史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

御成門 Ⅱ

2012年07月16日 | 東京都
(日赤病院)


佐野常民胸像

 芝の日赤病院に日本赤十字社初代社長佐野常民の胸像がある。佐野常民は、文政五年(1822)、佐賀藩士下村充贄(みつよし)の五男に生まれた。のちに藩医佐野常徴(つねみ)の養子となって、以後佐野姓を名乗った。慶應三年(1867)のパリ万国博覧会に派遣され、そこで赤十字館を見学したことが赤十字との出会いとなった。維新後は工部省に出仕し、明治六年(1873)ウィーンで開催された万国博覧会に派遣され、再び赤十字館の展示を見学してその発展に感銘を受けた。帰国後の明治八年(1875)、元老院議官に任命された。明治十年(1877)の西南戦争で負傷者が続出しているとの報に接し、我が国でも赤十字と同じ救護組織を作ることを考え、大給恒らとともに博愛社を設立した。明治二十年(1887)、博愛社が日本赤十字社と改称したとき、初代社長に就任している。

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阿佐ヶ谷 Ⅱ

2012年07月16日 | 東京都
(神明宮)


神明宮

 二年ほど前から「みちくさ学会」というものに参加している。といっても、数か月に一度くらいの頻度で投稿している程度のものであるが、時折、事務局の方から史跡に関する情報を頂戴する。阿佐ヶ谷の神明宮に勝海舟の直筆の額があるというので、早速行ってみた。阿佐ヶ谷駅は、毎日通過しているが、ここで下車するのは滅多にない。
JR阿佐ヶ谷駅北口を出て数分のところに神明宮がある。本殿にお目当ての海舟直筆の額が掲げられている。


勝海舟直筆「天壌無窮」

 「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」とは、『天地とともに永遠に極まりなく続くさま』をいう。

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志村坂上

2012年07月16日 | 東京都
(総泉寺)


総泉寺

 総泉寺は、もと浅草にあったが、関東大震災で被災して昭和三年(1928)に現在地に移転した。創立は、建仁元年(1201)という長い歴史を持つ寺で、江戸期には江戸三刹の一つとして幕府の庇護を受けることになり、秋田藩主佐竹氏の江戸での菩提寺となった。
 先のゴールデン・ウィークに秋田を回ってきたこともあり、東京に在るという佐竹藩の菩提寺を訪ねることにした。


従四位勲六等男爵佐竹義脩墓

 いくら墓地を歩いても、佐竹義尭の墓は見つけられなかった。恐らく移転したのであろう。墓地には、義尭の跡を継いで佐竹氏三十一代当主となった佐竹義脩のほか、秋田藩に所縁のある墓が散見される。
 佐竹義脩(よしなお)は、中村藩の重臣熊川家に生まれ、のちに秋田藩義尭の養子となった。明治五年(1872)、義尭の隠居に伴い家督を継いだ。明治十四年(1881)、隠居して養父佐竹義尭に譲り、自らは岩崎藩(旧秋田新田藩)佐竹氏に復籍した。明治二十六年(1893)四十歳にて死去。


秋田 佐藤時之助忠正墓

 戊辰戦争で官軍の一員として参戦した秋田藩には、戦後五十万両という多額の借金が残った。困った秋田藩では、ニセ金を造って苦境と切り抜けたが、明治三年(1870)八月に発覚し、翌年十二月に首謀者として会計幹事であった佐藤時之助が逮捕された。佐藤時之助は、その後刑務所で死亡するが、責任を取って自殺したといわれる。五十一歳であった。


秋田 大縄織衛之墓


 大縄織衛は、秋田藩士。江戸詰勘定奉行に任じられ、藩財政の立て直しに取り組むが失敗。維新後は、旧藩士の救済に尽し、石油採掘事業にも手を出したが、これもうまくいかなかった。明治十五年(1882)死去。七十一歳。

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