透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

駒止稲荷神社の狛犬(追記)

2024-04-26 | C 狛犬


 墨田区にある旧安田庭園内に祀られている駒止稲荷神社。この神社のことは知らなかった。刀剣博物館が閉館していたので、予定を変更してこの庭園を散策していて、この社殿とその前に鎮座している狛犬に気がついた。

この神社の近くに「駒止石」の説明板が設置されていた。その説明を要約すれば、三代将軍家光の時代、寛永8年(1631年)の秋に台風に見舞われ、隅田川が大洪水になった。家光は本所側(隅田川の対岸側、本所川と誤記していましたので訂正しました。説明板を確認願います。)の甚大な被害を憂慮、被害状況を調べさせようとした。濁流が激しく、誰もが尻込みする中、旗本の阿部豊後守忠秋は馬を繰って川を渡り、被害状況を調べて回った。その際、馬を止めて休憩したことろが駒止石。

当時の地元の住民が忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀ったという。

追記(2024.04.26): 歴史には疎い。だが、阿部忠秋という名前、目にしたことがあるような気がするなぁ、と思って調べてみた。ウキペディアに載っていた逸話に明暦の大火に関するものがあった。明暦の大火の出火元は本妙寺とされているが、実は寺の隣りにあった忠秋の屋敷だった、というもの。

火の見櫓の歴史は明暦の大火のあった1657年の翌年に始まった。定火消が組織されその屋敷に火の見櫓が建てられたのだ。明暦の大火に関することについて調べていて(調べてという程でもないが)、この説を目にしていたのだろう。なお、この旧安田公園から程近い両国橋も明暦の大火後に、避難路確保のために架けられた(*1)。

ウキペディアによると、忠秋の没年は1675年(延宝3年)。この駒止稲荷は忠秋没後に祀られたものと推察されよう。記事を書く際、あれこれ関連情報を調べれば、いろいろ分かっておもしろいのだろうが、あまりしていない。時間も無いし(とは言い訳)、反省。

 
社殿前の狛犬を見る。小ぶりだがなかなか迫力がある。社殿に向かって左側(写真も左側)、吽形の狛犬の顔の表情が厳しい。この狛犬の頭部には角か? 上部が欠損していて判然としないが、一般的には右の獅子は宝珠、左の狛犬は角だから。では獅子の頭部に宝珠が見えないけれと、そこの様子は? 確認しなかった。説明のための写真は無造作に撮ってはならぬ、これ教訓。説明したいことを的確に捉えるようなアングルを探して撮らなくては、と反省。

 
社殿を背に狛犬を見る(位置関係に注意)。後ろ姿は撮らなかった。


阿形の獅子の台座。刻字されていた奉納年は欠損していて確認できない状態。「昭和三・・・・日」 昭和の狛犬だということは分かる。

奉納年について、「好奇心いっぱい こころ旅」というブログには**昭和33年6月22日に安田学園が奉納した狛犬です。*+*と記されている。安田学園のHPを検索してみたが、この狛犬に関する記事は見つからなかった。


*1 架橋については防災目的というより開発目的だったとする指摘もある。**幕府は、この大火を契機に隅田川東岸の本所・深川の低湿地の開発に本格的に動き出す。隅田川の両岸地域の連絡を確保するために万治二年(一六五九)に両国橋を架橋する。**(『都市計画家  徳川家康』谷口 榮(MdN新書2021年)85頁)ものごとは見方・捉え方の相違で、結論も変わるということだ。