透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「火星無期懲役」S・J・モーデン

2020-07-19 | A 読書日記

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いつもの席には先客が、で、円卓に着いた。

 日曜の朝、TSUTAYA 北松本店で『火星無期懲役』S・J・モーデン(ハヤカワ文庫2019年発行)を買い求め、スタバで朝カフェ読書。しばらく前、同店でこの分厚い文庫本を手にしたものの、読めないかも、と書棚に戻していた。

**「で、そこはどこなんだ? 七人の囚人を送りこんで刑務所を建てさせ、そこに死ぬまで閉じこめようっていう場所は?」
「火星だ」**(18、19頁)

さらにカバー裏面には**殺人を犯し、終身刑で服役中のフランクは、火星基地建設プロジェクトへの参加を持ちかけられる。刑務所で人生を終えるか、火星で生きるか―(中略)プロジェクトの参加者は7名。だが彼らは火星でひとりまたひとりと命を落としていく。(後略)**とある。これはもう読まないわけにはいかない。



『火星の人』を意識して、火星を舞台にした作品を、という出版社からの注文を受けて執筆されたという本作だが評価は高いという。楽しみ。


 


火の見櫓のある風景を描く

2020-07-19 | A 火の見櫓のある風景を描く


松本市笹賀上二子にて 2020.07.19

蔵のパース、妻面が少しおかしい。特に屋根は気になる。だが、一発勝負だから勾配屋根が不自然でも直すことができないから仕方ないか(などという弁解はダメ)。

蔵の屋根の着色も気になる。逆光だったことも無関係ではないとは思うが、屋根の下側がどうなっているのか、きちんと把握できていなかったことが影響しているのではないか。

腰のなまこ壁の白い目地をどう描くか、これは技術的な問題だが、解決しなくてはならない課題。全面的に瓦色に着色してから白い目地を引くという方法は採りたくない。丁寧に描いて目地を塗り残す、という方法で良いと思う。ただしあまり時間をかけすぎるのは好ましくない。その意味では「丁寧に」ではいけないのかもしれない。

いつも山の色、特に遠くの山の色で悩む。実際には逆光のせいもあるが、あまりはっきりしない色で、晩春の山のようにもっと青みを帯びていた。だが、これはこれで良いだろう。

実際には蔵の屋根の下には別の建物が見えていて火の見櫓は隠れてしまっているが、この方が自然。ありのまま描けばよいというものでもない。風景スケッチとはいえ、創作であることを忘れてはならない。もちろん色を変えても構わない。

現地では簡易な折りたたみ椅子に腰かけて描いているが、視点の高さが適切であったかどうか、疑問。特に蔵の屋根に関して。しんどいけれど立って描くか、少し引いた位置から描いた方が良かったかもしれない。

寸評はこのくらいにしておこう。


 


「銀の匙」中 勘助

2020-07-19 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 名作は永く読み継がれる。中 勘助の『銀の匙』、岩波文庫では1935年(昭和10年)の発行、手元にあるのは2003年改版第5刷

カバー折り返しの本作紹介文を引く。**なかなか開かなかった古い茶箪笥の抽匣(ひきだし)から見つけた銀の匙。伯母さんの限りない愛情に包まれて過ごした少年時代の思い出を、中 勘助が自伝風に綴ったこの作品には、子ども自身の感情世界が素直に描きだされている。**

解説を和辻哲郎が書いているが、それによると『銀の匙』の前篇は明治44年の夏、野尻湖畔において書かれたそうだ。そうだったのか、信州で書かれたなんて知らなかったなぁ。その時中 勘助は27歳だったとのことだ。それにしても少年時代のことを細かなところまでよく覚えていたものだ。

**(前略)描かれているのはなるほど子供の世界に過ぎないが、しかしその表現しているのは深い人生の神秘だと言わざるを得ない。** 和辻は解説文をこのように結んでいる。

再読したい1冊。


 


「寺田寅彦随筆集 第一巻」

2020-07-18 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 「ぼくはこんな本を読んできた」 本稿からはパラフィン紙のカバーがついた文庫ほど古くはないものを載せていく。まずは『寺田寅彦随筆集 第一巻』小宮豊隆編(岩波文庫1994年第76刷)

