透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

禁酒 週5日

2020-07-12 | A あれこれ


1985年(昭和60年)から付けている生活記録

 禁酒を始めたのは2016年の6月27日(月)の週。この時は「禁酒 週3日」としていた。世間で週休2日、休肝日を週2日設けるようにと言われているなら、自分は週休3日にしようと、ダイヤリーに「禁酒 3日」と書き込み、ちゃんと守ることができたら、〇を付けていた(写真)。

別に肝臓を悪くしたわけではない。血液検査でも肝機能を示すデータは正常域に入っていた。禁酒日を設けたのは、飲むと何もする気が無くなってしまうから。「無為な時間がもったいない」と自覚した。

それから4年。今は「禁酒 5日」にしている。平日は禁酒、週末の2日のみ飲酒可というかなり厳しい縛り。ここ15週の成績は14勝1敗。禁酒 5日が守れなかったのはたった1回。

365日、ほぼ毎日がアルコール摂取日だったころが今では信じられない。もう、そんなストイックな生活止めたらなどという悪魔のささやきも聞こえてこない。



「酒は百薬の長」は酒飲みの自己弁護だと断じよう、と書いてこの本を思い出した。禁酒は節約にもなるし、空き瓶・空き缶も出ない。


 


「徒然草」兼好法師

2020-07-12 | H ぼくはこんな本を読んできた

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらずの「方丈記」。春はなんてったって アイド~ル、もとい、なんてったって あっけぼのよね~の「枕草子」。そして、つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれの「徒然草」。以上が日本三大随筆と評されているとのこと。

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先日『方丈記』を載せたが今日(12日)は兼好法師(吉田兼好)の『徒然草』西尾 実 校注 岩波文庫(1969年第52刷)。50年以上も前の本。

第109段 高名の木のぼりの「あやまちは、やすき所に成りて、必ず仕る事に候」、この油断大敵という戒め。それから過去ログに書いた第52段 仁和寺にある法師の話などは生活心得として覚えておきたい。


 


「渋谷山計画」と「ミヤシタパーク」

2020-07-11 | A あれこれ

 東京は渋谷駅近くの宮下公園を含むエリアに計画・建設された複合施設「ミヤシタパーク」が今月下旬(2020年7月28日)から順次オープンする予定だという。このプロジェクトのことをしばらく前に知って驚いた。あ、これは僕の卒業設計の計画地と同じ所だ!

僕は山手線をまたぐような敷地(下図)を設定して、山手線によって分断されている両側のエリアを結ぶ複合施設を計画した。渋谷に谷と山を建築的に創るというこの計画に僕は「渋谷山(しぶやま)計画」というプロジェクト名を付けていた。

ミヤシタパークは下図に示すエリアの下半分(山手線の東側で大半が宮下公園と重なる)に計画された全長330メートルの低層複合施設だ。

屋上を緑化してパブリックな公園にして施設内に入ることなく利用できるようにするという計画は今では一般的で珍しくもないが、当時は殆ど出現していなかったのではないか。デパートの屋上とは基本的な空間構成が全く異なるのだから。






「渋谷山計画」

それにしても僕が40年以上も前に構想した計画と同類の施設が同じ場所に出現するとは・・・。僕に先見の明があった!?   コロナ禍のことがなければ見学に行きたいけれど、まだまだ無理だなぁ。

僕はこの記事を「ドーダ」の気持ちで書いたことを正直に白状する。


 


「海の沈黙」ヴェルコール

2020-07-11 | H ぼくはこんな本を読んできた



 書棚から取り出した古い岩波文庫。『海の沈黙・星への歩み』、作者はフランスの作家・ヴェルコール。奥付けを見ると昭和四八年二月一六日 第一刷発行となっている。この頃★★はいくらだったんだろう。

**『海の沈黙』も、『星への歩み』も、ヴェルコールにとって、またおそらくは地上のよき意志の人々にとって、決してすぎ去った昔の物語ではない。**(168頁) 訳者の一人・加藤周一はこのように書いている。

この『海の沈黙』を読むきっかけ、それはこの小説がテレビ番組で取り上げられていたことだった。ずいぶん昔のことだが、冒頭の部分が朗読されたことを覚えている。

もう一度読まなくてはならない作品。


2019.08.03 掲載記事 改稿再掲(カテゴリー変更)


朝カフェ読書@スタバ

2020-07-11 | A 読書日記



 昨日(10日)の朝、松本なぎさライフサイトにあるTSUTAYAで新書を買い求め、隣接するスターバックスで朝カフェ読書をした(*1)。以前書いたかもしれないが、両店が一体化すればおもしろいのに。書店の中のカフェ、書棚に囲まれた空間でコーヒーを飲みながら好きな本を読むっていいなぁ。

