史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

府中 Ⅲ

2010年02月20日 | 東京都

 昼休みに会社の地下食堂で並んでいると、前にいた女子社員が振り返り
「ホームページ見ましたけど、お墓が好きなんですか」
と突然質問を受けた。
「好きか嫌いかと言われれば、嫌いではないですが…」
と返したところ、
「パソコンのスクリーン・セーバーがお墓って本当ですか?」
と、思わぬ突っ込みを受けた。質問をした女子社員は、まるで爬虫類でも見るかのような眼をこちらに向けている。確かにお墓は大好きだが、スクリーン・セーバーにするほど悪趣味ではない。どうやら社内ではあらぬ噂が広がっているらしい。早いうちに誤解はといておかねば…。
 とはいえ「お墓が好き」であることは間違いのない事実である。この日も久し振りに多磨霊園での墓巡りを楽しんだ。


本多家墓
(本多忠民の墓)

 本多忠民(ただもと)は、幕末の岡崎藩主である。寺社奉行を経て、安政四年(1857)京都所司代に就任。日米修好通商条約締結に奔走した。万延元年(1860)から二年老中に就任し、一旦辞任したが元治元年(1864)再任された。岡崎藩は譜代中の譜代であり、それまで藩論は佐幕に統一されていたが、鳥羽伏見に旧幕軍が敗れると、以後新政府恭順を貫いた。忠民は明治二年(1869)に隠居して家督を譲り、明治十六年(1883)、東京にて死去。六十七歳。菩提寺は浅草誓願寺であったが、関東大震災で焼失し、墓は多磨霊園に移された。


松平家墓
(松平健雄の墓)

 松平容保の次男松平健雄や、その子で参議院議員や福島県知事を務めた松平勇雄の墓である。健雄は伊佐須美神社(会津美里町)の宮司を務めた。


床次家之墓(左)
床次竹二郎之墓
(床次正精の墓)

 中央は大正から昭和初期の政治家床次竹二郎の墓である。右の墓に父床次正精が葬られている。床次正精は、司法官として勤務する傍ら、若い頃長崎で接した油絵に傾倒し数々の作品を残した。中でも注目すべきは西郷隆盛の肖像画である。夙に知られている通り、西郷は写真嫌いで一枚も肖像写真を残していない。後世の我々は、キヨソネの肖像画や上野の銅像(高村光雲作)で西郷隆盛の風貌を刷り込まれているが、キヨソネも高村光雲も西郷と面識はなかったので、どこまで真の姿を伝えているか心許ない。然るに床次正精は生前の西郷と面識があっただけに、彼の描く西郷像は真実性が高いと言えよう。床次の残した西郷の肖像は軍服姿である。大きな眼と太い眉毛と濃い顎鬚、そして堂々たる体躯はイメージ通りである。


本多家之墓
(本多康穣の墓)

 本多康穣(やすしげ)は、いわゆる膳所城事件(慶応元年(1866))の際の膳所藩主である。その後、時局の変遷に従い勤王へと態度を変え、鳥羽伏見戦では官軍側として出兵。そののちも桑名藩討伐の先鋒を務め、越後へも派兵した。明治四十五年(1912)七十八歳にて病没。


勝田家
(勝田孫弥の墓)

 鹿児島出身の歴史家勝田孫弥の墓である。勝田孫弥は「西郷隆盛伝」や「大久保利通伝」「甲東逸話」など、今日の維新史研究の基礎となる文献を著した。


中村家之墓
(鈴木五郎の墓)

 多磨霊園18区というと、広大な霊園の敷地の中でもかなり「ヘリ」の方である。その一角に会津藩士末裔の方の墓がある。墓石の裏面に祖先白虎隊士鈴木五郎の事歴が刻まれる。鈴木五郎は、明治元年(1868)九月十五日、門田一ノ堰の戦争で重傷を負い、同年十一月雨屋にて死亡した。十六歳。


安藤家之墓
(安藤真裕の墓)

 安藤真裕は、和歌山藩付家老。のちに田辺藩主。菊千代(のちの慶福)がわずか四歳で紀州藩主に就くと、水野忠央らとともに輔導の任に当たった。慶応二年(1866)長州再征には前軍総督となり出陣、石州口で戦って敗れた。明治元年(1868)田辺藩が立藩されると藩主となり、版籍奉還により知藩事に任じられた。明治十八年(1885)死去。


田中義一墓

 田中義一は、元治元年(1864)萩の下級藩士の家に生まれた。陸軍士官学校、陸軍大学校に学ぶ。日清・日露戦争にも従軍した。大正七年(1918)原内閣の陸軍大臣として入閣し、山県有朋系の実力者として陸軍に大きな影響力を有した。昭和二年(1927)首相として内閣を組織したが、翌昭和三年(1928)関東軍による張作霖爆殺事件が起きると、陸軍を抑えきれず内閣総辞職に追い込まれた。それから三カ月も経たないうちに急性狭心症で死亡した。

(普賢寺)


普賢寺


竹遥海保先生之墓

 多磨霊園の東側、普賢寺に海保漁村の墓がある。普賢寺は、江戸本所から移転したものである。
 海保漁村は、寛政十年(1798)横芝光町北清水に生まれた。江戸で大田錦城に学び、二十七歳のとき師の勧めで江戸下谷に塾を開いた。その後、佐倉藩主堀田正睦に儒学を講義するようになった。安政四年(1857)幕府の医学館教授となった。門弟には鳩山和夫(鳩山由紀夫首相の曾祖父)、渋澤栄一らがいる。慶応二年(1866)六十九歳にて没。

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