透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

久しぶりの建築トランプ

2009-07-24 | A あれこれ


「シャッフル!日本建築」選者:五十嵐太郎、イラスト:宮沢洋/南洋堂/1600円(税込)

 あと10数枚を残して中断していた。中断の理由は特にない。再開して最初に引いたのが
伊東豊雄(←過去ログ)さん。

トランプで伊東さんが手にしているのは「せんだいメディアテーク」の鋼管トラス柱。初期のイメージではこれはゆらゆら揺れる海草ということだった。着ているのは多摩美の図書館の構造体、鋼板をはさんだRCの壁。襟はどこだっけ、ドイツ?にできたパビリオン? 襟元には中野坂上の家、確か既に取り壊されてしまっている。帽子はスペインの地方都市の巨大巻貝建築か?(都市の名前も建築の名前も覚えていない)

先日書いた小布施の新しい図書館の設計者はプロポーザルで勝利を収めた古谷誠章さん。では伊東さんは一体どんな案を提示したんだろう・・・。それを確認する方法がないものだろうか・・・。確か図書館の事務室には古谷さんのプレゼン用のパネルが置いてあったと思う。他の提案者のパネルも残っているのではないか・・・。雑誌に紹介されることはないだろうか。しばらくアンテナを張っていようと思う。


 


路上観察 高山の民家

2009-07-24 | A あれこれ

 所用で飛騨高山へ。帰路、国道158号線から少し外れて高山市郊外の集落内を走行、民家を路上観察した。



これを車内から見かけた時、一瞬「懸魚か?」と思った(懸魚←過去ログ参照)。

既に書いたことだが、懸魚は棟木の小口を塞いで雨水による腐朽を防ぐという機能を本来持っている。それが次第に飾りとして凝った意匠が施されるようになったもの(と私は解釈している)。過去ログには懸魚の原初的な、機能のみの形を載せた。

路上観察したこの民家、形が過去ログのものと似ていたので懸魚か、と思ったのだった。が、よく見ると懸魚が隠すべき棟木の小口は顔を覗かせている。

これは妻垂、壁を雨から守るために付けた垂れ壁、と解釈すべきかもしれない。通常妻垂は軒桁あたりから上部を全て覆うようにつくられているが、この場合はなぜかその範囲が狭い。これで、雨を防ぐという機能が発揮できるものかどうか・・・。

あるいは、単なる飾りなのかもしれない。こんなとき、家の方に訊いてみても、さあ、昔から付いているのでよく分かりません・・・、といった答えが返ってくることもある。

勝手な解釈を試みるのが楽しい。学術的な調査研究ではないのだから。


 


蔵の妻壁の保護

2009-07-24 | A あれこれ

 

 土蔵の壁を雨から守るために板で覆ったものを見かけることはよくある(左の写真 長野県池田町にて 撮影2009年7月)。が、右の写真のように樹皮で覆ったものはあまり見かけない。これは伊予大洲、愛媛県の大洲市で見かけた土蔵(撮影1980年3月)。妻壁を杉皮で覆って竹で留めている。

板で覆うとなるとちょっと大変、大工さんに頼まないとなかなかできないが、樹皮を留めるような施工なら、やろうと思えば素人でも出来る。古い民家ほど特別な技術を要せず、素人でも施工できるようになっている。隣近所で協力して造ってきた民家、その素朴さが魅力だ


 


「胎児の世界」

2009-07-24 | A 読書日記



■ 胎児は生命の進化の過程を再演する。

**胎児たちは、あたかも生命の誕生とその進化の筋書きを諳んじているかのごとく、悠久のドラマを瞬時の〝パントマイム〟に凝縮させ、みずから激しく変身しつつこれを演じてみせる。**とこの本の著者、三木成夫氏はまえがきに書いている。

第Ⅱ章「胎児の世界」で著者は「比較発生学」の名でよばれる、学術的な知見によってこのことを実証的に示してみせる。

**胎児は、受胎の日から指折り数えて三〇日を過ぎてから僅か一週間で、あの一億年を費やした脊椎動物の上陸史を夢のごとくに再現する。**と紹介した上で、受胎32日、34日、36日、38日、40日の頭部顔面を真っ直ぐ正面から写生した図を示す。

32日の図は上陸と降海の二者択一を迫られた古代魚類の時期なんだそうだ。その後胎児の顔が劇的に変化していくことが図によって分かる。1億年分を1週間で再現するのだから劇的な変化は当然か。

第Ⅲ章「いのちの波」 それまでのいわゆる理系的な表現から変わり、詩的なというか、文学的な表現によって生命のリズムについて綴られている。

**こうして生物リズムを代表する食と性の波は、四大リズムを代表する太陽系のもろもろの波に乗って無理なく流れ、そこにはいわゆる生と無性の違いこそあれ、両者は完全に融け合って、一つの大きなハーモニーをかもし出す。まさに「宇宙交響」の名にふさわしいものであろう。** とまあこんな調子に。

ところで、学術的な研究は対象領域を狭く限定し、その中で深く掘り下げることで成果を挙げてきた、といっていいとは思う。でも、領域を狭くしてしまうことで見えなくなってしまう事柄も当然あるとよく指摘される。

木を見て森を見ず、木をどんなに詳細に観察してもそこから森の姿を知ることは出来ない・・・。病気に罹った臓器だけを詳細に診ても患者を診察したことにはならない・・・。

この本の著者の三木さんは、ただ木を見るだけでなく何歩も後退して森を見、さらに後退して海も見、同時に宇宙をも見た研究者だったと思う。そのような総合的な視点、というか、神の視点をもてたからこそ、生命の進化という悠久の流れを胎児の成長に見ることが出来たのだろう。

私が抱いているイメージの中公新書らしからぬ一冊、久しぶりにわくわくしながらの読書だった。