この新書、帯付きだと分かりにくいが書名は『植物のすさまじい生存競争』田中 修(SBビジュアル新書2020年初版第1刷)。 **「植物」のイメージは「平和そう」「のんびり」「きれい」「おとなしい」「癒される」といったものかもしれません。しかし、その世界に一歩踏み込んでみれば、そこでは日夜、すさまじい生存競争が繰り広げられています。静かに暮らしているように見える植物たちは、自分が生き残り、子孫を残すために「知恵」をめぐらせ、考え抜かれた工夫を凝らしているのです。(後略)** カバー裏面の本書紹介文より

植物たちの生き残り戦略について下記の5つにまとめ、それぞれ章立てして分かりやすく解説している。
第1章 枯れ滅びないための戦い
第2章 厳しい気候からからだを守る戦い
第3章「食べられる宿命」との戦い
第4章「虫」を誘うための戦い
第5章「生き残る」ための戦い

各章とも基本的には見開き2頁でひとつのテーマについて解説するという構成を採っている。テーマには通し番号が付いているが、その数は77。カラー写真がたくさん掲載されていて見るだけでも楽しい。文章が簡潔で冗長なところがなく、分かりやすい。

第2章には植物たちの紫外線対策についての解説もある。**紫外線は、私たち人間にも植物たちにも、同じように有害なのです。**(67頁)そうか、紫外線って植物にも有害なのか・・・、そうか、そうだよな、と納得。

植物たちも紫外線が当たると活性酸素という有害な物質を発生する。活性酸素の代表はスーパーオキシドと過酸化水素の2つ。これは基礎知識として覚えておきたい。

で、植物たちは紫外線に当たりながら生きていくために活性酸素の害を消す抗酸化物質をつくり出した。なるほど、そういうことか! 抗酸化物質の代表はビタミンCとビタミンE。

**植物たちが、自分のからだを守るためにつくる物質を、私たち人間は利用させてもらっているのです。**(71頁)このように捉えると植物に対する見方が変わってくる。果物や野菜たちって、ありがたい存在なんだ、と。食事の前にはちゃんと心をこめて手を合わせないといけないな。

きれいな花も逆境に抗った結果。そうなのか・・・。(以下略)


*1 店では座席数を半減させるなどの対策を講じている。


「歴史における個人の役割」プレハーノフ

2020-07-10 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 代わり映えのしない写真が続く。

今回は『歴史における個人の役割』プレハーノフ(岩波文庫1974年第19刷)

ぼくは今の派手なカバーの文庫より、昔のパラフィン紙のカバーの文庫の方が好きだ。この地味な文庫に親しんだ古い人間だからか。いや、濃い内容をじっくり読むというイメージが伝わるから。

本扉に750926~という書き込みがる。この文庫を読み始めた日を示している。このようにメモ書きしてあると後年分かる。だが、この頃は本に書き込みをすることをあまり好まなくなって、あまりしなくなった。替わりにブログに記録している、というわけ。

この本を読んだという記憶はないが、上記のように読み始めた日のメモ書きがあるから、買っただけでなく、読んだのだろう、たぶんタイトルが気になって。それに本文に数ヶ所傍線を引いてある。

この文庫には紐の栞が無い。栞代わりにしたのだろうか、カフェなどで供されるストローの袋が挟まっていた。端を五角形に折ってある。これは? 記憶にないなぁ。


 


「初雪」モーパッサン

2020-07-09 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 小学生のころはジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』や『海底二万里』、『八十日間世界一周』、『地底旅行』などの作品(子ども向けにリライトされた作品だったのかもしれない)を読んではいたが、外で遊ぶ方が好きだった。

中学生の時に松本清張の『砂の器』を読んで、読書好きになり、その後『初雪』モーパッサン(角川文庫1972年16版)なども読むことに。

モーパッサンと言えば長編の『女の一生』が知られているが、短編も数多く残している。『初雪』は、この文庫でわずか15頁の短編。この記事を書き始める前に読んでみた。

秀作だとぼくは思う。こんなに短くてこんなに深く女性の心理を描いてしまうとは・・・。未読の方には一読をおすすめします。


この頃の角川文庫にも紐の栞が付いている。


「家郷の訓」宮本常一

2020-07-09 | H ぼくはこんな本を読んできた



 「ぼくはこんな本を読んできた」 処分しないで残した文庫本の内、パラフィン紙のカバー付きの古い文庫を続けて取り上げようと思う。で、今回は『家郷の訓』宮本常一(岩波文庫1984年第2刷)

