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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

風の盆

2007-09-08 | B 読書日記 



『風の盆恋歌』高橋治/新潮文庫を探していて、村上春樹していたとき(って、変な表現)に見つからなかった『ノルウェイの森』が見つかりました。書棚が既に満杯で全ての背表紙を見ることができる状態ではないので、手前の本に隠れた奥の本を探すのは困難なのです。書棚を増設するスペースと資金の余裕も無く・・・。

この『ノルウェイの森』のカバーデザインは赤と緑のクリスマスカラー(確か著者自らデザインした)で知られていますが、手元にある文庫のカバーデザインは違います。最初からクリスマスカラーではなかったんですね。

なんだか通俗的な小説だな、というのが当時の感想だったように思います。一通り村上春樹の長編小説を読み終えたいま、この小説を再読したら印象は違うでしょうが。

 東京の友人が、富山県八尾の「風の盆」を見てきたとブログに書いていました。小説『風の盆恋歌』によって「風の盆」はすっかり有名になって、9月のはじめには全国から見物客が押し寄せるんですね。先日テレビでちらっとその様子を見ました。

小説の解説を歌手の加藤登紀子さんが書いています。**胡弓の甘く悲しい音色、ゆったりとした低い音でリズムを刻む三味の苦みばしった音、そして踊る人たちの軽くてしなやかな、洗練された身のこなし、そしてとりわけ美しい指先。** 

男と女の不倫の物語がこの「風の盆」の街を舞台に展開します。

**「風の盆」の静かな幽玄の世界をもし彼が見たら、何と思うだろう。静かさに陶酔するというこの境地、これはやっぱり、日本人の独特の美意識なのだろうか。八尾に残された神々しい程のこの幽玄の世界、いつまでも古めかしいままに、残ってほしいと思う。** 

おときさんは解説文をこう結んでいます。小説の解説というよりも「風の盆」の観察記です。

友人のブログによると、どうやら観客のマナーがあまりよくなかったらしいのです。想像はつきます。節度を弁えないカメラマン、声高に会話する観光客・・・。

でもアップされた踊り手の後ろ姿の写真を見ると、行って見たいという思いに駆られます。

 


「日本の景観」を読んで

2007-09-08 | B 読書日記 



『日本の景観 ふるさとの原型』樋口忠彦 

単行本(左)で読んだのが1981年、今回文庫本(ちくま文芸文庫)で26年ぶりに再読した。

**広がりのあるところでは背後によるところがないと落ち着かないものである。背後によるところがある場所は、人間に心理的な安心感・安定感を与えてくれる。** と著者は書き、続けて**日本の古くからある集落を見ても、それが盆地や谷や平野であろうとも、ほとんど山や丘陵を背後に負う山の辺に立地している。**と指摘している。

喫茶店のような空間でも地理的なスケールの空間でも心理的な条件は同じ。喫茶店で中央部分の席ではなくて壁際の席を探すのと同様に棲息地も古くは山の辺を求めた、というわけだ。 松本には山辺(やまべ)という地名があるが、地形的な条件にその由来があるのだろう。

著者は別の章で**日本の棲息地の景観、生きられる景観は、凹性、休息性、「隠れ場所」性の支配的な母性的雰囲気をもった景観と位置付けられるわけである。**と結論付けている。

住まいの原初は洞穴、さらに子宮に求めることができるといわれるが、著者も棲息地について同義の指摘をしていると理解できる。

**日本人は自然地形の特性を生活に巧みに組み込むことにより、自然地形と人間生活とがしっくりと調和した景観を生み出してきた、それは日本人の精神的創造物といってよい。**

しかしそれは既に過去のこと。凹性を備えた山の辺の棲息地を離れ平野部に進出して、都市を造った。都市にも山の辺のアナロジーとしての凹型の広場などが安息の場所として必要、ということなのだろう。

そのような観点で例えば「表参道ヒルズ」と「代官山ヒルサイドテラス」とを比較してみると両者の違い、都市環境への貢献度の違いが浮き彫りになる。

うーむ・・・、都市には「子宮」が必要なのだ。


高山日帰りの記

2007-09-07 | D 建築を観察する 建築を学ぶ 建築を考える



 昨日は台風9号の影響で断続的に雨が降り続いたが、高山まで車で出かけた。

市内でM邸を見学することができた(外観だけではあったが)。この「方形の家」は建築家吉島忠男さんの代表作。建築関係の雑誌で紹介され、図面は木構造のテキストに掲載されている。木造住宅の傑作だと思う。 

