透明タペストリー

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「終りし道の標べに」を読む

2024-04-27 | A 読書日記


 安部公房の処女作『終りし道の標べに』(新潮文庫1975年)をようやく読み終えた。読み終えたとは言え、難解で内容を理解したとは言い難い。

奥付を見ると、1975年8月25日に発行されたことが分かる。ぼくがこの作品を読んだのはこの年の9月だった。文庫が書店に並んだ直後に買い求めて読んでいる。ちなみに定価180円。およそ49年ぶりの再読。本は好い。手元に有りさえすれば、いつでも読み直すことができるのだから。

ここで安部公房の『けものたちは故郷をめざす』を読み終えて書いたブログの記事(2024.04.10)から次の一文を引用する。

**「喪失」あるいは本人の意思による「消去」は安部公房の作品を読み解くキーワードだ。このことは次のように例示できる。『夢の逃亡』は名前の喪失、『他人の顔』は顔の喪失、『砂の女』『箱男』は存在・帰属の消去。異論もあろう。言うまでもなく、これは私見。** 

この様に書いたが、この指摘は『終りし道の標べに』にも当て嵌まる。では、この作品で主人公が喪失したもの、あるいは自ら捨てたものは何か・・・。それは故郷だ。自己の存在を根拠づける故郷。

**人間は生まれ故郷を去ることは出来る。しかし無関係になることはできない。存在の故郷についても同じことだ。だからこそ私は、逃げ水のように、無限に去りつづけようとしたのである。**(15頁)

名前、顔、帰属社会、そして故郷。属性を次々捨ててしまった人間の存在を根拠づけるのもは何か、人間は何を以って存在していると言うことができるのか・・・。人間の存在の条件とは? 安部公房はこの哲学的で根源的な問いについて思索し続けた作家だった。

戦中から敗戦直後にかけての満州。私は徴兵を逃れて、故郷日本を離れ、満州を歩き続ける。『終りし道の標べに』に描かれたストーリーそのものはシンプルだが、そこに書かれている内容は難しい・・・。

**ここはもはや何処でもない。私をとらえているのは、私自身なのだ。ここは、私自身という地獄の檻なのだ。いまこそ私は、完璧に自己を占有しおわった。(中略)いまこそ私は、私の王。私はあらゆる故郷、あらゆる神々の地の、対極にたどり着いたのだ。**(167頁、最終頁)

『終りし道の標べに』新潮文庫は現在絶版。この作品を難しいと思っている人が少なからずいて、あまり売れなかったのかな。**著者の作家としての出発をなす記念碑的な長編小説。**と、本のカバー裏面の紹介文にある。ならば、復刊してほしい。文学史上重要な作品を出版し続ける責務が出版社にはある、とぼくは思う。

『終りし道の標べに』を読み終えた時、スタンリー・キューブリックが映画化した『2001年  宇宙の旅』のラストシーン、宇宙空間に浮かぶスターチャイルドが浮かんだ。このことについて、うまく文章化できないけれど、ぼく自身は納得している。うん、このイメージ、分かる、と。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫22冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

今年中に読み終える、という計画でスタートした安部公房作品再読。4月26日現在7冊読了。残りは15冊。今年3月に出た『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫)を加えたとして16冊。5月から12月まで、8カ月。2冊/月で読了できる。 


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月


さて、次はどの作品を読もう。悩まず、このリストの順序に読んでいこうかな。