物理学者にして優れた随筆の書き手でもあった寺田寅彦。夏目漱石の門人で「吾輩は猫である」には寅彦がモデルと言われる人物(水島寒月)が登場する。

寺田寅彦随筆集は岩波文庫で第一巻から第五巻まで出ている。残念ながら手元にあるのは第一巻のみ。岩波はこの随筆集を絶版にはしないだろうから、今でも書店で入手できるだろう。

「科学者と芸術家」には次のようなくだりがある。**観察力が科学者芸術家に必要な事はもちろんであるが、これと同じように想像力も両者に必要なものである。(中略)一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見いだし、個々別々の事実を一つの系にまとめるような仕事には想像の力に待つ事ははなはだ多い。また科学者には直感が必要である。古来第一流の科学者が大きな発見をし、すぐれた理論を立てているのは、多くは最初直感的にその結果を見透した後に、それに達する理論的の径路を組み立てたものである。**(91、92頁)

建築設計にもこのようなことが言えるだろう。直感的に見出した最終的な形に、後からそれに至る理路を導き出すというデザインプロセスを採るのだから。このことに関して僕は以前次のように書いている。

**なんとなくコーンが好きですから・・・などという説明では発注者はその採用を渋るかもしれません。採用するデザインにいかにもっともらしい理屈を後からつけるか、建築に限らず広くデザインにかかわる人たちに必要な能力、といってもいいでしょう。そう、はじめに理屈、理念、コンセプト(どの言葉でもいいですが)ありきではなく、それはあくまでも後から考えだすものなのです。結果(デザイン)から川を遡って源流の理念、コンセプトに到達するんです。**(2007.07.12)





「みんなの家。」を読んだ

2020-07-18 | A 読書日記

 このところ、文庫は再読することが多かったから、買い求めて読むのは久しぶりだ。

私が読む文庫は大半が新潮文庫だが、ちくま文庫には建築関係のものが少なくないから、時々チェックする。昨日(17日)『増補 みんなの家。建築家一年生の初仕事と今に異なって思うこと』光嶋裕介(ちくま文庫2020年第1刷)を見つけ、早速買い求めて読んだ。初仕事を本にまとめることができたなんて、とてもすばらしい。

光嶋さんの建築家としての初仕事となった内田 樹(たつる)氏の道場兼住宅(凱風館)の設計から完成までの記録。文庫化にあたって今の思いを全26章に加筆したという。解説は鷲田清一氏。

発注者、構造設計者、工務店の担当者、様々な職種の腕の良い職人(大工、土のことは俺に任せろの左官職人、そして瓦職人はあの山田脩二さん、京都は美山町の杉・・・)。光嶋さんの積極的な行動が実にラッキーな出会いを生む。人と人のつながりって大切なんだなぁ、と改めて思う。

発注者である内田 樹氏には多くの著書があるが、この道場兼自邸・凱風館についても設計者の光嶋さんとの出会いから完成、暮らし始めてからのことなどをまとめた『ぼくの住まい論』(新潮社2012年)を出している。読み比べてみるとなかなかおもしろい。


メモ:書棚について両書から引用

**僕はひとの家に行くと、必ず書棚に見入る癖があります。(中略)書棚に並ぶ本は「自分はこうした本を読むような人間でありたい」というその人の意思表示だと思うからです。(中略)あたかもその人の脳のなかを覗いているようで、面白いものです。**「みんなの家。」(202頁)

**本棚はその人自身の「理想我」の表れだとぼくは思っているんです。(中略)本棚の整理というのは、自分がなにものであるのか、なにものでありたいのかを省察する好機なんです。(中略)書棚というのはつよい教化的な機能を持っている。(中略)その人が「どんな人だと思われたがっているか」を示すものです。**「ぼくの住まい論」(35、36頁)


 


火の見櫓が出てくる文学作品

2020-07-17 | A 読書日記

 紀行作家としての宮脇俊三さんの作品ではデビュー作の『時刻表2万キロ』(河出書房新社1978年)が有名だが、私は他の作品も読んできた。北 杜夫の隣の住人ということにも親しみを感じていた。宮脇さんが北さんに隣の土地を紹介した、と何かで読んだ。

以前火の見櫓が出てくる文学作品を挙げたが、宮脇さんの『旅の終りは個室寝台車』(新潮社1984年発行)に収録されている、山陰本線を門司から福知山まで18時間もかかる鈍行列車の旅「にっぽん最長鈍行列車の旅」にも出てくることに気がついた。

 

