透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

小野宿の本棟造りの民家 旧小野家住宅

2021-10-10 | A あれこれ

■ 旧小野家住宅(小野宿問屋 長野県宝 写真③):普段は公開されていないが、5月から10月(8月を除く)の第2日曜日に公開されることを知り、今日(10日)午前中に見学した(*1)。

 小野宿:慶長六年(1601年)に徳川家康の命により、大久保長安によって整備された初期中山道(初期は中仙道、その後中山道と表記するようになったと馬籠宿の説明板だったかな、記憶が曖昧だが、読んだような気がするが、中山道と表記する)に開かれた宿場。中山道は元和二年(1616年)にルートが変わり、小野宿は伊那街道の宿場となった。

小野宿には本棟造りの民家が今も偉容を見せている。安政六年(1859年)の大火で焼失、その後再建されたが、3軒(①②③)を請け負った大工の出身地がそれぞれ違うため、正面の意匠も違う。






旧小野家住宅は西向きのため、午前中は逆光で外観写真が上手く撮れない。

 外観③:本棟造りの民家で妻面を街道(国道153号)に向けている。梁間(妻面の幅)10間半で、向かって左側が5間、右側が5間半の切妻の為、妻梁と母屋を受ける登り梁(建て登せ*2)の取り合いが左右で違う(③では分かりにくいが)。二重破風の頂部、棟端の飾りは大きな鳥が翼を広げて威嚇しているような姿で、「雀おどり」というかわいらしい名前は全くそぐわない。この飾りのことを「烏おどし」としている資料もあるが、私もそう呼びたい(過去ログ)。破風下には懸魚(げぎょ)が付けられている。①と②の民家の外観と比べると、束と貫(貫としてよいかどうか)、縦横の部材と白壁の構成が際立っている。出格子が端正で美しい。

 内部:1階平面は梁間方向を4分割、桁行方向を3分割して12の部屋で構成している。土間部分は少し異なっているが、ざっくり捉える。④


リーフレットに載っている平面図で間数を確認した。


「土間」と「うまや」(板張りしたうまや跡)


土間から「かって」を見る。かってはもともと土間だったが、その後床が張られ、かまども床上に移設されている。


「おえ」 吊り下げてあるちょうちん(照明器具)の存在感が強く、空間の雰囲気に影響しているのは残念。スポット照明が好ましいと私は思う。


「おえ」の吹き抜けを見上げる。棟梁を支える小屋束と何段もの貫。こけらの野地板。煙抜きの越屋根から自然光が入る。本棟造りで越屋根は珍しいのではないかと思って調べると塩尻の堀内家住宅にもあった。


「おへや」の箱階段と階段上の開口を塞ぐ水平の引き戸(漫然と観ていたのでは気がつかないと思う)


「ひろま」から「上段の間」を見る。一段高くなっているのは**本陣の無かった小野宿で本陣的な役割を務めたことによるもの**という説明文が配布資料にある。 


「上段の間」本格的な床の間 漆塗りの長押 床柱の下部の筍面


2階の大部屋 旅人が泊まる部屋、寺子屋としても使われたとのこと。


 
「火要慎」そう、火の用心 側面に「といや」 問屋(といや)の看板


小野宿には出桁造りの民家も。なぜ異なる型式の民家が同じ宿場にあるのだろうか?


旧小野家住宅を見学した時、保存会員の方々が庭の草むしりや「かって」の雑巾がけなどの作業をしておられた。辰野町は文化財の保存に熱心に取り組んでおられると思う。すばらしい。


*1 問合せ先:辰野町教育委員会 0266-41-1681
*2 『滅びゆく民家』川島宙次(主婦と生活社1976年)292頁に出ている名称。

本稿の参考資料:小野宿の本棟造りの民家(旧小澤家住宅、旧小野家住宅)を見学した際に受け取った複数のリーフレット



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