■ コルビュジエについて書いた本、コルビュジエが書いた本はたくさん出版されている。 展覧会に合わせた企画だろうか、東京駅前、オアゾ内の丸善ではコルビュジエ関連の本のコーナーが設けられていた。
建築関係の本は発行部数も少なく図版を多く載せることなどからだろうが、値段が高い。何冊か欲しい本があったが結局ル・コルビュジエの住宅をめぐる公開講座の記録を収めたこの本を買い求めた。
中村好文、鈴木了ニ、鈴木恂、八束はじめ、伊東豊雄、富永譲、以上6人の建築家がそれぞれ異なる観点からコルビュジエの作品を論じていて興味深い。
昨日帰りの電車の中で読もうとしたが、夕食で飲んだワインが効いてついうとうとしてしまって、結局ほとんど読むことができなかった。
カバンに入れて持ち歩いて空き時間に読もう。
■ アートな週末東京 4
昨日(16日)、今春開館した横須賀美術館まで出かけた。品川から京浜急行で約1時間、馬堀海岸駅からバスで約10分。
後方を緑の山に囲まれ、前方には海が広がるという絶好のロケーション。なだらかな芝の斜面の向こうにガラスの外皮に包まれた透明感溢れる美術館が見える。塩害から守るために考えられたダブルスキン。ガラスの外皮と鉄板の内皮との間に細い部材で構成されたトラス梁が透けて見えている。今までに見たことのない軽やかなシーン。
細長いコンクリートブロックが敷きつめられたアプローチ。玄関を入ると吹き抜けの常設展示ギャラリーにブリッジが掛けられている。ブリッジを渡って正面のエントランスホールでチケットを購入。
展示スペースがそれぞれ独立してはおらず空間的に繋がっていて、変化に富んだシーンが続く。壁から天井へ連続している鉄板の白い内皮。天井高は約12メートルだと図面を見て知る。
鉄板の壁にあけられた丸い穴からレストランが、海が見える。天井の穴からは柔らかな自然光が注ぐ。館内には美しいシークエンスが展開している。作品の展示スペースとしてのみ在るのではない心地良い空間。入れ子のように重なる空間構成が非日常性を演出している。
まつもと市民芸術館の壁に穿たれた「あわあわな開口」とは違って美術館の外のシーンを取り込む丸窓、それは海を行き交う船の窓を思わせる。
屋上広場に出てみると屋根の外皮までがガラスで造られていることが分かる。乳白色のシートを挟んだ合わせガラスと網入りガラスから成るペアガラスのジョイントはシール納めだが、シール材の寿命は短いからメンテナンスが大変だろうな、とも思う。
この美術館は夕景も綺麗だろう。内部の光があちこちから外部にもれて、建築を緑の丘に浮かび上がらせるに違いない。
■ 館内のレストラン「アクアマーレ」のテラス席にはキャンドルが用意されていた。夕方になると幻想的なシーンが浮かび上がるだろう。
山本理顕さんの作品を実際に見るのは今回が初めてだが、なかなかオシャレな空間だった。
気になったことも書いておく。
内藤廣さんは現代建築には時間という視点が欠如していると批判した。使用する材料や構法に経年変化に対する配慮がなされておらず、竣工時が最も美しく次第に汚れ、劣化していく建築。
この美術館もそのような建築になる可能性があるのではないか。海に面する敷地の環境は厳しい。台風の直撃を受けることもあるだろう。塩害対策としてガラスで覆ったということだが、そのクリーニングも大変ではないだろうか。先に書いたがシール材の劣化も気になるところ。屋外に使われているスチール材の塗装も頻繁に必要になるだろう。
メンテナンスフリーな建築など在り得ない。この美術館を管理する横須賀市には相当の覚悟が必要だ。
■ 屋上から眼前に広がる海を見る。
■ ガラスのケースに収められた美術館、丸い「穴」
■ 繰り返しの美学な庇 総延長100メートル
■ 丸い「穴」の向こうに見える海
■ 丸い穴の向こうのレストラン
■ ダブルスキンを支えるトラスの向こうに海が見える
「展示室内の撮影はご遠慮ください」という案内表示がりました。それ以外の場所ではOK、と理解して撮りました。
■ アートな週末東京 3
新宿から地下鉄で六本木に移動。森美術館で開催中の「ル・コルビュジエ展」を観た。この建築家の知名度の高さ故か、土曜の夕方の会場は混んでいた。
展覧会が10のセクションで構成されていたことをパンフレットで知った。展示作品数が多く、じっくり鑑賞するにはかなり時間がかかる。
コルビュジエが午前中絵を描いて過ごしたというパリのアトリエ、代表作の一つユニテ・ダビタシオン(集合住宅)、コルビュジエが晩年を過ごした小さな休暇小屋が会場内に原寸大で再現されていて、それらの空間を体感できるようになっていた。
最後のセクションに再現されていた休暇小屋はわずか8畳の広さ、簡素なワンルーム。室内にはソファとしても使えるベッド、サイドテーブル、本棚とテーブル、トイレなど生活に必要な最低限のものが設えられている。正方形のピクチャーウインドーの向こうは地中海・・・。
多くの作品のなかには知っている作品もいくつかあったが、最後の作品だという「サン・ピエール教会」など初めて観るものも何点かあった。この教会はコルビュジエの没(1965年)後40年経った2006年にようやく完成したという。丸みを帯びた四角錘台のユニークな外観。このプロジェクトは全く知らなかった。
コルビュジエはイスなどの家具や終の棲家となった休暇小屋から壮大な都市計画まで様々なスケールの空間の創造に才能を発揮して20世紀の巨匠と評価されているが、色彩豊かに描かれた抽象的な絵画にも優れた作品をたくさん残した。タペストリーもあった!
私はコルビュジエのリトグラフが好きで、大学の研究室に在籍していた頃、作品集に納められた好きな作品を接写レンズを使ってきちんと接写してプリントを手元に置いていたが、その所在は分からなくなってしまった。
この展覧会でル・コルビュジエの作品についてよく知らないということを再認識した。近代建築の始祖の作品を勉強しなくては・・・。
でもその想いはいつまで続くことやら。
■ アートな週末東京 2
東京の街を一望する超高層ビル上階のレストランで友人と食事を済ませたあと、東京オペラシティの1階で行なわれたトークサロンに参加した。テーマは「建築と心理学をつなぐ」。
建築家の連健夫さんは設計の際、発注者にコラージュ(切り貼り絵)をしてもらい心の深層、無意識の中の想い、願いを読み取って設計に反映させる手法を10年間実践してきた方。
心理療法の現場では「箱庭療法」が知られているが、クライアントの心の深層を知る方法として「コラージュ」も同類だろう。明快な方法だと思う。
コラージュのなかの特徴的なもの(例えば芝の斜面に作られた滑り台や十字架など)を直喩的に建築に採用することもしておられる。
コラージュを前にして会話を交わしながら心の奥底を読み解く作業、そしてそこに在る願いを建築に反映し具現化する・・・。
興味深い話を伺った。
さくらんぼと青い鉢 1976
■ アートな週末東京 1
今回はまず浜口陽三の銅版画。新宿から大江戸線、半蔵門線と地下鉄を乗り継いで水天宮前駅3番出口の目の前、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ。
カラーメゾチントという技法で表現された浜口陽三の銅版画を観た。浜口は身近な果物をモチーフにした作品を創った。さくらんぼやぶどうなどの果物が闇に浮かんでいる。静寂の世界。グラフィックな表現は私の好み。
ちょうど「永遠の交響詩展」という企画展の期間中で他の作家の作品も展示されていたが、やはり浜口作品の奏でる詩情性豊かな独特の世界が圧倒的な存在感を示していた。
闇に浮かぶ胡桃 「くるみ 1978」は展示されていなかった。また機会を見つけて訪れたい。
六本木アートトライアングルを構成する美術館のうち森美術館にはまだ行ったことがない。この美術館で今月の24日までル・コルビュジエ展が開催されている。日本の建築家たちにも多大な影響を与えたこの建築家の作品展を観にいく機会がようやくできた、というか機会をつくった。やはりこの展覧会は是非観なくてはならない。
ヤマサコレクションに常設展示されている浜口陽三の作品も観てこよう。「闇」に浮かび上がるさくらんぼやぶどうなどの果物。例の胡桃が闇に浮かぶ作品は展示されているのだろうか。あの作品は闇から生まれてまた闇に消えていく一瞬の生を象徴しているともとれるが、普段心の奥底に沈殿していて一瞬表層に浮かんでくる遠くの記憶、例えば『忘却の河』の中年男(どこかに初老の男と書いてあったが、50代半ばで初老はないだろう)の過去の記憶の象徴のようにも思える。
横須賀美術館にも足を伸ばそう。山本理顕の建築を実際に見るのは初めて。この美術館から海はどう見えるだろう・・・。既に雑誌では何回か見たが、建築はやはり直接体験してみないと分からない。
芸術の秋、アートな週末を東京で。
■ 久しぶりの路上観察、繰り返しの美学。
所用で高山へ出かけた。 なかなか風格のある民家を高山市の郊外で見つけた。既に書いたが、高山地方の民家の外観の特徴は持出し梁や母屋、垂木などの小口を白く塗っていることだ。
2階の出し桁の下に持送りを付けている。また1階の庇を支えている腕木の下にも持送り(古川辺りでは「雲」とよぶと聞いている)を付けている。写真で分かるが、それらの小口が白く塗装されている。他の部分の黒との対比が美しい。
2階には京都などでよく見られる「むしこ窓」が付いている。高山の匠は昔から京都でも仕事をしていたから、この窓の意匠も彼らが伝えたものだろう。
2階の出し桁と持送りは3尺(約90cm)ピッチに等間隔に付けられている。久しぶりの「繰り返しの美学」。 均等でないものも見かけるが、やはりこの写真のように均等に割り付けられているものが美しい。
この意匠は確実に継承され、新しい木造住宅にも採用されている。さすが「木」の町だ。
■ 「私は昔ギリシャ神話を読んで、うろ覚えに忘却の河というのがあったのを覚えている。三途の河のようなものだろう、死者がそこを渡り、その水を飲み、生きていた頃の記憶をすべて忘れ去ると言われているものだ。しかし私にとって、忘却の河とはこの掘割のように流れないもの、澱んだもの、腐って行くもの、あらゆるがらくたを浮かべているものの方が、よりふさわしいような気がする。」