銅板一文字葺きの方形の屋根の軒先に樋は付けられていない。落雪でとれてしまうからだろう。玄関部分のみ樋をつけている例を見かけることがあるが、この住宅では下左の写真のように工夫されている。なるほど、こうすれば雨水を玄関の両側に落とすことが出来る。

また、車庫の部分の幕板を貫通する「ほぞ」は下右の写真のように金属板でカバーしてあり、雨水から保護している。但し小口の方が腐朽しやすいことを考えるとなぜ小口を覆わなかったのかという疑問が残る。高山では母屋や垂木の小口を白く塗って保護することが現在でもごく普通に行われていることを考えると尚更だ。

 

幸運なことに「吉島家住宅」の奥にあるアトリエにお邪魔してご本人にお目にかかる機会を得た。

その際、車庫の黒地のシャッターに描かれたマークは何を表現したものか伺った。クライアントの苗字の一文字をグラフィカルに表現したものだと教えていただいた。先の疑問、なぜほぞの小口をガードしなかったのかは質問しなかった。

吉島さんは、大変気さくな方で、初対面であるのにも関らず丹下健三の事務所で仕事をしていた頃のエピソードなどをいろいろお話いただいた。



「スコピエ計画」についても伺った。それにしても当時はすごい模型をつくったものだ。

短い時間ではあったが、大変有意義であった。


「冬の水練」再読

2007-09-05 | B 読書日記 



 南木佳士の作品では映画化された『阿弥陀堂だより』と芥川賞受賞作の『ダイヤモンドダスト』がよく知られていると思う。

この作家の作品は文庫になる度に買い求めて読んできた。先日書店の文春文庫のコーナーで『冬の水練』を手にした。この作家は身辺に題材を求めた小説やエッセイを繰り返し書いているので、既読作品なのかどうか、よく分からないことがある。この文庫はなんとなく未読のような気がして買い求めたが、自室の書棚に並んでいた。

『阿弥陀堂だより』はパニック障害になった女医が夫とともに信州の田舎に移り住んで、自然の中でゆったりとした日々を過ごすという物語だが、南木さん自身、38歳でパニック障害を発病しやがてうつ病に移行して今日に至っている。

「心身の平穏に勝る人生の目標はもうない」という作家のエッセイ集『冬の水練』を再読した。いくつかのエッセイが集められているが、それらを読み進むと、しだいにうつの症状が改善していく様子がうかがえる。

あるいは以前も書いたかもしれないが、この作家の作品は秋の夜読むのがいい。不安な気持ちの時に読むとこころが落ち着く。これは医者でもある作家が処方してくれる「抗不安剤」だ。

 


擬態 その3(まとめ)

2007-09-05 | C あれこれ考える

 昆虫などがする擬態には隠蔽的擬態と標識的擬態があることを知った。擬態という視点から建築(の姿)も捉えることができるのではないか、「透明」ということを考えていてそう思った。

隠蔽的建築と標識的建築、建築はこのふたつに大別出来そうだ。隠蔽的建築とは周辺の環境に擬態しよく馴染んで溶け込んでいる建築を指す。標識的建築とは建築家やクライアントの「ドーダ」な建築で周辺の環境から浮いた目立つ存在。

日本の民家は隠蔽的建築の代表例だ。地元で採れる自然素材だけで出来ているから、必然的に周辺の環境によく馴染み同化する。透明の概念を広げて「周辺環境、自然と連続的に繋がる状態」だと定義すれば民家はまさに「透明」な存在ではないか。

昨日アップした高知県梼原町の民家は、上記の定義による透明な存在のティピカルな例だ。


擬態 その2

2007-09-04 | C あれこれ考える

 擬態 その2を書こうと思うが、考えがまとまっているわけではない。

「透明」とは存在を隠蔽する究極的な状態なわけだが、少しその概念を広義に捉えて、「周辺環境、自然と連続的に繋がる状態」としてもいいのかも知れない。

建築というリアルなモノに「透明」などという状態はあり得ないわけで、緑化による周辺の環境への同化という隠蔽的な擬態、あるいは自然への連続性が現実的な「透明」ということだろう。

この国では人々は自然と親和的な関係を保って暮らしてきた。その住まい、民家は自然素材だけで出来ていた。構造は木、基礎は石、屋根は草、壁は土、床は木または草(タタミ)。建具は木と和紙で出来ている。それで全てだ。


隠蔽的な建築の民家 透明な存在 高知県梼原町にて

自然素材だけで出来ている民家は自然と一体的な存在、連続的な存在だ。つまり透明な存在と見なしていい(写真参照)。

きのこは生育環境がきちんと整ったところでないと育たないという。民家もきのこのような存在だ。地元で採れる自然材料のみを使い、地元の人たちだけで造る。自然に完全に同化した存在、自然と連続的に繋がる透明な存在。

民家は自然の一部だ。私が民家に惹かれ続けてきたのは自然に全く違和感なく溶け込んだその姿、日本人の自然観が反映されたその姿の美しさなのだ、と思う。

繰り返し取り上げている藤森さんの建築も民家と同様に自然と連続的に繋がる「透明な建築」だと、訳のわからないこと(でもないと思うが・・・)を書いて今回は終わりにする。 

注:所謂「透明な建築」とは要するに壁面が透明、つまりガラスでできた建築のことだと、ちょっと乱暴だが、言い切ってしまう。しかしその存在は決して透明ではない。むしろよく目立つ。 今回のように周辺環境に溶け込むという意味で使う透明、透明な建築とは異なる。


擬態  その1(改稿)

2007-09-04 | C あれこれ学ぶ

透明」ということについて考えていて、「擬態」ということが浮かんだ。昆虫など、動物が身を守るための「擬態」。

ネットで調べて擬態は隠蔽的擬態標識的擬態に分けることができるということを知った。

隠蔽的擬態とは要するに身を「隠蔽」してしまうというもので、植物の枝や葉など、周囲にあるものに化けることをいうそうだ。一方、標識的擬態とは捕食者に対しての警告色を含む他の昆虫など、注意をひくもの、つまり「標識」に化ける場合をいうそうだ(ハチに擬態するハエが紹介されていた)。

ところで人も擬態する。人の場合の隠蔽的擬態とは例えば兵士が迷彩服を着て風景に姿を紛れさせることが挙げられよう。また標識的擬態の実例として、警備会社の社員が警察官とよく似た制服を着用していることを挙げることができるだろう。

建築にこれらのことを当て嵌めて考えることもできそうだ、と気がついた。周辺環境に溶け込んであまり目立たない建築を「隠蔽的建築」と読んでもいいかもしれない。先日も書いた伊東豊雄さんの「ぐりんぐりん」を「隠蔽的な建築」の具体例として挙げてもいいように思う。屋上を緑化したり丘のような形態を採るなどして周囲の公園に同化させようという意図が明確だから。

一方「標識的建築」というのもある。とにかく周辺環境となんの脈絡もなく、よく目立つ建築がそうだ。

今日の朝刊の文化欄で哲学者の鷲田清一さんが「明後日(あさって)朝顔プロジェクト21」を紹介していた。このプロジェクトは金沢21世紀美術館のガラスの壁面(写真)を朝顔で覆ってしまうという、アーティストの日比野克彦さんの試みだそうだ。

金沢21世紀美術館を「標識的建築」の実例として挙げても異論はないだろう。「透明な建築」でもその存在が際立つことがあるのだ、と先日のコメントで気が付いたが、この「金沢」はその代表例と言える、そう思う。

「金沢」のガラス面を朝顔でガラス面を覆う、という先のプロジェクトは「標識的建築」の隠蔽化作戦、と捉えることができるのではないか・・・、そんなことを考えた。周囲の緑に溶け込ませようという試み。