ぼくはこの文庫をかつて松本にあった書店「遠兵」で1986年1月に買い求めている。そうか、この頃の岩波文庫にはまだパラフィン紙のカバーが付いていたんだ。ただし紐の栞は付いていない。新潮文庫や角川文庫はどうだったんだろう・・・。

巻末の解説に次のような件(くだり)がある。**この本は、生活の書である。そして学問の書である。年齢や生れた地方の如何を問わず、この本を読む人は、自分自身の体験や生活を内省して、自らの成長の過程や、子どもの育て方、孫との接し方、地域活動のあり方、地域行政のあり方などを具体的に考える上でのヒントを得るであろう。
『家郷の訓』は、民俗学、子ども学、子ども史、教育史、教育学、文化人類学などを志す人びとにとっては必読の古典である。**(279、280頁)

解説にある通り、この本は読む人の年齢を問わない。名著とはこのようなものだろう。


 


「古代への情熱」シュリーマン

2020-07-07 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 前稿で取り上げたモームの『人間の絆』はずいぶん昔の本だが、この『古代への情熱』シュリーマン(岩波文庫1969年第24刷)も同様に昔の本だ。この文庫本もパラフィン紙のカバー、紐の栞付き。

巻末に岩波文庫という古典の大森林を前にすれば、たとえば15歳から25歳までの10年間の読書計画を立てるのは不可能に近いだろう、ということで識者に指標として100冊を選択してもらった、という趣旨の文章が載っている(*1)。そして「100冊の本―岩波文庫より」として100冊の文庫がリストアップされている。100冊の中にこの『古代への情熱』も入っている。

この文庫は**トロヤ戦争の物語を読んだ少年が美しい古都が地下に埋もれていると信じその発掘を志す。努力の年月を経て彼の夢は実現してゆく。**と青い帯にあるように、中学生(には読みにくいかな)、高校生くらいのときに読むのに相応しい内容だ。


*1 選者としてぼくも名前を知る臼井吉見、久野 収、桑原武夫、武谷三男、鶴見俊輔、丸山真男ら15人の名前が挙げられている。


「人間の絆」サマセット・モーム

2020-07-06 | H ぼくはこんな本を読んできた



■ サマセット・モームと言えば『月と六ペンス』だが、ぼくの書棚にあるのは『人間の絆』(角川文庫1968年10版 *1)全4巻。10歳で孤児になってしまったモームの自伝的長編小説。

シンガポールのラッフルズホテルはモームに愛されていたことで知られる。ぼくがシンガポールを旅行し、このホテルを訪ねたのは何年前のことだろうか。この時は工事中で残念に思ったことを覚えている。

この長編を再読する気力はもうないが、『月と六ペンス』なら・・・、無理か。ならば、『月と10セント』北 杜夫(新潮文庫1978年発行)(*2)はどうだろう。


*1 第1巻の発行年と版。巻により異なる。
*2 北 杜夫が『月と六ペンス』を意識してタイトルを付けたことが最終第20章に付けた章題の「10セントと6ペンス」から分かる。



「物の本質について」ルクレ―ティウス

2020-07-05 | H ぼくはこんな本を読んできた



 減冊後に残った文庫本は約250冊。その中にはパラフィン紙のカバーがついた古い文庫本が何冊かある。『物の本質について』ルクレ―ティウス(岩波文庫1977年第11刷)もその内の1冊。パラフィン紙のカバーを外して出てくる表紙と帯は意外なほど劣化していない。ぼくはこの文庫本を国立駅前にあった東西書店(*1)で1978年8月19日に買い求めている。42年も前のことだ。

**雄大な叙事詩風六脚韻にエピクロス的自然観を盛りこんだ哲学詩。古代思想の異彩たるこの派の原子論的唯物論の無比の文献である。** 青い帯にこのような紹介文があるが、このようなとっつきにくい内容の本をぼくは本当に読んだのだろうか。

当時は今以上に何でも読んでやれ精神が旺盛だったのかもしれない。


*1 国立の東西書店は2015年8月31日に閉店してしまった。ぼくの古い記憶に符合する書店が無くなってしまったのは実に残念だ。


松本市笹賀中二子の道祖神

2020-07-05 | B 石神・石仏


撮影日2020.07.05

 火の見櫓(1243)の脚元に祀られている道祖神。真円に近い枠内に衣冠姿の握手像が彫り込まれている。像に損耗は殆ど見られず、古いものという感じはしない。裏面には「中二子」という地域名と松本町の石工名が記されている。建立年は見当たらなかったが、松本が市政を施行し、松本市になった年は1907年(明治40年)だから、それ以前ということになる。

