(寿仙寺)
寿仙寺
金子(与三郎)六左衛門平清邦墓
寿仙寺には金子与三郎の墓がある。金子与三郎が歴史の水面に顔を出したのは、同じ出羽出身の清河八郎の暗殺の場面である。
文久三年(1863)四月十三日、この日、学友金子与三郎に招かれた清河八郎は、金子の酌で酒を飲み、したたかに酔った。その帰り道、見廻組の佐々木只三郎に斬殺された。まさに策士が策に陥った典型であった。
(浄光寺)
浄光寺
浄光寺は、上山藩主松平(藤井)氏の菩提寺で、松平家の墓地がある。
松平家墓所
官軍墳墓
菅谷友尉之墓 谷野廣年之墓
菅谷友尉、谷野廣年ともに、上山藩の兵卒である。
(武家屋敷)
曽我部家
上山城の西北部一帯には、武家屋敷が広がり、仲丁通りには藩の要職にあった家臣が居住していた。現在は、森本家、三輪家、山田家と旧曽我部家の四軒のみが往時のたたずまいを伝えている。
藩校明新館跡
武家屋敷の一角に藩校明新館跡石碑が建っている。上山藩では、文化六年(1809)に藩校天輔館が開かれたが、天保十一年(1840)、古学から朱子学に移るにおよび、幕府儒官林大学頭により明新館と改名された。
(上山城)
上山城
上山市街の中心部にある月岡公園が上山城跡である。城は東に前川、西に大沼、南に牛沼を配置した自然の要害であった。三層の天守閣を備えた華麗な城郭だったというが、十七世紀末に土岐氏が転封され、幕府領となるに至り、城郭の大半が破却され、そのとき天守閣も取り壊され、以来、再建されることはなかった。現在見ることができる城は、昭和五十七年(1982)に二ノ丸跡に再建されたものである。
上山藩は松平氏三万石の城下であったが、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加したため、戦後三千石を減封された。幕末の藩主は、松平(藤井)信安である。
金子(与三郎)得處頌徳碑
上山城には金子与三郎の顕彰碑が建っている。得處は、金子の雅号。金子与三郎は、文政六年(1823)に上山に生まれ、藩校天輔館に学んだ後、仙台に遊学し、二十一歳の時、江戸に出て幕府の昌平黌に入った。弘化三年(1846)に帰藩して藩校明新館助講師を経て、さらに徒頭格となったが、嘉永五年(1852)全国漫遊の旅に出た。この間、清河八郎や雲井龍雄などとも親交を持ったというが、金子の意見は終始公武合体論であった。安政元年(1854)に赦されて藩に戻り、兵制、農政に画期的な治績をあげた。慶応三年(1867)十二月の三田薩摩藩邸襲撃の幕命を受けて上山藩兵の指揮をとり、その際の格闘で重傷を負い、翌日死去した。四十五歳であった。
ここまで来たところで、今回のゴールデン・ウィークの史跡訪問は終了。本当は、このあと米沢まで行く計画だったが、降り出した雨に気勢を削がれた。結果からいえば、雨はさほどひどくならなかったので、十分米沢の史跡を回っても問題はなかった。しかし、五日をかけて秋田県内から遊佐、酒田、新庄、舟形、尾花沢、東根、河北、寒河江、大江、中山、天童、山形と巡ってきた私には、気力を補うだけの体力が残されていなかった。この五日間、毎朝四時半に目を覚まし、五時には第一目的地に着いていた。ほとんど昼食も取らずに、六時過ぎまで史跡を訪ね歩いたのである。さすがに疲労感も残ったが、一方で充実感もかみしめながら、八王子への帰途に就いた。

寿仙寺

金子(与三郎)六左衛門平清邦墓
寿仙寺には金子与三郎の墓がある。金子与三郎が歴史の水面に顔を出したのは、同じ出羽出身の清河八郎の暗殺の場面である。
文久三年(1863)四月十三日、この日、学友金子与三郎に招かれた清河八郎は、金子の酌で酒を飲み、したたかに酔った。その帰り道、見廻組の佐々木只三郎に斬殺された。まさに策士が策に陥った典型であった。
(浄光寺)

浄光寺
浄光寺は、上山藩主松平(藤井)氏の菩提寺で、松平家の墓地がある。

松平家墓所

官軍墳墓
菅谷友尉之墓 谷野廣年之墓
菅谷友尉、谷野廣年ともに、上山藩の兵卒である。
(武家屋敷)

曽我部家
上山城の西北部一帯には、武家屋敷が広がり、仲丁通りには藩の要職にあった家臣が居住していた。現在は、森本家、三輪家、山田家と旧曽我部家の四軒のみが往時のたたずまいを伝えている。

藩校明新館跡
武家屋敷の一角に藩校明新館跡石碑が建っている。上山藩では、文化六年(1809)に藩校天輔館が開かれたが、天保十一年(1840)、古学から朱子学に移るにおよび、幕府儒官林大学頭により明新館と改名された。
(上山城)

上山城
上山市街の中心部にある月岡公園が上山城跡である。城は東に前川、西に大沼、南に牛沼を配置した自然の要害であった。三層の天守閣を備えた華麗な城郭だったというが、十七世紀末に土岐氏が転封され、幕府領となるに至り、城郭の大半が破却され、そのとき天守閣も取り壊され、以来、再建されることはなかった。現在見ることができる城は、昭和五十七年(1982)に二ノ丸跡に再建されたものである。
上山藩は松平氏三万石の城下であったが、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加したため、戦後三千石を減封された。幕末の藩主は、松平(藤井)信安である。

金子(与三郎)得處頌徳碑
上山城には金子与三郎の顕彰碑が建っている。得處は、金子の雅号。金子与三郎は、文政六年(1823)に上山に生まれ、藩校天輔館に学んだ後、仙台に遊学し、二十一歳の時、江戸に出て幕府の昌平黌に入った。弘化三年(1846)に帰藩して藩校明新館助講師を経て、さらに徒頭格となったが、嘉永五年(1852)全国漫遊の旅に出た。この間、清河八郎や雲井龍雄などとも親交を持ったというが、金子の意見は終始公武合体論であった。安政元年(1854)に赦されて藩に戻り、兵制、農政に画期的な治績をあげた。慶応三年(1867)十二月の三田薩摩藩邸襲撃の幕命を受けて上山藩兵の指揮をとり、その際の格闘で重傷を負い、翌日死去した。四十五歳であった。
ここまで来たところで、今回のゴールデン・ウィークの史跡訪問は終了。本当は、このあと米沢まで行く計画だったが、降り出した雨に気勢を削がれた。結果からいえば、雨はさほどひどくならなかったので、十分米沢の史跡を回っても問題はなかった。しかし、五日をかけて秋田県内から遊佐、酒田、新庄、舟形、尾花沢、東根、河北、寒河江、大江、中山、天童、山形と巡ってきた私には、気力を補うだけの体力が残されていなかった。この五日間、毎朝四時半に目を覚まし、五時には第一目的地に着いていた。ほとんど昼食も取らずに、六時過ぎまで史跡を訪ね歩いたのである。さすがに疲労感も残ったが、一方で充実感もかみしめながら、八王子への帰途に就いた。