひ歴史探訪ウォークは、「奈良大和路を一歩深く紹介して散策にいざなう情報誌」である『かぎろひの大和路』からスピンアウトした歴史ウォークで、同誌編集者の豊永かずみさんが幹事をお務めになる。「事前申し込みなしの当日自由参加」で参加費は@1,500円・弁当持参。


これら3枚の写真は泉橋寺境内のヤエザクラ

4月16日(木)に開催された前回は「もうひとつの奈良、高麗路」で、コースは、
JR奈良線上狛駅⇒泉橋寺⇒茶問屋街⇒上狛環濠集落⇒大井戸跡⇒西福寺⇒上狛駅前公園⇒上狛墓地の石仏・石碑⇒高麗寺跡⇒サエの石神像⇒小林家住宅⇒環濠集落⇒上狛駅
幹事の豊永かずみさんがご自身のブログ「かぎろひNOW」で紹介されていた。そこには、



4月16日の「かぎろひ歴史探訪」は、新型コロナウィルスの猛威がおさまらない状況下、参加者がいなければ中止、1人でもいれば実施という姿勢でのぞみました。前日までにtetsudaさんとお知り合い2人の参加がわかっていましたので、これは5人による探訪ハイキングになるかも?



が、想像を超える10人の方がいらっしゃり、過去最少人数なのに、多い! と思ってしまいました。こんな時期なので、自粛を願いながら、やっぱりうれしい!



JR上狛駅に集合し、最初に訪ねたのは泉橋寺(せんきょうじ)だった。木津川は古代には「泉河」、木津は「泉津」「泉木津」と呼ばれていたから、木津川に架かる橋のたもとの寺という意味だろう。今もこの近くには日本百名橋の1つ「泉大橋」が架かる。木津川市観光協会のHPによると、


泉橋寺境内で田中龍夫さん(『かぎろひの大和路』主宰)のお話を聞く

行基が建てた四十九院の一つで、天平12年(740)に開かれた発菩薩院(ほつぼさついん)、隆福尼院(りゅうふくにいん)を前身とする寺院です。徳治3年(1308)に造られた石の地蔵は、応仁の乱(1471)、地蔵堂もろとも焼かれて200年以上そのままになっていましたが、元禄年間(1688~1703)に復元されたと伝えられています。





つぶやき
ここは北陸道として木津川を渡った要所で、大雨になれば交通が途絶え、行路病者たちや多くの人々が渡しの近辺に滞留せざるをえなくなるため、そういう人々の救済に行基が建てたものでしょう。平安時代以降は、京都から奈良へ行くのに橋がたびたび流されるので人々の浄財で人馬を運ぶ船三艘を泉橋寺に備えていたようです。



泉橋寺門前にある鎌倉時代の「石造地蔵菩薩坐像」、高さは4.58mもある!

見どころ
地蔵堂跡に露仏として鎮座する石造地蔵菩薩坐像は、鎌倉時代に造られたもので、高さ4.58メートルあり日本一の石地蔵として有名です。境内にある五輪塔は国の重要文化財に指定されています。




高さ4.58mとは、すごい!桜井市の聖林寺のご本尊・石造地蔵菩薩坐像は丈六仏(坐像)なので約8尺(2.43m)だから、倍近くもあるのだ。泉橋寺のあとは上狛の茶問屋街へ。サイト「日本茶800年の歴史散歩」によると、





宇治茶の近代景観(幕末~昭和)
上狛は木津川水運を利用した交通の要所であり、その地の利から茶問屋が形成されてきました。幕末から明治・大正・昭和初期に建設された茶問屋の建物が現存でも40件ほど軒を連ね「茶問屋ストリート」とも呼ばれています。平成16年には山城茶業組合創立120周年を記念して山城茶業之碑が建てられました。






茶問屋ストリートの次は、上狛環濠集落(狛城)へ。『日本城郭大系・第11巻:京都編』によると、

狛城(こまじょう)は、JR奈良線上狛駅の西に位置する上狛集落がそれにあたる。上狛集落は沖積平地上の微高知を利用していて、狛日向守(狛氏)の館を中心にして、集落の周囲に環濠をめぐらし、その内側に竹藪を設けるなど、中世における防禦を目的とした環濠集落の一つで、この居館がしだいに城郭化したため狛城とも呼ばれている。





この集落は古代の条里集落で、中世になって防禦施設として環濠を掘ったものと考えられる。(中略)上狛集落の地は、旧大和街道の中央部を南北に貫いており、伊勢・伊賀両国へ向かう街道の分岐点でもあるなど、古代から交通の要衝であった。





次は大井戸跡から西福寺へ回り、一旦JR上狛駅に戻った。駅前公園のベンチで田中龍夫さん(『かぎろひの大和路』主宰)のミニ講座をお聞きしてから、お弁当。いつもは「まずい」と毛嫌いしているコンビニの弁当が、歩いたあとはとても美味しく感じられるのが不思議である。


上狛駅前公園で、田中龍夫さんのミニ講座

お弁当のあとは上狛墓地の石仏・石碑を見学してから本日のメイン見学地「高麗寺跡」へ。木津川市のHPによると、


上狛墓地に、行基の石碑があった!









