(久美浜小学校)
久美浜小学校
久美浜代官陣屋跡と県庁跡
京丹後市は、峰山町や大宮町、丹後町、弥栄町などが統合して成立した市である。このうち一番西側、すなわち兵庫県側に位置するのが、旧久美浜町である。かつて久美浜は天領であり、幕府は代官所を置いて統治していた。
現在、久美浜小学校のある場所が、代官所のあった陣屋跡である。久美浜代官の所管は、丹後、但馬七万石に及び、維新後は久美浜県の成立とともに県庁が置かれた。
今となっては陣屋跡を示す遺構はほとんど見られないが、校舎の前に陣屋橋と呼ばれる橋を確認することができる。また、お隣の豊岡市本町の神谷神社境内には、玄関棟が移築保存されているそうである。
生野挙兵を調べていると、久美浜代官が登場する。挙兵前夜、農兵組立が具体化されると、久美浜代官所にも農兵募集の周旋要請が届いた。時の代官は斎藤六蔵といった。斎藤代官は農兵募集に消極的であった。そればかりか、周囲の諸藩に出兵を要請するなど警戒心を露わにした。
(稲葉家)
稲葉家
豪商稲葉本家は、織田信長の家臣団の縁者にその元を発するといわれ、江戸期には麹屋や沿岸交易にて財を成した。維新時には、山陰道鎮撫総督西園寺公望が稲葉家を本陣とした。
(本願寺)
本願寺
本願寺といえば、浄土真宗と思っていたが、久美浜の本願寺は浄土宗である。
慶応四年(1868)一月、山陰道鎮撫総督は稲葉家と本願寺に分宿した。
この日は滋賀県の高島市から福井県おおい町を経由して舞鶴、宮津、京丹波を回った。結構、ハードな一日であった。翌日、京都から八王子に戻る途中、名古屋で途中下車して四日市、桑名を訪ねようと考えていたのだが、無理が祟ったのか、持病である腰痛を発症し「とても無理」という状態だったので、そのまま八王子に戻ることにした。この判断は正解だった。その後、一週間ほど腰痛に悩まされたが、何とか会社を休むことなく皆勤することができた。年齢とともに無理がきかなくなってきたことを実感した。
久美浜小学校
久美浜代官陣屋跡と県庁跡
京丹後市は、峰山町や大宮町、丹後町、弥栄町などが統合して成立した市である。このうち一番西側、すなわち兵庫県側に位置するのが、旧久美浜町である。かつて久美浜は天領であり、幕府は代官所を置いて統治していた。
現在、久美浜小学校のある場所が、代官所のあった陣屋跡である。久美浜代官の所管は、丹後、但馬七万石に及び、維新後は久美浜県の成立とともに県庁が置かれた。
今となっては陣屋跡を示す遺構はほとんど見られないが、校舎の前に陣屋橋と呼ばれる橋を確認することができる。また、お隣の豊岡市本町の神谷神社境内には、玄関棟が移築保存されているそうである。
生野挙兵を調べていると、久美浜代官が登場する。挙兵前夜、農兵組立が具体化されると、久美浜代官所にも農兵募集の周旋要請が届いた。時の代官は斎藤六蔵といった。斎藤代官は農兵募集に消極的であった。そればかりか、周囲の諸藩に出兵を要請するなど警戒心を露わにした。
(稲葉家)
稲葉家
豪商稲葉本家は、織田信長の家臣団の縁者にその元を発するといわれ、江戸期には麹屋や沿岸交易にて財を成した。維新時には、山陰道鎮撫総督西園寺公望が稲葉家を本陣とした。
(本願寺)
本願寺
本願寺といえば、浄土真宗と思っていたが、久美浜の本願寺は浄土宗である。
慶応四年(1868)一月、山陰道鎮撫総督は稲葉家と本願寺に分宿した。
この日は滋賀県の高島市から福井県おおい町を経由して舞鶴、宮津、京丹波を回った。結構、ハードな一日であった。翌日、京都から八王子に戻る途中、名古屋で途中下車して四日市、桑名を訪ねようと考えていたのだが、無理が祟ったのか、持病である腰痛を発症し「とても無理」という状態だったので、そのまま八王子に戻ることにした。この判断は正解だった。その後、一週間ほど腰痛に悩まされたが、何とか会社を休むことなく皆勤することができた。年齢とともに無理がきかなくなってきたことを実感した。