中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

国宝巡り

2014-09-20 12:30:00 | 旅行
■寺巡りの日々■

 敬老の日がらみの連休は国宝の仏像を訪ねての、日帰り単発訪問をする日々だった。
 特に美術の素養もないボクなので、仏像に相対しても「曲線美がどうこう」であるとか、「細工の具合がどうこう」とか、そんなことにはあまり興味が沸いてこない。専らそれら仏像の制作、あるいは寺院そのものを建立した経緯や、仏師その他の制作者や庭園の造営者といった人々が、「そこに如何なる理由で関わり、思いを込めたか?」ということに興味がある。言わば、背景の人間ドラマを想像することが好きなのだ。

■浄土寺■

 まずは、初日にお兵庫県小野市にある浄土寺(じょうどじ)に、国宝の浄土堂とその中にある、阿弥陀三尊立像を訪ねた。

●整備された浄土寺の門前●

 この寺の阿弥陀三尊立像は1195年の開眼というから、時代は鎌倉時代のごく初期というになる。とすれば、建立の開始は平安時代の末期だろうから、この頃に日本に暮らす人々の心理には「末法思想(まっぽうしそう)」というモノが働いていたから、その影響を受けていそうだ。
 お釈迦様の教えと正しい行い・行いによる悟りの、3つが揃う時代から千年(五百年という説もあり)が過ぎると、悟りがなくなり、次の千年で正しい行いもなくなっていくという仏教上の思想が、その末法思想で、平安末期の1052年が、それが始まる時期にあたると考えられていたそうだ。
 丁度、源氏、平氏の戦いを始めとする、内乱がが盛んなりし頃と重なり、ついには平 重衡(たいら の しげひら)による南都焼討によって東大寺大仏や興福寺が焼失するに至ったため、人々はこのような現実から救いを求めるようになり、それが浄土信仰が広まる背景となったそうだ。
 浄土とは、仏教世界では「西方にある、清浄で清涼な仏の国」であり、その象徴が阿弥陀如来ということになる。そして、それを具現化したモノの一つが、この浄土寺にある浄土堂だ。

●浄土堂●

 この浄土堂は、境内の西にあり、夕日が射す頃になると、光背側の明かり採り窓から入った光が一旦床に反射し、それが天井に当たって阿弥陀三尊立像の上方から降り注ぐことで、あたかも西方浄土から阿弥陀如来様が脇侍(きょうじ)を伴って、お迎えに来られたかのような演出が施されている。
 案内書では、春分、秋分の日の頃の、日暮れ時が最も綺麗だと解説されているが、9/14の訪問時には、午後4時頃がピークだったようで、日暮れ時といっても、日没直前ではないから、訪問時には注意が必要に思う。
 ボクが訪問したのは4時20分頃だったため、ややピークを過ぎていたが、それでも光が降り注ぐ様子が見てとれたことは幸いだった。それにも増して驚かされたのは、国宝の仏像でありながら、参拝者との間に柵のような隔てるモノは一切なく、触れることがない限りにおいて、直近で見ることが許されていることだった。

●阿弥陀三尊立像(パンフレットより)●


■薬師寺へ■

 翌日は「薬師如来様が見たい」という、妻の要望に応えて、奈良市にある薬師寺を訪ねた。

●薬師寺の境内●

 薬師寺では、昨今のニュースでも採り上げられているように、東塔の解体修理が行われているために、全景が見られないせいか、参拝者もまばらであった。

●修理中の東塔●

 薬師寺は、天武天皇の発願であるところの、皇后の病気平癒のために建立が開始された。時代は白鳳時代と呼ばれる680年のことで、造営途中で皇后の病気が治癒したが、今度は逆に天武天皇が崩御されるに至る。次代の持統天皇の時代になって金堂にある薬師三尊が完成したと推測されているそうだが、その持統天皇も途中で病気になり、その平癒のために、この薬師寺で貴族や官僚達による仏像制作が行われていたそうだ。
 薬師如来信仰の基になる薬師経は、12の大願と九種横死(くしゅおうし)という「ロクでもない死に方」について説いている。信仰によって大願を得ることと、九種横死から逃れることを願い、それを具現化したのがこれほどまでの大寺院の造営であることから、現代人のそれと比べれば遙かに大きい当時の人々の病と死にに対する恐れというモノを窺い知ることができる。

 伽藍の南にある南門で拝観料を支払い、中門をくぐると正面に金堂がある。うち広げられた扉から本尊の薬師三尊が一挙に肉眼で見渡せ、圧巻だが、残念ながら光線の都合で三尊を一挙に写すことはできない。そこで、一体ずつ写真に納めた後、堂内へと入る。(堂内では撮影禁止)

  
●月光菩薩(がっこうぼさつ)・315.3㎝、約3000kg●


●日光菩薩(にっこうぼさつ)・317.3㎝、約3000kg●


●薬師如来・254.7㎝、約12000kg(台座込みの重量)●

 現代に残る薬師寺は、移転した後の位置にあり、金堂内の薬師三尊も寺院の移転と共に移転したのか、移転した後に制作されたのかは定かではないそうだが、三尊が完成したと推測されている時期から10数年しか経ていないので、時代的には大差がないということだそうだ。
 柵こそあるものの、この薬師寺も国宝でありながら至近距離で見られることは嬉しい限りだったが、何よりも驚いたのが、本尊下の台座(国宝)に彫られた(鋳ぬかれた?)、シルクロード経由であろう、諸物だった。上段にあるギリシャ到来の葡萄唐草文様(ぶどうからくさもんよう)に始まって、その下にはペルシャ到来の蓮華文様(れんげもんよう)があり、4面の中央には、インドから伝わった力神(蕃人「ばんじん」)の裸像が彫られている。さらに最下段中央には、中国の四方四神=東の青龍(せいりゅう)、南の朱雀(しゅじゃく)、西の白虎(びゃっこ)、北の玄武(げんぶ)が刻られているのだ。現代人であっても、殆どの場合で写真や資料でしか得られない情報を、この時代の人々が知り得たということに驚きを感じた瞬間だった。

 続いて、金堂奥にある大講堂に入り、弥勒三尊像を拝観する。しかしながら、この三尊は何故か重要文化財とのこと。その違いは何処にあるのかは素人のボクには理解できなかったが、この三尊は何度か名前も変わっており、江戸時代には阿弥陀三尊として祀られていたそうであるし、制作年や制作場所を含めて謎が多いのだそうだ。そのせいか、心なしか金堂の薬師三尊とは扱いも違うように思えた。

 伽藍の東には東院堂があり、ここには聖観世音菩薩像(せいかんぜおんぼさつぞう)が祀られている。この像も薬師三尊と同時期の白鳳時代の制作ということで、作りは大変似通っているが、これまた国宝であるにも関わらず、至近距離で見ることができる。

●聖観世音菩薩像●


 薬師三尊にしても、聖観世音菩薩にしても、現代の我々は金メッキがはげ落ちて”枯れた銅の味わいが漂う”黒光りした状態で見るしかないのだが、往時の”金ピカ”であれば、どんな様子だったのかを想像しつつ、大寺院を造営するまでに皇后の病気平癒を願った天武天皇の愛と、その時代に生きた皆が恐れた病や死について思いを巡らせて薬師寺を後にした。
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