火の見櫓の脚元に道祖神が祀られていることは珍しくない。災いから集落を守るという役目も同じだ。

道祖神は塞の神(サエノカミ)とも呼ばれる。塞(サエ・サイ)は訓読みすれば「ふさぐ」だがこれは厄病神の集落内への進入路を塞ぐという意味と解して良いだろう。新型コロナウイルスの侵入も阻止してくれているのかもしれない。


中二子:なかふたご


1245 松本市笹賀上二子の火の見櫓

2020-07-05 | A 火の見櫓っておもしろい


1245 松本市笹賀上二子 3脚86型 撮影日2020.07.05

 前稿に載せた中二子の火の見櫓からおよそ700m南、上二子の火の見櫓。東西に延びる生活道路沿いに立っている。上は火の見櫓を西側から、下は東側から見た様子。絵になるのは上。手前の蔵が大きすぎてまとめにくいかもしれない。





急勾配の屋根のてっぺんの団子状の冠蓋(かんがい)に突き刺したような避雷針と矢羽形の風向計。梯子を踊り場の床からこのくらい突き出してあると昇り降りしやすい。このような配慮はうれしい。



このアングルだと屋根と見張り台の平面形が分かりやすい。伝えたいことを的確なアングルで撮りたい。



櫓の中にきっちり納めた踊り場。ここでも下側の梯子を床面より上まで伸ばしてある。



柱を円弧状に曲げた部材で繋いでいる。脚部のデザインとしてはオーソドックス。


 


1244 松本市笹賀中二子の火の見櫓

2020-07-05 | A 火の見櫓っておもしろい


1244 松本市笹賀中二子 3脚33型 撮影日2020.07.05



 まだまだ見ていない火の見櫓が自宅からそれ程遠くないところにある。長野道の塩尻北ICと松本ICの中間東側にある笹賀中二子の集落内に立っている火の見櫓。3角形の櫓に3角形の屋根、3角形の見張り台という組合せはこの辺りでは一般的なタイプ。



避雷針に細い丸鋼の小さい飾り、軒に同材の蕨手を付けてある。屋根の下にはすき焼き鍋のような双盤を吊り下げてある。隅切りをした3角形の見張り台。手すりはシンプル。



梯子は上端を広げて見張り台の鋼板製床の開口幅に合わせてある。



櫓中間の簡素な踊り場。




脚元に道祖神(別稿で紹介したい)を祀ってある。



ブレースの端部納め櫓の外側で留めている。これは珍しい。


 


永井荷風の「夢の女」を読み終えた

2020-07-05 | A 読書日記

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 永井荷風の『夢の女』(岩波文庫2019年第7刷)を読み終えた。

印象に残るくだりを引く。**お浪はあたかも人なき深山の谷川辺に行暮れたような心持になって悲し気に空の方を仰いで見ると、一天拭うが如く鏡の如き十三夜の月は丁度自分の頭の上に万里の清光を漲らせている。お浪は実(げ)に今宵ほど立派に晴れ渡って夜の大空をかくまで限りもなく広々と打仰ぐ機会はなかったに相違ない。玲朧(れいろう)たる月の世界や、烟にような天河の他に、ありとあらゆる天体は、尽く爛々たる怪光を放って、蒼穹(そら)の上に浮かんでいるのである。**(165、166頁) 

かつての東京にはこんな夜があったのだ。その空を仰ぎながら主人公のお浪は自身の境遇を思う。引用を続ける。

**しかし今この無窮なる空の有様を打仰ぎながら、なおも心の中に動いている長い過去の生活に接触すると、つくづく広い天地の間に、身一(みひとつ)の心細さを感ずると同時に、今日が日まで唯だ幻(うつつ)のように送って来た生活の夢から全く目が覚めたような心持がするのである。世に立つべき力なく思慮というものなき女の身一ッで、能く今日が日まで両親(ふたおや)と娘(*)に対して、重い責任を背負って来る事が出来たものだ。殆ど夢が夢中で何かしら自分の尽くすべきだけの事を尽くしていたなら、やがて知らず知らず人間最後の大い幸福(さいわい)の目的に達し得られるように思っていたが、吁、この世の中は決してそういうものではなかったろう。**(166,167頁)

* 筆者注:奉公先での不幸な出来事で身ごもってしまい、主人の妾に。この時まだ十代後半。波乱の人生が続く・・・。

23歳にしてこの境地を描いてしまう永井荷風。江藤 淳が『夏目漱石』を発表したのが22歳のときだったことに驚くが、永井荷風がこの『夢の女』を23歳で発表したということにも驚く。

後世に名を残す人はやはり才能がある、ということだ。