以下にそのくだりを引用する。**益田を過ぎるあたりから石州瓦が目立ってきた。光沢のある赤褐色の瓦である。「赤褐色」では言い尽せない、もっと渋くて艶めかしい、いい瓦で、これを見るたびに、ああ石見に来たなと思う。
白い漁船が数隻繋留された小さな漁村がある。石州瓦の家々が軒先を重ねるようにして肩を寄せ合っている。わずかな空地に火の見櫓が立ち、その下で子どもたちが遊んでいる。亡くなった谷内六郎さんの絵を見る思いがする。**(20頁)

宮脇さんも車窓を流れる風景に火の見櫓を見つけることがあったのか・・・。それにしてもすばらしい観察眼。やはり紀行作家の眼は違うなぁ。


 

 


Go To トラベルはトラブルのもと?

2020-07-17 | D 新聞を読んで

 新型コロナウイルス感染が再び全国的に広がっている。昨日(16日)は全国47都道府県のうち、30都道府県で感染者が確認された。検査数を増やしているのだから感染確認者数は増えて当然、とする向きもあるが、検査で感染が確認される割合も増加傾向にあるという。このようなことに関する統計的な扱い、解釈については私はよく分からない。ここは感染確認者数の増加にのみ注目しておきたい。

さて、Go To トラベル。訪日観光客の激減、国内旅行の大幅な減少により、宿泊や交通などの関係業界が厳しい経営状況に陥っている。そこで国の予算で旅行費用を支援して旅行需要喚起を促すGo To トラベル。尚、政府は感染確認者数が最も多い東京都を発着する旅行をこのキャンぺーンの対象外とする方針を表明した。

この様な内容の記事(7月17日付信濃毎日新聞第一社会面)の見出しは**県民 何のために自粛したのか 都民 東京のみ除外では無意味**だが、これは記事を書いた記者の想いそのものであろう。

(ここまで書いてきて、この記事をどうまとめようかと考える・・・。)

STAY HOMEからGo To トラベルへ。政府は安全(感染対策)より経済優先に舵を切った、と私は解す。

感染防止と経済活動、両者相反するアクティビティ。インフルエンザウイルスは毎年のようにタイプを変えて人間社会を襲う、コロナウイルスも同様だろう。この意味でアフターコロナはない。そう、アフターコロナではなく、ウイズコロナ。

ウイズコロナ社会はどうあるべきか、今はその模索期だということ。何年か後になって今回のコロナ禍を総括する時にこのように理解されるだろう。

この時期、自分の安全は自分で確保するしかないという結論でこの記事を結ぶことにする。


 


北安曇郡小谷村の火の見櫓

2020-07-17 | A 火の見櫓っておもしろい


再(057) 北安曇郡小谷村中小谷 3脚〇〇型 撮影日2020.07.16

 この火の見櫓は今から10年前、火の見櫓巡りを始めた年(2010年)の9月に紹介しているが、その時は全形写真を1枚載せただけだったので改めて紹介したい。小谷(おたり)は新潟県糸魚川市に境を接する村。国内有数の豪雪地として知られる。



この火の見櫓は3角形の櫓を脚元から見張り台まで殆ど逓減させておらず、見張り台の床面で柱を内側に曲げ、その上端に見張り台に比して小さい円形(立体的には円錐形)の屋根を載せている。個性的なフォルム(全形)だ。小谷村役場のすぐ近くにもこれとよく似たフォルムの火の見櫓が立っている。



屋根の頂部には細い避雷針があるが、そこに簡素な飾りを付けている。半鐘を屋根の中心に下げてある。屋根と柱の接合部にも注目。見張り台床面の開口部は蓋付き。ブレースには丸鋼ではなく、等辺山形鋼を用いているが、このことが櫓の「透け感」にも影響している。



踊り場部分の櫓の構面の様子。外付け梯子から踊り場への入口開口に注目。



脚元の様子。このように別に脚が無くても機能上何ら問題はない。ただし櫓の中に入りづらくなるため、梯子は外付けにすることになる。梯子が曲がっているのは雪の影響か(堆雪の側圧を受けて曲がったのかも)、あるいは別の理由か。構成部材の接合部はガセットプレートを用い、リベットでガッチリ固定している。


 


笑う門には福来たる

2020-07-16 | A あれこれ

 今朝(16日)通勤の車で聞いたNHKラジオ第一の番組の話題。

笑わない高齢者は毎日笑う高齢者に比べ、要介護状態になるリスクが1.4倍高くなる。このようなことが名古屋大学の研究チームが介護を受けていない高齢者14,000人に対して行った調査で分かったそうだ。

