透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

拾ヶ堰

2014-02-24 | A あれこれ

 しばらく前のこと、池田町のカフェ 風のいろ(→こちら)でオーナーさんと拾ヶ堰について話したことがありました。どのような流れで話が拾ヶ堰に及んだのか覚えていませんが。拾ヶ堰については詳しくありません。最近入手した「親子で学ぶ 安曇野の拾ヶ堰 ガイドブック」編集・発行/長野県拾ヶ堰土地改良区、拾ヶ堰応援隊 という冊子を参考に書きます。備忘というか、勉強のためにノートに書いてもいいのですが、記事にしておくことにします。



*****

この堰(せぎ)ということば、普段あまり耳にしないですね。流れを「せきとめる」を漢字表記すると「堰き止める」となりますが、この堰です。ただし読みはせきではなくせぎ。堰は人工的に造った農業用水路のことです。

安曇野は「水の豊かな」田園地帯というイメージがありますが、実はこの広い扇状地(いくつもの扇状地から成る複合扇状地)は砂礫から成り、河川の水は扇頂部で地下に浸透してしまいます。で、扇端部で湧き出ます。この湧水を利用してワサビを栽培しているのです。扇央部に水田を開くためにいくつもの堰を造ったのですが、有名な堰が拾ヶ堰というわけです。

扇状地の地形は文字通り扇状、扇子の形をしていますが、その要(頂部)から中骨の方向に造った堰を縦堰といいます。これは土地の勾配なりに造る堰ですが、拾ヶ堰は中骨と直交する方向、つまり等高線に沿って開いた堰で横堰といいます。

拾ヶ堰は奈良井川の頭首工(取水口)から烏川の放流口まで延長が約15kmで高低差はたった5m。この堰が開削されたのが江戸時代の後期、1816年のことで、鍬(くわ)、じょれん、つるはし、もっこを使った工事をたった3ヶ月で終わらせてしまったというのですから驚きです。人海戦術で多くの農民が工事に携わったとはいえ、工事を指揮する優れた人材がいたからこそ成し遂げることができたと言えるでしょう。

工事に先だって行われた測量に用いられた道具はごく簡単なものですが(何年か前、実際に使われた測量器と同じものを見る機会がありました)、15kmを9人で測量し、18日間で終わらせたというのですから、これも驚きです。

工事に要した費用が816両で、松本藩が356両下付、400両貸与、残りの60両は庄屋で酒造業も営んでいた白沢民右衛門という人が負担したそうです。篤志家っていつの世にもいるんですね。

技術的なびっくりは、途中で梓川を横断させて拾ヶ堰の水を流すという技。現在はサイフォン(コンクリート製の管を通水する方法)に依っていますが、江戸の昔は牛枠を組む方法が採られています。梓川の水は牛枠を越流し、奈良井川から引いた拾ヶ堰の水は横断するというもの。

昔の人たちの知恵、技ってスゴイ。