透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

擬態 その2

2007-09-04 | A あれこれ

 擬態 その2を書こうと思うが、考えがまとまっているわけではない。

「透明」とは存在を隠蔽する究極的な状態なわけだが、少しその概念を広義に捉えて、「周辺環境、自然と連続的に繋がる状態」としてもいいのかも知れない。

建築というリアルなモノに「透明」などという状態はあり得ないわけで、緑化による周辺の環境への同化という隠蔽的な擬態、あるいは自然への連続性が現実的な「透明」ということだろう。

この国では人々は自然と親和的な関係を保って暮らしてきた。その住まい、民家は自然素材だけで出来ていた。構造は木、基礎は石、屋根は草、壁は土、床は木または草(タタミ)。建具は木と和紙で出来ている。それで全てだ。


隠蔽的な建築の民家 透明な存在 高知県梼原町にて

自然素材だけで出来ている民家は自然と一体的な存在、連続的な存在だ。つまり透明な存在と見なしていい(写真参照)。

きのこは生育環境がきちんと整ったところでないと育たないという。民家もきのこのような存在だ。地元で採れる自然材料のみを使い、地元の人たちだけで造る。自然に完全に同化した存在、自然と連続的に繋がる透明な存在。

民家は自然の一部だ。私が民家に惹かれ続けてきたのは自然に全く違和感なく溶け込んだその姿、日本人の自然観が反映されたその姿の美しさなのだ、と思う。

繰り返し取り上げている藤森さんの建築も民家と同様に自然と連続的に繋がる「透明な建築」だと、訳のわからないこと(でもないと思うが・・・)を書いて今回は終わりにする。 

注:所謂「透明な建築」とは要するに壁面が透明、つまりガラスでできた建築のことだと、ちょっと乱暴だが、言い切ってしまう。しかしその存在は決して透明ではない。むしろよく目立つ。 今回のように周辺環境に溶け込むという意味で使う透明、透明な建築とは異なる。


擬態  その1(改稿)

2007-09-04 | A あれこれ

透明」ということについて考えていて、「擬態」ということが浮かんだ。昆虫など、動物が身を守るための「擬態」。

ネットで調べて擬態は隠蔽的擬態標識的擬態に分けることができるということを知った。

隠蔽的擬態とは要するに身を「隠蔽」してしまうというもので、植物の枝や葉など、周囲にあるものに化けることをいうそうだ。一方、標識的擬態とは捕食者に対しての警告色を含む他の昆虫など、注意をひくもの、つまり「標識」に化ける場合をいうそうだ(ハチに擬態するハエが紹介されていた)。

ところで人も擬態する。人の場合の隠蔽的擬態とは例えば兵士が迷彩服を着て風景に姿を紛れさせることが挙げられよう。また標識的擬態の実例として、警備会社の社員が警察官とよく似た制服を着用していることを挙げることができるだろう。

建築にこれらのことを当て嵌めて考えることもできそうだ、と気がついた。周辺環境に溶け込んであまり目立たない建築を「隠蔽的建築」と読んでもいいかもしれない。先日も書いた伊東豊雄さんの「ぐりんぐりん」を「隠蔽的な建築」の具体例として挙げてもいいように思う。屋上を緑化したり丘のような形態を採るなどして周囲の公園に同化させようという意図が明確だから。

一方「標識的建築」というのもある。とにかく周辺環境となんの脈絡もなく、よく目立つ建築がそうだ。

今日の朝刊の文化欄で哲学者の鷲田清一さんが「明後日(あさって)朝顔プロジェクト21」を紹介していた。このプロジェクトは金沢21世紀美術館のガラスの壁面(写真)を朝顔で覆ってしまうという、アーティストの日比野克彦さんの試みだそうだ。

金沢21世紀美術館を「標識的建築」の実例として挙げても異論はないだろう。「透明な建築」でもその存在が際立つことがあるのだ、と先日のコメントで気が付いたが、この「金沢」はその代表例と言える、そう思う。

「金沢」のガラス面を朝顔でガラス面を覆う、という先のプロジェクトは「標識的建築」の隠蔽化作戦、と捉えることができるのではないか・・・、そんなことを考えた。周囲の緑に溶け込ませようという試み。

「透明」は存在を隠す究極的な状態だろう、しかし建築でそれは無理。緑で建築を覆う建築の自然への擬態は建築の現実的な「透明化」なのかも知れない・・・。



このガラス面が朝顔で覆われた姿、見たかった・・・。