日常生活で声を出して笑うことは介護状態になるリスクを下げる効果がある。そうか、毎日お笑い番組を見て大いに笑えばいいのか・・・。このことで思い浮かぶのは「笑う門には福来たる(*1)」ということわざ。

大いに笑うべし、と言われても、自然災害は多発するし、コロナ禍は収束する気配すらないし・・・。笑うことができる、それだけで幸せなんだなぁ。

笑うと免疫力が高くなることも医学的に実証されているらしい。


*1「福来る」と表記するようだが、これできたるとはなかなか読めないので「福来たる」とした。


朝カフェで「黄いろい船」を読む

2020-07-16 | A 読書日記

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 昨日(15日)の朝カフェで『黄いろい船』北 杜夫(新潮文庫1978年発行)を読んだ。ブログに記録が残るだけでも既に2回読んでいる。初めて読んだのは1978年の11月、もう40年以上の前のことだ。5編の中短編が収められているが、表題作の「黄いろい船」について。

12年間勤めた会社を解雇された男は妻と4歳の娘・千絵ちゃんとアパートで暮らしている。千絵ちゃんはどういうものか栗がとても好き。

**「で、落ちてるのかい、実が」
「そう、ガレージの前にイガが十ほど落ちてたわ。でも、みんな空なのよ。近所の子がとっちゃうのでしょうね」
「イガでも持ってくればいいのに」
「チエちゃん、イガ、きらい」
と、女の子が口をはさんだ。
「チエちゃんの指、イガが刺したの」
「あんまり急いでさわるからよ」
と、妻はまた笑った。**(26頁)

ほのぼのとした会話が実にいい。次のようなシーンも。

**三人の蒲団を敷くと、部屋は一杯で、女の子の小さな蒲団は壁際におしつぶされたような形で敷かれていたが、そこから寝言のような声が洩れた。
「パパ」
と、小さく言った。
「うん?」
と、男は狼狽したようにこたえた。
「オシッコかい?」
女の子はかぶりをふり、ふいにニッコリと笑ってみせ、それから横をむいて枕のわきにおいてあるクリさんの人形をちょっと撫でてから、さらに満足したように枕に頭をのせて目をつぶった。**(17頁)

「黄いろい船」は北 杜夫が自作のなかで最も好んだ作品のひとつだそうだが、私もこの作品が好きだ。

このような作品を41歳の時に描いたとは・・・。北杜夫は純真な少年のようなこころをずっと持ち続けていた作家だった。

北 杜夫の作品はこれからも読むことになるだろう。


2011.10.21と2015.08.19の記事転載加筆。 **は引用範囲を示す。

カバーは串田孫一さんの作品。まつもと市民芸術館館長の串田和美さんのお父さん。

 

 


物は言いよう

2020-07-15 | A あれこれ

 帰路、いつもラジオを聞く。今日(15日)の夕方6時過ぎにNHKラジオ第一を聞いた。語られていた話題は座り過ぎ、長時間座り続けることは健康によくないということだった。日本人は1日平均7時間座っているそうで、世界的に最も長いという。

毎日仕事などで椅子に長時間座り続けていると心筋梗塞や癌など様々な病気の罹患リスクが高くなるという。エコノミークラス症候群のロングスパン(長い期間)バージョンといったところだろう。欧米ではこのことがよく知られていて、対策も取られているようだが、日本ではまだまだあまり知られていないようだ。

30分経ったら立ち上がって歩くことがリスク軽減になるとのことだった。それが無理なら「貧乏ゆすり」も良いそうだ。ただ貧乏ゆすりということばはイメージが良くない。で、番組に出演していた話者が「健康ゆすり」としたらどうか、という提言をしていた。

貧乏ゆすりではなく健康ゆすり。なるほど物は言いようだな、車を運転しながらこの話を聞いていてそう思った。


 


「透明タペストリー」という商品

2020-07-14 | A あれこれ

 ブログを始めたのは2006年4月16日だった。その時に考えた到底ありそうにないブログタイトルを試みにネットで検索してみると、なんとヒット、考えたタイトルのブログが既にあった。それで、別案だった「透明タペストリー」というタイトルにした。透明なタペストリーは目に見えないから、壁飾りの役目を果たさない。毒にも薬にもならないような文章でいいから綴っていこうという想いを「透明タペストリー」というタイトルに込めた。



