(日赤病院)
佐野常民胸像
芝の日赤病院に日本赤十字社初代社長佐野常民の胸像がある。佐野常民は、文政五年(1822)、佐賀藩士下村充贄(みつよし)の五男に生まれた。のちに藩医佐野常徴(つねみ)の養子となって、以後佐野姓を名乗った。慶應三年(1867)のパリ万国博覧会に派遣され、そこで赤十字館を見学したことが赤十字との出会いとなった。維新後は工部省に出仕し、明治六年(1873)ウィーンで開催された万国博覧会に派遣され、再び赤十字館の展示を見学してその発展に感銘を受けた。帰国後の明治八年(1875)、元老院議官に任命された。明治十年(1877)の西南戦争で負傷者が続出しているとの報に接し、我が国でも赤十字と同じ救護組織を作ることを考え、大給恒らとともに博愛社を設立した。明治二十年(1887)、博愛社が日本赤十字社と改称したとき、初代社長に就任している。
佐野常民胸像
芝の日赤病院に日本赤十字社初代社長佐野常民の胸像がある。佐野常民は、文政五年(1822)、佐賀藩士下村充贄(みつよし)の五男に生まれた。のちに藩医佐野常徴(つねみ)の養子となって、以後佐野姓を名乗った。慶應三年(1867)のパリ万国博覧会に派遣され、そこで赤十字館を見学したことが赤十字との出会いとなった。維新後は工部省に出仕し、明治六年(1873)ウィーンで開催された万国博覧会に派遣され、再び赤十字館の展示を見学してその発展に感銘を受けた。帰国後の明治八年(1875)、元老院議官に任命された。明治十年(1877)の西南戦争で負傷者が続出しているとの報に接し、我が国でも赤十字と同じ救護組織を作ることを考え、大給恒らとともに博愛社を設立した。明治二十年(1887)、博愛社が日本赤十字社と改称したとき、初代社長に就任している。