田園のなかにたたずむ高麗寺跡は、7世紀初頭(飛鳥時代)に創建された国内最古の寺院跡のひとつで、相楽七郷中の大狛郷に属し、高句麗からの渡来氏族狛(高麗)氏の氏寺として創建されたと考えられています。高麗寺は、文献資料から天平年中(奈良時代)に存在したことが「日本霊異記(にほんりょういき)」に記され、その他「今昔物語集」にも説話が収録されています。





伽藍(がらん)は、木津川を見下ろす台地上に南面して立地し、西に金堂、東に塔を持つ法起寺式の配置となります。塔、金堂、講堂は整美な瓦積基壇を外装としており、講堂の両翼から伸びた回廊は塔、金堂を囲んで中門に接続し、寺域は一辺が約200メートルの規模であったと考えられます。また、平成17年の発掘調査では、塔相輪(そうりん)上部に取り付けられた水煙(すいえん)と呼ばれる飾りを心柱に取り付ける円筒形の金具・擦管(さっかん)が見つかりました。



瓦積(かわらづみ)の基壇を見たのは、初めてである。『国史大辞典』によると、

瓦積基壇というものは高句麗・百済などに流行したそれの伝統を引く。往昔の相楽郡には大狛郷・下狛郷などがあり、当地は前者に属し、『新撰姓氏録』山城国諸蕃条にみえる狛造をはじめ狛人の繁栄した土地であるから、建立氏族としては彼らが考えられる。国の史跡に指定されている。



この日は15,000歩以上を気持ちよく歩いた!さて、いよいよ次回は4月26日(日)、タイトルは「初瀬川の源流を歩く」だ。当ウォークのサイトによると、 

[集 合] 4月26日(日)午前10時 近鉄大阪線榛原駅
[コース]近鉄榛原駅(北口改札を出て左)⇒志貴皇子妃・紀橡姫吉隠陵⇒鳥見山公園⇒高龗神社⇒(竜福廃寺)⇒まほろば湖(初瀬ダム)⇒長谷寺参道⇒バス停長谷寺参道口




「事前申し込みなし、弁当持参で当日参加」という気楽なウォーキングである。天気予報で4月26日は晴れのち曇り、降水確率は20%だ。自宅に引きこもってばかりだと、ストレスが溜まり、免疫力が低下する。

「天気のいい日に、空気の良いところを歩いてみたい」という方は、「三密」を避け、「咳エチケット」に十分注意しながら、ご自身の判断で参加していただきたい。豊永さん、私も参加させていただきます!
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大和当帰葉、ドクダミ、ヨモギ、吉野葛などを駆使した大願寺の薬草料理/毎日新聞「やまと百寺参り」第50回

2020年04月21日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(4/16)掲載されたのは「工夫された料理/大願寺(宇陀市)」、執筆されたのは宇陀市在住の松浦文子さん。
※トップ写真は大願寺の薬草料理(=同寺提供)。以下の写真は私の撮影(2015.10.17)


奈良まほろばソムリエの会の田原敏明さんと、コンビを組んでガイドした



大願寺の薬草料理は私もいただいたことがある。西日本経済界の代表者の皆さんのツアーで、ガイドを務めさせていただいたのである(2015.10.17)。境内をぐるりと案内してから、大広間に入った。ここで出てきた数々の薬草料理は、他では味わえない素晴らしいものばかりだった。




最初がこれ。前菜、胡麻豆腐、酢の物、白和え、三種盛り

とりわけ松浦さんもお書きの「吉野本葛の刺身」は、舌ざわりといい、のど越しといい、最高の逸品だった。出てきたお茶も、アマチャヅル、ドクダミ、アロエ、ハトムギ、クコなど10種類が入っていた。そのときのお料理をじっくり見ていただきながら、記事全文を紹介する。


絶品!吉野本葛の刺身

大願寺のある宇陀市大宇陀は、古くは阿騎野(あきの)と呼ばれ、推古天皇は611(推古19)年5月5日、ここで薬猟(くすりがり)を行いました。道を隔てた町並みには、現存最古の私設薬草園「森野旧薬園」があり、約250種類の薬草が栽培されています。


