史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

石川町 Ⅱ

2010年02月15日 | 神奈川県
(外人墓地)


リチャードソンの墓

 時間があったので、外人墓地まで足を伸ばしてモレルやワーグマンの墓を詣でようかと思い付いた。ところが、外人墓地は十二月の末から三月第一週まで一般公開されていなかった。仕方なく再度リチャードソンの墓の写真を撮った。中に入らずとも塀越しに撮影することが可能である。
 長らく見ない間に、リチャードソンの墓には、「生麦事件犠牲者の墓」と刻んだ石柱が建てられ、その両脇には同じく生麦事件で負傷したクラークとマーシャルの墓が設けられていた。クラークとマーシャルの両人は、事件後も日本に留まり仕事を続け、日本で亡くなっている。もう一人の関係者ボロデール夫人は、事件後日本を離れイギリスに帰国した。そこで出産直後二十六歳で死去した。一説には生麦事件の衝撃が原因で精神的に変調を来たしていたともいわれる。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

保土ヶ谷 3回目

2010年02月15日 | 神奈川県
 久保山墓地に挑むこと四回目にしてようやく目的にたどりついた。結果からいうと、相鉄線の西横浜駅から久保山墓地に近づき、円満寺の脇から入った方が官修墓地には到達し易い。


長州藩士の墓

 ここに葬られている長州藩士は、戊辰戦争(白河、棚倉、会津若松)における戦傷死者である。当時の日本医学は銃創を治療する技術が未熟であったため、官軍の負傷者は横浜に送られ、横浜軍陣病院にてイギリス人医師ウイリアム・ウィリスの治療を受けた。このうち不幸にして亡くなった者は、西戸部の大聖院に埋葬されたが、久保山墓地が開かれた明治七年(1874)当地に移葬された。横浜軍陣病院は、六か月余で閉鎖され東京府大病院(のちの東京大学付属病院)へと引き継がれた。


土佐藩士の墓

 更に墓地を進むと、同じく戊辰戦争で戦死した土佐藩士の墓がある。墓石一つ一つには、墓の主がどこで受傷し、何月何日に死亡したかが細かに記録されている。中には軍夫と書かれたものもある。


西南戦争戦死巡査兵士の墓

 土佐藩士の墓域のすぐ近くに、西南戦争で戦死した巡査兵士の墓がある。中央の少し大きい墓は、新撰旅団第一大隊の伍長のものである。裏には「埼玉県士族」とある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横須賀 Ⅲ

2010年02月15日 | 神奈川県
(浄楽寺)


浄楽寺

 逗子駅からバスで片道三十分。浄楽寺の前島密の墓を訪ねるためだけに浄楽寺まで往復してきた。


前島密の墓

 浄楽寺バス停を降りると、そこは寺の門前である。「近代郵便制度創始者 前島密翁の墓所」と記された大きな標柱が建っている。本堂の裏手、阿弥陀三尊像をおさめた収蔵庫の前を通って墓地に出ると、前島密の墓がある。


前島密像

 前島密は、天保六年(1835)越後国中頸城郡津有村下池部(現新潟県上越市)に生まれた。現在、生家跡には前島記念館が建てられている。
 幕吏前島錠次郎の家を継いだ。十三歳で江戸にでて和蘭医学を学んだが、ペリー艦隊の来航に刺激を受けて幕臣下曽根金三郎に砲術、歩兵操練を学び、軍艦操練所に入った。安政六年には箱館丸に乗りこみ、日本周海の測量に従事した。のち出雲、福井、和歌山諸藩で機関士長となり、慶応元年(1865)には薩摩藩で英語教授、同三年には開成所教授に任用された。維新後は民部省に出仕し、イギリスに派遣された。帰朝後、郵便電信制度を立案実施した。その後も内務大輔、元老院議官を兼任して地租改正、度量衡改正などに関わった。明治十九年(1887)東京専門学校長、同二十一年、逓信次官、同三十六年男爵、同三十八年、貴族院議員。尺八、俳句、漢詩、築庭、書など多くの趣味を有し、晩年は余生を浄楽寺境内で過ごした。大正八年(1919)八十五歳で死去。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする