史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「箱館戦争」 加藤貞仁著 無明舎出版

2012年07月06日 | 書評
同じ著者の「戊辰戦争とうほく紀行」「戊辰戦争と秋田」に継ぐ作品。言わば戊辰戦争シリーズの完結編といったところか。
末尾の十頁に及ぶ長文の「あとがき」に著者の戊辰戦争への思いが垣間見える。「戦争は悲劇の積み重ねである」「戊辰戦争は回避できたはずだ」「戊辰戦争は前将軍徳川慶喜を殺すことがためらわれた薩長勢力が、代わりの血を求めて『売った喧嘩』」という言葉の数々は、東北六県から北海道を自分の足で取材した著者ならではの実感のこもったもので、説得力がある。
いずれ箱館戦争の戦跡を探訪したいという想いは募るが、一方でかなり綿密に計画を立てないと短期間で回るのは厳しい。当面は下調べに時間を費やすこととしたい。

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「維新前夜」 鈴木明著 小学館ライブラリー

2012年07月06日 | 書評
この本の初版が刊行されたのは、平成四年(1992)であるから、ほぼ二十年前ということになる。今や、入手困難な本になってしまったが、スフィンクスの三十四人の侍が並ぶ写真を見たことのある方は多いだろう。この写真が撮られたのは、元治元年(1864)二月のこと。侍一行は、池田筑後守信発を正使とする遣欧使節団である。
幕府は、幕末に三度の遣欧使節を送っている。一回目が竹内下野守保徳を正使とする文久元年(1861)の使節団である。二回目がこの本で描かれている池田使節団。三回目は、慶應二年(1865)パリ万博に参加するために送られた有名な徳川昭武の一行である。三度の遣欧使節団の中では、池田使節団は一番地味な印象を受けるが、三十四人の中には益田孝(三井物産初代社長)や田辺太一、塩田三郎、尺振八ら、維新後も活躍した多彩な人材が参加していた。
この本の主人公は、今紹介した史上有名な人物ではない。三宅復一(のちの我が国初の医学博士三宅秀)と名倉予何人(あなと)という、比較的マイナーな人物の眼を通して、幕末人がどのようにヨーロッパ文明に対峙したかを活き活きと描き出した。
現代の我々でも、海外に出ると見るもの聞くもの目新しく、刺激を受けない人はいない。外国に出る前にその国の情報を十分過ぎるくらい持っている我々ですらそうなのであるから、西洋文明をほとんど知らない彼らが、当時どれほどの衝撃を受けたか、想像を絶する。その中で彼らは動揺した様子を一切面に出さず、背筋を伸ばしてパリの街を歩んだ。その姿もまた感動的である。

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「京都見廻組秘録」 菊池明著 洋泉社歴史新書

2012年07月06日 | 書評
“新選組のライバル”と呼ばれる一方で、見廻組のことは余りに知られていない。知られているとしても、精々、坂本龍馬暗殺の実行犯という程度のことであろう。
著者菊池明氏は新選組研究の第一人者である。豊富な史料をひも解いて、見廻組の姿を浮き彫りにしていく。この辺りの手腕はさすがである。
幕府は江戸の街に溢れる不逞浪士対策に手を焼いていた。よく知られているように、浪士をひとまとめにして京都の治安に当てようと、言わば一石二鳥を狙ったのが、新選組結成の動機である。一方の見廻組は、御家人から構成されている。実は御家人という非生産階級は、幕府財政にとって頭の痛い問題であった。大量の“ただ飯喰い”を不足している京都の治安部隊に充てようというのが見廻組である。構成員は異なるが、そもそもの誕生の動機は両者似通ったものがある。
見廻組といえば、佐々木只三郎であるが、最初からこの男が、見廻組のトップだったわけではない。見廻組は、一人の見廻役の下に二人の与頭、その下に三人の与頭勤方、以下に肝煎とそれを輔佐する肝煎助という指示系統であったが、その中で佐々木只三郎は、与頭勤方の一人に過ぎなかった。しかし、組織の中で次第に頭角を現し、いつしかこの男無くして見廻組を動かすことはできないところまで存在感を増していったのである。そして慶應元年(1865)十二月には与頭に昇進して、名実ともに見廻組のトップに立つ。
本書では有名な坂本龍馬暗殺にも一章を割いて触れている。ここでの主題は「実行部隊は誰か」である。著者は、少ない「証拠物件」から「真犯人」を特定していく。この下りは、まるで推理小説を読むように面白い。
本書では、佐々木只三郎の最期の解明にも頁を割いているが、正直にいって、佐々木只三郎の死が何月何日で、どこだったのかという問題は個人的にはさほど重要問題ではない。興味を引いたのは、紀三井寺の墓と会津武家屋敷にある墓は、どこからどう見てもコピーであるが、その訳をこの本で初めて知った。現在、会津武家屋敷にある墓は、紀三井寺で発見された墓で、発見当時二つに折れていたのを接合したもの。現在、紀三井寺にある墓は、旧墓の拓本から忠実に再現されたものという。道理で見た目は寸分同じなわけである。

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「相楽総三とその同志」 長谷川伸著 中公文庫

2012年07月06日 | 書評
ついにこの本を手に入れた。ネットで検索していると、たまたま八王子の古書店に在庫があることが分かったので早速注文した。八王子というところに何かの縁を感じた。数日して実物が届いた。よく確認せずに注文した私が悪いのだが、届いたのは上巻だけだった。
もう一度ネットで探すと、吉祥寺の古書店に在庫があることが判明した。今度は上下巻揃っていた。週末、吉祥寺まで行ってようやく手に入れた(上下巻で二千円でした)。

著者長谷川伸は、この本のことを「紙の記念碑」「筆の香華」と呼んでいる。
長い物語は、相楽総三の遺子河次郎の子、(つまり総三の孫)木村亀太郎が、総三の雪冤のために立ち上るところから書き起こされる。亀太郎は、知己を頼って時の高官である元帥大山巌や板垣退助、南部甕男、渋沢栄一らを訪ね、次第に真相を明らかにしていく。亀太郎は、決して経済的に余裕のある生活を送っていたわけではないが、顔も見たことのない祖父の雪冤のために奔走する。いったいこの執念はどこから生まれたのだろうか。
しかし、五十年以上も前の出来事を証明するのは容易ではない。まだ維新の生き残りがいた時代ではあったが、せっかく探し当てた生き証人が、相楽総三という名前を聞いただけで硬く口を閉ざすこともあった。
相楽総三没後六十年以上を経て、ようやく総三以下赤報隊の面々は、靖国に合祀されることになった。
それにしても、相楽総三が浪士を糾合して起こした幕末の騒乱については、あまり知られていないし、小説やドラマに取り上げられることも少ない。大きく分けると、野州出流山と相州荻野山中陣屋、甲州の三カ所で挙兵するという壮大な計画であった。出流山の挙兵は呆気なく鎮圧され、甲州へ派遣された部隊は間諜の密告により八王子で壊滅した。荻野山中陣屋を襲撃した部隊は、直ぐに三田薩摩藩邸に引き返したため、さしたる衝撃を与えぬままであった。その間、我々が知らない無名の志士が、数知れず命を落とした。長谷川伸は、その一人ひとりの行く末を河原の石ころを拾い上げるようにして追いかけていく。ここまで無名の志士の人生を紹介した本を、私はほかに知らない。
著者長谷川伸自身がいうように、この作品はまさに「紙の記念碑」と呼ぶに相応しい。歴史に埋没した無名の人たちを掘り起こして顕彰する。このような作品を継続して刊行するのは出版社の義務ではないのか。再刊されることを切に望む。

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