飛龍頭(ひりゅうず=がんもどき)のあんかけ


ヨモギ、ドクダミ、ユキノシタなどの天ぷら。からりと揚がっていた

薬草の古里にあり、織田家祈願所の歴史を持つ大願寺は宿坊をされ、そこで薬草料理を出すようになりました。大和当帰(とうき)葉やドクダミ、ヨモギなどの薬草や宇陀の名産・吉野葛を使った数々の料理が提供されます。特に葛の刺身はのど越しがよく、最高に美味しいと評判です。この地の上質な薬草や野菜を美味しく召し上がっていただくために工夫されている料理は、地域資源の情報発信と言えるでしょう。


黒米のごはん、吸い物、香の物

境内には、4月下旬から5月中旬にかけ、ハンカチノキの花が咲きます。ハンカチのような白い花がヒラヒラと風に揺れるさまは、とても美しく、見る人の心を癒(いや)してくれます。初夏にはカエデの新緑、秋には、色とりどりの紅葉と四季折々の風情を感じながら、心をこめて作られる薬草料理を味わってください(料理は予約制)。(奈良まほろばソムリエの会員 松浦文子)


デザート。ドクダミのシャーベット、自家製羊羹などなど

(宗 派)真言宗御室派
(住 所)宇陀市大宇陀拾生736
(電 話)0745-83-0325
(交 通)近鉄榛原駅からバス「大宇陀」下車、徒歩約5分
(拝 観)境内拝観自由
(駐車場)有(無料)


お寺の公式HPには、以下の通り紹介されている。

薬草料理は、お一人様 3800円(税込み)
胡麻豆腐・葛の刺身・薬草のてんぷら・白和え・花の酢の物・黒米ご飯が好評です。(時節により内容が多少変わる事があります)
【電話】0745-83-0325 (要予約)
【営業時間】11:30~14:00 (昼食のみ)
【休み】不定休・定員 80席 ・ 駐車場 20台


皆さんぜひ予約して、足をお運びください!



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日本最古クラス!端正なお顔立ちの「伝 薬師三尊石仏」を安置する石位寺/毎日新聞「やまと百寺参り」第49回

2020年04月19日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の発刊を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。本年(2020年)4月9日付で掲載されたのは、「最古級の薬師三尊石仏」、筆者は同会副理事長の小野哲朗さんだった。
※トップ写真は石位寺の礼拝堂。奥に収蔵庫が見える

石位寺は住職などの僧侶ではなく、住民(桜井市忍阪区の区民)が守っている寺である。それだけではなく、同区内の忍坂坐生根(おしさかにいますいくね)神社や玉津島明神の灯明も、住民によって毎晩交替で点灯されていることを、この記事で初めて知った。石位寺の「伝薬師三尊石仏」は、額田王の念持仏だったという伝承もある。では全文を紹介する。

桜井市忍阪(おっさか)は神武東遷の大室屋(おおむろや)、忍坂坐生根(おしさかにいますいくね)神社、布通姫(そとおりひめ)生誕の玉津島明神などの伝承地であり、また奥の谷には舒明(じょめい)天皇陵、鏡女王(かがみのおおきみ)の万葉歌碑と墓、大伴皇女墓などが点在し、忍阪街道筋に続く家並みと調和した、古(いにしえ)の愛と祈りが息づくふるさとです。

石位寺からは三輪山、多武峰の山並みが見渡せ、眼下には忍阪区全体が望めます。境内に立つ中世の供養碑群からは、当時からの住民との深い関係がしのばれます。

石位寺の一番の魅力は「伝薬師三尊像」です。昨年保存修理され、ことし1月~3月には東京国立博物館の「出雲と大和」展に出展され、「謎多き最古級の石仏」と話題を呼びました。忍阪に帰山、開眼法要のあと、いよいよ4月26日からお寺でその端正な姿が再び拝観できます。白鳳時代に製作されたという慈愛に満ちた表情の石仏を前にすると、離れがたい思いにかられます。

この寺が約250戸の忍阪区民の手によって守られ、保存維持されているだけでなく、忍坂坐生根神社や玉津島明神の灯明も区民によって毎晩交替で点灯されているそうです。区民の地域に対する深い愛情を感じます。(奈良まほろばソムリエの会副理事長 小野哲朗) 

(住 所)桜井市忍阪870
(電 話)0744-42-9111(桜井市観光まちづくり課)
(交 通)JR・近鉄桜井駅からバス「忍坂」下車 徒歩約5分
(拝 観)要予約(桜井市観光まちづくり課)
(拝観料)300円
(駐車場)有(無料)


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