史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小田原 Ⅲ

2012年07月21日 | 神奈川県
(大乗寺)


大乗寺

 長谷川伸「相楽総三とその同志」(中公文庫)によれば、三田薩摩藩邸に集合し、庄内藩を中心とした幕府方に襲撃された浪士たちは、ある者は薩摩藩の軍艦翔鳳丸で逃走し、それに乗船できなかった一部の者は陸路を西へ向かった。そのうちの三名(栗林芳五郎、早川均、坂本嘉三郎)が「小田原藩の手により弥勒寺というところで斬られ、後に小田原竹ヶ鼻の大乗寺の住僧がその首を埋葬して墓碑を建てた」という。早速、小田原駅近くの大乗寺へ行ってみたが、残念ながらそれらしい墓碑は発見できなかった。無縁墓石群も舐めるように探したが、そこにもそれらしい墓は無かった。小田原市内にはほかに「大乗寺」という寺院はないので、ここで間違いないと思うのだが…。

(大連寺)


大運寺


戦死之墓

 大連寺には遊撃隊士の墓がある。葬られているのが誰だか今のところ不明。

(鈍翁in西海子)


益田鈍翁in西海子

 小田原文学館の近くの住宅街の中に益田鈍翁の茶具や掛け軸を展示する「益田鈍翁in西海子(さいかち)」がある。
 益田鈍翁、すなわち益田進、のちの三井物産創始者益田孝である。鈍翁は茶人としての名前である。
 個人的には、益田進が父益田鷹之助の従者として、十六歳の若さで文久三年(1863)の遣欧使節に加わったことが記憶に残っている。何かそのときのものが残っていないかと期待して入ったが、展示されているのは茶道具が大半であった。
 中に入ると、館内は電気が落とされ、人の気配もない。直ぐに管理人さんが現れ、丁寧に説明してくださった。十六歳の時にフランスで飲んだ紅茶が忘れられず、のちに小田原板橋に掃雲台と称する別邸を建築したとき、敷地内に紅茶の栽培製造設備を構えたという。益田孝が、貿易や物流の重要さを学んだのは、若き時代に訪ねたパリにおいてではないのかと想像しているのだが、根拠はない。

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小田原 早川

2012年07月21日 | 神奈川県
(真福寺)


真福寺


忠幹院勇譽猛進居士
(高橋藤太郎之墓)

 JR早川駅から真福寺まで徒歩七~八分である。境内に、小田原藩士高橋藤太郎の墓がある。高橋藤太郎は、慶應四年(1868)五月二十六日、箱根湯本における戦闘で幕軍伊庭八郎と戦い、その左手を斬り落としたと伝えられる。高橋もその戦闘で戦死した。二十歳。

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日暮里 ⅩⅦ

2012年07月21日 | 東京都
(宗林寺)


宗林寺


佐々木只三郎・源四郎歌碑

 菊地明著「京都見廻組秘録」(洋泉社歴史新書)に宗林寺の佐々木只三郎・源四郎兄弟の歌碑が紹介されていたので、早速宗林寺を訪れた。まだ、この本を読破したわけではないが、佐々木只三郎という歴史に埋もれた人物を発掘する著者の手腕に感心した。佐々木只三郎という人は、当初は見廻組の幹部の一人に過ぎなかったが、次第に頭角を現し、いつしか組織を掌握して実質的にリーダーとなっていったものと思われる。
 本書によれば、宗林寺にこの歌碑が建立されたのが平成十六年(2004)というから、比較的最近のことである。しかし、見たところ相当の風雪にさらされていたことは間違いなく、それ以前はどこかほかの場所にあったのであろうか。それにしても何故、この場所に建てられたのか、それさえも不明である。歌碑の裏面には、只三郎の妻美津の名前が刻まれている。美津は紀州藩士の娘という。

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