史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

赤羽

2010年02月11日 | 東京都
(大満寺)


大満寺

 地下鉄の赤羽岩淵駅を降りて直ぐの場所に大満寺がある。狭い境内の中に東久世通禧の歌碑がある。


東久世通禧歌碑

 東久世通禧は、いわゆる七卿の一人。王政復古の後、外国事務総督、神奈川県知事、開拓長官、侍従長、元老院副議長などの要職を歴任した。大満寺の歌碑は、明治三十一年(1898)に、佐々木信綱の指導を受け、当寺で歌会を催していた住職ほか、岩淵会の人々によって建立されたものである。

岩淵会の人々の歌に志あつきよしをききて
いはぶちのふかきこころにいそしみて
すゝみゆかなむ言乃葉のみち

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2010年02月11日 | 埼玉県
(蕨本陣)


蕨本陣

 蕨駅から市役所通りを真っ直ぐ行くと、旧中山道に交わる。蕨宿は中山道の第二の宿駅として発展した。今も旧中山道は、かつての街道の風情を残している。
 蕨市立歴史民俗資料館の横が蕨本陣跡である。文久元年(1861)十一月十三日、江戸に向かう皇女和宮は、ここで休息をとった。明治元年(1868)には、明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。


歴史民俗資料館 分館

 蕨本陣跡から数百㍍東京に寄ったところに在る蕨市立歴史民俗資料館の分館は、明治二十年(1888)築造された織物買継商の屋敷をそのまま転用したものである。

(三學院)


三學院

 三學院は、三重塔や阿弥陀堂などの伽藍を有する真言宗の寺である。


蕨宿関係墓石群

 墓地には、蕨宿本陣関係者の墓地がある。代々本陣を務めた加兵衛家と五郎兵衛家、脇本陣の新蔵家のものである。


伴門五郎之碑

 平成二十一年(2009)に新築された阿弥陀堂の裏には、伴門五郎碑が建てられている。伴門五郎は幕臣。徒士隊となって文久三年(1863)家茂に従って上洛し、慶応元年(1865)の長州征伐にも参加した。鳥羽伏見の戦争の後、徳川慶喜が謹慎を命じられると、檄文を発して同志を糾合し、彰義隊を結成した。門五郎は副頭取に就任して、上野で奮戦の末、戦死。三十歳だった。


成蹊石川直中之墓

 三學院正面の塀の前に石川直中の墓がある。石川直中は天保七年(1836)、江戸に生まれ、昌平坂学問所の儒官を務めた。明治三年(1870)、蕨で小学校設立の準備が始まると教師として迎えられ、以後、蕨や浦和の学校教授として教育に身を捧げた。明治二十三年(1890)、五十五歳でその生涯を閉じた。墓は高橋泥舟の書。

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東浦和

2010年02月11日 | 埼玉県
(旧高野家離座敷)


旧高野家離座敷

 風が強い日だった。私が武蔵野線で東浦和を離れた直後、強風のため武蔵野線が運転を見合わせることになり、まさに間一髪の差であった。


床の間

 東浦和駅からバスで七~八分、芝原というバス停付近の住宅街の中に、高野隆仙の旧宅が復原されている。もともとバス通り(赤山街道沿い)にあったものという。
 高野隆仙は、漢方医高野隆永の長男として、大間木村に生まれ、長じて江戸に出て、高野長英の学塾大観堂に学んだ。長崎に留学したあと故郷に戻り、父の後を継いで蘭方医として村人の診療に当たった。蛮社の獄で投獄された高野長英が、弘化元年(1844)に脱獄逃亡した際、板橋宿の蘭方医水村玄銅の家に一両日匿われたといわれるが、玄銅は高野隆仙の実弟である。
 やがて玄銅の家の周りを偵吏が徘徊するようになると、玄銅は長英を大間木村の隆仙の家に送り届けた。長英が高野家に潜伏したのは五~六日と言われているが、長英が郷里水沢を目指してここを立ち去った翌日、隆仙は捕縛され連日拷問を受けることになった。投獄から百日目に至ってようやく放免されたが、この間、大間木の村人たちは多額の寄付を集めて、隆仙の放免運動に奔走したと言う。その後、拷問による臀部の傷創が悪化し、安政六年(1859)十月永眠した。四十九歳。
 旧高野家離座敷は、隆仙が高野長英を匿ったといわれる建物で、平成十七年(2005)に解体修理復原工事が施されたものである。

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「龍馬を斬った男 幕臣今井信郎の証言」 今井幸彦著 新人物文庫

2010年02月11日 | 書評
タイトルからすると最近の龍馬ブームに便乗した本のように見えるが、実は今井信郎の孫に当たる今井幸彦氏(故人)が、昭和五十八年(1983)に刊行した“由緒正しい”書籍である。
やはり大半は、龍馬暗殺に費やされる。龍馬の暗殺については、後年谷干城が講演で語った内容がほとんど正史として流布している。例えば刺客が十津川郷士と書いた名札をもっていたこと、刺客が「こなくそ」と叫んで斬りつけたこと、そして蝋色の鞘一本と瓢亭の焼印のある下駄一足が残されていたことなどである。
著者は、谷干城の証言が誤りであることを丹念に反証していく。今井幸彦氏は、共同通信社に務め、ほかにも編著書や訳書を残している。共同通信社でどのようなお仕事をされていたかは分からないが、相当な筆力のある人だと思われ、ここでの論調は非常に説得力がある。ただ、龍馬暗殺の命令者に関して著者が行き着いた結論は、斬新ではあるがやや突拍子もない印象が強い。
今井信郎は、維新後キリスト教に入信する。実は、今井信郎とも交友のあった元新選組の結城無二三もキリスト教徒となった。幕末、殺人の刃を振るった人間は、贖罪の意識から宗教に走るものなのだろうと、勝手に想像していたのだが、著者は一つの興味深い仮説を提示している。
――― 信郎は“天皇”およびそれを中核として構成される新政府を尊敬することも、また信用することもできなかった。しかし“ふるさと”ともいえる徳川はすでに“生ける屍”にしかすぎない。その点キリスト教は、唯一神と個人との“契約”であり、その間に何者をも仲介として入ることを許さない。(中略)心の拠りどころを求めることは、終戦直後の人心と同様、切なるものがあったろう。

今井信郎といえば龍馬暗殺犯という印象が強くて、“非情の剣客”と思われがちであるが、維新後は、静岡県初倉村にて帰農し、村議や村長を務めるなど、高潔な人生を送り七十七歳で世を去っている。本書は一人の幕臣の人生を俯瞰するにも格好の書といえる。

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