■ 内田樹氏が神戸女学院大学で行った最終講義(2010年10月から翌年1月まで)を基にまとめた「クリエイティブ・ライティング論」。
仮に私がこの講義を受けたとして(女子大の講義だから無理だと思うが、可能だとしても落ち着いて受講することなど無理だろうが・・・)、試験を受けても合格点を取ることはできないだろう。このテキストを試験で参照してもよい、という条件が付加されても無理だろう・・・。レポートを書くこともできそうにない。降参!
以下収録されている14講から。
第3講「電子書籍と少女マンガリテラシー」は比較的理解しやすい講義だ(ホントかな・・・)。内田氏は**読書というのは、「今読みつつある私」と「もう読み終えてしまった私」の共同作業**(57頁)だという。**電子書籍で困るのは、「もう読み終えた私」の居場所がないということです。**ここに紹介はしないが、内田氏は続けてこのことについて「なるほどな説明」をしている。
第6講「世界性と翻訳について」 ある講義の質疑**なぜ村上春樹は世界各国語に翻訳されているのに、司馬遼太郎は翻訳されていないのか**(97頁)に対する内田氏の答えが、これまた「なるほど!」だった。
第8講「エクリチュールと自由」 **日本に知的な階層性がヨーロッパのようなかたちで存在しないことは、もちろん「いいこと」だと僕は思います。でも、あらゆることにはいい面と悪い面がある。それは「自分の言いたいことをわかってくれる」何十万、何百万という不特定多数の読者や視聴者を不当に先取りしてしまうということです。「ね、わかってくれるでしょ?」というふうに振りかえると「おう、わかるわかる」と応じてくれる人たちが自分の背後に無数にいるとつい思い込んでしまう。そうすると、何が起こるかというと、論理的に話すとか、きちんと挙証するとか、情理を尽くして説得するとか、そういう努力へのモチベーションが傷つけられてしまう。だって、「みんな、わかるよね?」「わかるわかる」という関係をつい想定してしまうわけですから。**(153、154頁) ここは問題点を指摘する重要な箇所ではないか。
で、内田氏は**言語における創造性は読み手に対する懇請の関数です。どれくらい強く読み手に言葉が届くことを願っているか。その願いの強さが、言語表現における創造を駆動している。**(16頁)と述べている。
このくだりこそ本の帯の「言語にとって愛とは何か?」という問いの答えだ。違うかな?