「私は(中略)忘却の願いを籠めて大事に保存して来た小さな石を投げ捨てた。それが私の人生の一つの区切りであることを望んで、それからの一日一日を生きたいと願った。しかし石は沈んでも記憶はやはり意識の閾の上を、浮くともなく沈むともなく漂っているのだ。」
心の奥底に沈んでいる消そうにも消せない遠い昔の記憶、三途の河を渡るときまで消すことができない記憶。男の子供を身籠ったのを恥じて海に身を投げて死んだ娘の記憶・・・。
暗くて孤独な世界・・・。過去の罪を捨て去ることは出来るのだろうか、魂の安寧を得ることは出来るのだろうか。男が最後に行き着いた場所とは・・・。
26年前に読んだこの小説の再読を終えた。7章からなるこの長編小説の最終章をなんとなく覚えていた。 この最終章を明け方読んだが、涙がこぼれてしかたがなかった。 涙の理由(わけ)は敢えて書かないでおく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/b3/c6eb2524e53d5e8947beea7e680d675d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/f1/22af56a59d842b9970b9b9ac4a83bf65.jpg)
■ ケータイを替えた。バッテリーがダメになったのを機に5年半使ったケータイを「らくらくフォン」に替えた。
500ページもある分厚い取扱説明書、本当にこれだけのページを割かないと説明文が書けないものだろうか・・・。「らくらくフォン」の取説は分かりやすくてらくらく理解できるような工夫をして欲しいものだ。
全国にある「サービスステーション」のリスト(左の写真)がついていたが、文字が読めない。0.5ミリ角の文字を普通に読むことができる人が一体どのくらいいるだろう。この大企業(会社名は伏せておく)の社員は誰もこの文字サイズに疑問を呈さなかったのだろうか・・・。このような読めないリストを配布し続けるこの会社、社内のチェック機能が健全に働いていないのではないだろうか。
なにもこの会社に限ったことではない。日本を代表するような大企業でもこのごろ初歩的なミスが目立つような気がする・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/cc/7cece7d73fbf230cd89a633f0b3943f5.jpg)
■『大好きな本』 ときどきチェックする川上弘美さんのファンサイトに新刊のこの本が紹介されていた。
朝日、読売両紙に掲載された書評をまとめた本。どんな本を取り上げているのか興味がある。早速書店で探してみよう。
今夜はこの辺で切り上げて『忘却の河』に集中することにする。
昨日は脚本家の山田太一氏が浜口陽三の作品について語っていた。浜口陽三はカラーメゾチント(銅版画)の新しい技法を開拓した作家として知られているとのことだが、私は名前を知るのみでどんな作品を創った人なのかは番組を観るまでは知らなかった。
番組で紹介された作品はどれも印象的だった。闇の宇宙に胡桃が浮かんでいて、上方からの僅かな光でその上半分が輝き下半分が闇に沈んでいる作品は特に印象的だった。残念ながら作品名を覚えていない。
人の「生」は闇から生まれ闇に消えていく・・・その一瞬の輝きを象徴するかのような作品、確か山田氏はそのような趣旨の発言をしていたように思う。
闇から生まれ闇に消えていく一瞬の生・・・、浜口氏の作品の特徴はどうやらこの闇にあるようだ。闇に浮かび上がるさくらんぼやぶどうなど、対象を限定して余分なものを一切表現しない。
浜口氏の作品を常設展示している美術館が日比谷線茅場町駅から徒歩10分のところにあることを知った。先の胡桃の作品を観ることが出来るかどうかは分からないが、是非訪ねてみたい。
アルコールな午後。
昆虫などの「擬態」って、不思議だ。
人間が擬態するんなら、擬態対象のモデルと似ていない場合には周りの人間から、そのことについてアドバイスしてもらうことも可能だ。「おいおい、そんなんじゃちっとも擬態できていないぞ、もっとこうしろああしろ」と。
ところが昆虫の場合、例えば「葉っぱにそっくり昆虫」って一体どうやって自分が葉っぱにそっくりだってことを確認できるんだろう・・・。いきなり葉っぱにそっくりになったわけではなくて長い長い長~い年月をかけてそうなったに違いないのだが、その過程で「誰」がそのことを確認して昆虫に伝えたんだろう・・・。「本物の葉っぱとは色が違う」とか「本物の葉っぱとは形がまだまだ違う」とか。
フィードバックを何回も何回も繰り返して次第に「葉っぱにそっくり昆虫」になったに違いないのだが、やはりその過程に「神」の存在を考えなければ説明できそうにない。
唐突だけれど脳科学者の茂木さんだってこんなことを書いている。**人はそもそも自らの脳細胞の活動を「モニター」してきたのだ。 <私>が意識の中で様々なクオリアを感じるというということは、すなわち、自分の脳内の神経活動を<私>が見渡し、観察するということに他ならないからである。<私>は、神経細胞の活動を自ら見渡す「小さな神の視点」として成立しているのである。**
(「脳内現象 <私>はいかに創られるか」茂木健一郎/NHKブックス)
脳内の神経細胞の活動全体を一瞬にして見渡す「神」の視点。そう、やっぱり昆虫の擬態だってこの脳内の出来事のように「神」が見ていて手直ししてきたんだ。きっとそうだ。
「神」などという概念の導入って「逃げ」のような気がしないでもない。謎にまともにぶつかっていないのではないかとも思うが、どうしようもない。
「透明」な建築について考えていて、「擬態」という観点が浮かんだけれど、この擬態そのものが実に不思議な現象なのだ。
なんとなく全て解き明かされた世界のような気がして僕たちは生きているけれど個々の事象について改めて問うてみると実に謎に満ちた世界だということが分かる。?だらけの世界・・・。
「地下鉄ってどうやってトンネルの中に電車を入れたんでしょうね」 こういう疑問で別に夜眠れなくなるってことはないけれど、自然界の?を考え出すと気になる。
でも夜眠れないのはいやだから、深く考えるのは好奇心に満ちた若い優秀な研究者に任せよう。アルコールな中年凡人はその成果だけ分かりやすく教えてもらえればいい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/7f/4f101824df71ac18dada658267ba9456.jpg)
■『日本の景観 ふるさとの原型』を読み終えて、新潮文庫で復刊された福永武彦の『忘却の河』を読み始めた。前にも書いたが、この本の帯には「人生で二度読む本」とある。この小説を写真左の文庫で読んだのが1981年の9月、あれからもう26年が過ぎた。
いつか再読したいと思っていた本、復刊がうれしい。どんな本でも読む度に感想は違うはず。今度はどんな感想を抱くのだろう・・・。復刊本には著者の息子、池澤夏樹のエッセイも収録された。
やはり少なからぬ読者がこの本の復刊を願っていたということなのだろう。今月は他に江藤淳の『文学と私・戦後と私』が復刊されている。帯には「不朽の名作が続々登場!」とある。柴田翔の『贈る言葉』もこのシリーズで復刊された。これからも楽しみにしたい。
昔の作家は作品を創ることに人生の全てを費やした。人生の全てを負うた作品こそ秋の読書に相応しい。
■「担担麺」
担担麺って天秤棒で担いで売り歩いたことに由来する名前だと知った。昨日の午後、テレビでグッチ裕三が四川で担担麺を食べ歩くという番組を放送していて、その中で名前の由来の説明があった。
へ~っ、知らなかった。そうか、担(たん)って担(かつ)ぐだ。
重慶だったかな、きちんと見ていなかったので確かではないが、とにかく坂の多い街で担いで売り歩いたのが始まりらしい。
グッチ裕三が天秤棒担いで売り歩いているおばちゃんから担担麺を買い求めて試食するシーンがあったが、焼きそばのようにスープがなくて食べにくそうだった。
ところで担という漢字ではなくて平坦の坦を用いて坦坦麺(坦々麺)と表記することがあるが、これは誤記とのこと。確かに坂の街で売り歩いたのが由来だというのに平坦の坦(たいらという意味)はないだろう。坦という漢字をあててしまっては、意味が分からなくなってしまう。ラーメン屋のメニューはどちらで書いてあるんだろう。今度注意して見よう。
漢字の表記はあまり変えないほうがいいのではないか、と思う。 でもいまさら白馬岳は代馬岳(代かき馬に由来)。白骨温泉は白船温泉(船は湯船の意、つまり白濁している風呂という意味、たぶん)、上高地は神降地、富士山は不ニ山(違うかな)などといっても始らないか。
名前の由来をめぐっては、以前何回も書いたから、この辺でオシマイ。