先日、「透明タペストリー」をネット検索すると、立川ブラインド工業というメーカーのホームページがヒットした。そこに次のような紹介文が掲載されていた。**新型コロナウイルス感染症の飛沫感染防止対策として、防炎性能を有した『透明ロールスクリーン』と『透明タペストリー』を6月22日(月)より発売します。**(同社ホームページより転載)

立川ブラインドは社名が示すようにブラインドを始めロールスクリーンやアコーデオンカーテン、可動間仕切などのインテリア製品のメーカーだ。

最近、上掲文にあるように、対面式の対応が必要なスーパーやコンビニのレジ、役所の窓口等々で飛沫感染防止対策として透明なスクリーンを設置しているところが多い。立川ブラインドでもこれを商品として6月から売り出したというわけ。

14年前、「透明タペストリー」というブログタイトルを考えた時、同名の商品が出てくるなどということは思ってもみなかった。スクリーンは本来視線や日射を遮るためのものだから、透明な製品はあり得ない。当時、飛沫を遮るなどという機能の商品の必要性を誰が想定し得たであろう。

ところがである。「ミヤシタパーク」のプロジェクトといい、この「透明タペストリー」といい、ぼくには予知能力がある? あるわけないか・・・。


 


光屈性

2020-07-14 | A あれこれ



 カウンターの前に置いた観葉植物のカポックで光屈性の実験、と言えば大袈裟か、確認をしようと思う。

先日読んだ『植物のすさまじい生存競争』田中 修(SBビジュアル新書2020年)では、**植物は「光のくる方向」を必死で探す ~「フォトトロピン」が光のくる方向を見きわめる**という見出しで植物の光屈性について解説している。フォトトロピンのフォトはフォトグラフのフォト、光という意味だと思う。

小学校(いや、中学校か)の理科の教科書に載っていると思うが、真っ暗な箱の中に鉢植えの植物を置き、箱の側面に小さな穴をあけて、生長を観察するというのは、極端な環境をつくってこの光屈性を知るというもの。それをもう少し緩やかな環境下でやってみようと思う。

それで、昨夜(13日)カポックの鉢の向きを180度変えた。写真の右側が東、写真には写っていないが、そこに窓がある。時々朝焼けを見る窓だ。今までこの観葉植物は東の窓から入る光の方向に生長していたが、向きを変えたため茎の先端が窓の反対側を向いている(*1)。

フォトトロピンなる物質のはたらきによって、茎の先端を東(写真では右)に向けるだろうか・・・。


*1 雨降りの早朝に撮った写真だから、東(右)の窓から光はあまり入っていない。カポックは部屋の天井照明を受けている。



「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」

2020-07-12 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 この『レオナルド・ダ・ビンチの手記』(岩波文庫上巻:1978年第24刷 下巻:1977年第19刷)を以ってパラフィン紙のカバー付き(*1)文庫の掲載を終了する。まだ少し残ってはいるが、一応の区切りとしたい。そして今後はこのカテゴリーへの掲載頻度を落とし、他のカテゴリーの記事を書きたい。

レオナルド・ダ・ビンチはモナリザはじめ、名画にその名を残したが、生涯を通じて数多くの手記も残している。内容は人生論、文学論、科学論など多岐に亘る。

上巻に書かれているが、レオナルドの手記の約5,000枚がフランス、イタリア、イギリスなどの各地に現存しているという。そんなに昔のものが・・・、と思う。調べるとレオナルドは1425年にイタリアはフィレンツェ郊外の寒村ヴィンチで生まれ、1519年にフランス中部の町アンボワーズで客死している。日本の歴史では室町時代の人だ。

『徒然草』が書かれたのは1330年ころ(1349年との説もあり)で、レオナルドが生まれる前のことだが、その随筆が残っていて、今でも簡単に入手して読むことができるのだから、レオナルドの書いたものが残っていることはそれ程驚くことでもないのかもしれない。

ぼくがこの2冊を買い求めたのが1978年9月のこと。当時住んでいた都内のアパートの一室で読んだのだろう。このような本にまで興味が及んでいたことにぼく自身が驚いてしまう。いくらあの頃も「何でも読んでやれ精神」だったとしても・・・。


*1 撮影のためにカバーを外している。