史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

箕面

2010年02月02日 | 大阪府
(寒山寺)


寒山寺


内山家墓

 寒山寺は、阪急箕面駅から徒歩五分の場所にある。もともと大阪市内にあったのが、昭和四十年代にこの地に移転してきたものらしい。内山家の墓石は一か所にまとめられていて、その中の一角、右上の大きな墓が内山彦次郎のものという。墓石には「大機院殿之道玄昌居士」という戒名が刻まれている。
内山彦次郎は、大阪西町奉行所与力で、有能な人物だったようである。天保八年(1837)の大塩平八郎の乱にも出動して功があった。元治元年(1864)五月、大阪天神橋のたもとで首を奪われ殺害された。犯人は新選組とも言われているが異論もある。前年、大阪に出張中の新選組と、小野川部屋力士との乱闘騒ぎがあった。この事件を吟味した内山と新選組の間で遺恨が生まれ、内山が殺害されたというのである。

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阪南

2010年02月02日 | 大阪府
(境橋)


日本最後の仇討ち場

 JR阪和線の山中渓駅を降りると、目の前を走る道が旧紀州街道である。紀州街道は、当時和泉と紀伊とを結ぶ唯一の街道であった。駅の周縁には、山中宿という宿場町があった。山中宿には、本陣をはじめ二十軒を越える旅籠があり、紀州徳川家の参勤交代時には近郷から三千人もの人夫、助人がここに集まったという。殷賑を極めた山中宿であるが、現在は山間の静かな集落となっている。


紀州街道

 駅を出て二十分ほど和歌山方面に向かって歩くと、和歌山県との県境付近に「最後の仇討ち場」と書かれた石碑が置かれている。
 安政四年(1857)、土佐藩士広井大六は、同藩士棚橋三郎に口論の末、斬り捨てられた。
 大六の子、広井磐之助は江戸に申し出て、いわゆる仇討ち免許状を与えられた。磐之助は、加太に棚橋三郎が潜伏しているとの情報を得て、紀州藩に仇討ちを申し出たところ、紀州藩より棚橋を藩境より追放するので、和泉側で仇討ちをするのであれば苦しからずとの回答を得た。文久三年(1863)、磐之助は境橋付近で棚橋を待ち受け、見事に本懐を遂げた。
 石碑に書かれている解説によれば、この仇討ちは、「最後の仇討ち」と呼ばれているらしい。
 ただし、インターネットで検索すると、「最後の仇討ち」と称する事件は全国に多数あるようである(玉名、東京、金沢、高野山等々)。少なくとも明治六年(1873)二月に仇討ち禁止令が発布されるまで、未だ十年近くの時間があり、広井磐之助の事件を「最後の」とするのは無理があるかもしれない。

 広井磐之助は、坂本龍馬とも親交があった。龍馬は、磐之助が仇を捜しているのを見て、勝海舟に行方を探してもらうよう要請したと言われる。

 阪和線の各駅停車は、一時間に三本くらいしか走っていない。二本あとの列車に乗るため、和歌山県境までの片道約2㎞(往復4㎞)をわずか四十分で往復した。真冬というのに汗が吹き出た。

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和歌山 Ⅱ

2010年02月02日 | 和歌山県
(海善寺)


海善寺

 海善寺には、国学者にして歌人加納諸平(もろひら)の墓がある。


加納諸平墓

 加納諸平(もろへい)は、文化三年(1806)、遠江国白須賀にて生まれた。父は国学者夏目甕麿。文政二年(1819)和歌山に移り、天保二年(1831)以降、和歌山藩の命により「紀伊風土記新撰」の編纂に関わった。その後も歌集の編纂、藩の国学所総裁などに尽した。安政四年(1857)、五十二歳にて没した。門下から、飯田年平、伴林光平ら尊攘派歌人を輩出している。

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粉河

2010年02月02日 | 和歌山県
(粉河寺)
 週明けに新居浜出張が入ったので、金曜日の夜、大阪に移動して、高槻の実家を拠点に近畿の史跡を回ることにした。初日は、和歌山県の粉河(紀の川市)、和歌山、山中渓(阪南市)、古市(羽曳野市)を、二日目に箕面と京都市内を精力的に探索した。さて、週明けに新居浜に移動しようというときに、悪寒に襲われ、高熱と嘔吐で動けなくなった。結局、新居浜出張は取り止めとなり、両親からは
「高槻に病気療養に来たのか」
と揶揄される始末。夜間診療の医者の診断によれば、ウィルス性の胃腸炎ということであったが、本当にひどい目に遭った。新居浜に行かずに、すごすごと東京に引き返すことになったが、当初計画した史跡をほぼ全て回ることができたのはせめてもの収穫であった。


粉河寺大門

 粉河は、和歌山で和歌山線に乗り換えて三十分。高槻の実家から、途中特急を利用しても、片道三時間強という時間距離である。
 粉河の駅を降りて、北側に真っ直ぐ歩くと十分ほどで朱塗りの大門が見える。ここは粉河寺の玄関に過ぎない。更に歩を進めると、天保三年(1832)に建立された中門に至る。粉河寺は、天正十三年(1585)豊臣秀吉の起こした兵乱により伽藍と寺宝を焼失したが、江戸期を通じて紀州徳川家の厚い庇護を受けて繁栄を誇った。


粉河寺本堂


粉河寺庭園


阿弥陀如来座像

尊攘浪士に命を狙われた絵師冷泉為恭は、粉河寺に潜伏した。為恭が潜居したのは、阿弥陀如来像の背後にある御池坊の庭園であるが、残念ながらこの庭園は非公開であった。

(九頭神社)
 粉河に潜伏したのは、冷泉為恭だけではない。吉田松陰、梅田雲濵、頼三樹三郎とも親交のあった森田節斎も、門下から乾十郎、原田亀太郎ら、天誅組の乱の首謀者を出したことから、幕府から追われることになり粉河荒見に身を隠した。


紀の川

 粉河駅から南に向かう。紀の川を渡れば荒見の集落である。
 実はここから森田節斎の墓まで行き着くのが苦難の道のりであった。一人の老人に尋ねると
「儂も探してるんだけど、分からないんじゃよ。九頭神社に石碑が建っているけどな。」
というので、取り敢えず九頭神社への道程を教えてもらった。地元の人でも分からないということから、この時点でかなりの難易度が予想された。
 老人のいうように、言われた道をまっすぐ行って、突き当たりを右に折れると神社の鳥居が現れた。この神社の境内に森田節斎の顕彰碑が建てられている。


節斎森田先生之碑

 石碑の前に、節斎の墓への簡単な地図があるが、これが当てにならない。ここから節斎の墓へ、尋ねるにも道に人影無く、ひたすら己の勘だけを頼りに探すしかなかった。これまで経験した中でも三本の指に入る難易度であった。

(北家墓地)
 森田節斎の墓は、彼が身を潜めた北家の墓地内にある。森田節斎は、北長左衛門の家で世話になりながら、簡塾という塾を開いて近所の子弟の教育に当たった。この墓は、門人の一人北淳太郎が建てたもので、中央に妻無弦、向かって右には長男司馬太郎の墓が並べられている。


森田節斎先生墓(左)
無弦墓(中)
森田司馬太郎墓(右)

 節斎は、慶応四年(1867)七月、この地で息を引き取った。年五十八。


北淳太郎墓

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