「透明」は存在を隠す究極的な状態だろう、しかし建築でそれは無理。緑で建築を覆う建築の自然への擬態は建築の現実的な「透明化」なのかも知れない・・・。



このガラス面が朝顔で覆われた姿、見たかった・・・。



8月の本たち

2007-09-02 | B ブックレビュー



 8月にこのブログに登場した本たちのレビュー。1枚の写真をトリミングして2枚に分けて並べた。

9月。読書の秋、今月はどんな本と出合うのだろう・・・。

とりあえず、先日復刊された『忘却の河』福永武彦を再読しよう。この本の帯を先日アップしたが、「人生で二度読む本」とある。昔と読後感はたぶん違うだろう・・・。


「逃亡くそたわけ」

2007-09-02 | B 読書日記 



■ 
芥川賞受賞作『沖で待つ』で恋人でも友人でもない男女の関係を描いた絲山秋子。彼女の作品、今回は講談社文庫に収録された『逃亡くそたわけ』。

この作品に登場する21歳のあたしと24歳の男「なごやん」も恋人でも友人でもない関係。福岡の精神病院を抜け出したふたりの九州縦断逃亡記。車で福岡から九州最南端の指宿まで走り回るふたり。

「なんか、きょうだいみたいやね」
 あたしは言った。
「言葉の違うきょうだいかよ」
「でも、してもよかよ」
「いかんがあ」
「なして?」
「恋人でない人としたらいかんて。俺じゃなくても、誰とでもそうだからね」
「うん」

この作家の描く男女は「しない」。

どちらかというと女性がイニシャチブをとるふたりの関係は『沖で待つ』と同じ。この作家の描く独特な男女の関係、いいなと思う。この作家はこれからも注目だ。

さて、寄道はこの辺で切り上げて『日本の景観』に戻ろう。


白から赤への足跡

2007-09-02 | B 読書日記 



 **新しい時代にふさわしい建築のあり方を模索していた。その具体的な解答がこうした「白い箱型」だった。軽やかで、存在感が希薄な、無装飾の、輪郭のみが目立つ姿。(中略)「白い直方体」と「透明な直方体」が重なり合った姿だということもできる。**

一体誰の作品を取り上げているのだろう、と思う。これは藤森照信さんが言うところの「白派」の建築の特徴ではないか。

これは初期のコルビュジエの作品解説。「赤派」の始祖のコルビュジエも初期は「白」だったのだ。それが晩年「赤」の傑作、ロンシャン教会堂を設計することになる。

**ロンシャン教会堂は、空間として、一九三〇年代以来の方向転換を経て初めて到達できた最終地点だといえる。内部のつくり方が、その性格が、開放的に囲む「白い箱型」とは正反対だ。空間に関わる発想自体が、サヴォア邸から最も遠い。**

『ル・コルビュジエ 20世紀の建築家、創造の軌跡』越後島研一/中公新書、今朝読了。

この本で著者は上記のようなコルビュジエの作品の変化を初期の傑作サヴォア邸と晩年のロンシャン教会堂を軸に論じている。

最終章(第4章)は「日本への影響」と題し、日本を代表する建築家達に与えた影響についての論述。このテーマが私としては最も興味深いところだが、残念ながらそれ程ページを割いてはいない。

現在森美術館で開催中の「ル・コルビュジエ展」何とか都合をつけて観に行かなくては・・・。


透明という幻想

2007-09-01 | D 建築を観察する 建築を学ぶ 建築を考える

 存在の曖昧な建築、インクの染みのように境界の曖昧な建築・・・。

諏訪湖のほとりで少年時代を過ごした伊東豊雄が目指した曖昧な建築は諏訪湖にかかる靄を具現化しようとしたものだった。それが幻想であることを「せんだい」で溶接工が鉄と格闘するところを目の当たりにして彼は知る。

「透明な箱」を造ってもその存在は際立つ、海草のような柱なんてあり得ない・・・。 彼は「まつもと」でリアルなモノとしての建築に向けて舵をきった。透明なガラスの壁をあわあわな壁に設計変更したのだ。そして福岡の「ぐりんぐりん」を造る。

存在が曖昧な建築、それは建築単体では実現できない。周辺環境との相対的な関係に拠るものなのだ。「周辺環境との連続性」、透明な建築をそのような観点から捉えることができる。それを可能にするのが建築と周辺環境との間を繋ぐ縁(えん)空間としての緑(みどり)・・・。blue treeさんのコメント、なるほど慧眼!

緑は建築の百難を隠す、と以前書いたが、緑は建築の存在そのものを隠して「透明にする」装置ということなのかも知れない・・・。今夜はこのことについて考えてみよう。