史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「疑惑」 松本清張著 文春文庫

2015年10月30日 | 書評
先月、北海道月形町の篠津囚人墓地で熊坂長庵の墓に対面して以来、この人物と「藤田組贋札事件」のことが気になっている。長庵の出身地である神奈川県愛川町中津には、あれから三回も足を運んでいる(といっても、自宅から四十分程度のドライブに過ぎないが)。確かに、「不運な名前」で伊田元校長が力説しているように、熊坂長庵は教育家として地元では名士として知られる存在であったようである。書道の師、関戸芳孟の筆塚の揮毫なども頼まれている。
この文庫に収められている小説二篇のうち、「不運な名前」という作品が「藤田組贋札事件」と熊坂長庵に題材を取ったものである。タイトルにある「不運な名前」とは、熊坂長庵が芝居に登場する大盗賊熊坂長範と似た名前を持っていたばかりに、贋札造りの犯人に仕立て上げられたということに拠っている。
さすが松本清張の作品だけあって、ぐいぐいと引き込まれる。わずか一日の通退勤時間で読破してしまった。綿密に資料を調査した安田という主人公と、盲目的に長庵の無実を信じる元校長の伊田、それに正体不明の神岡と名乗る若い女性という三名の登場人物の掛け合いによって物語は進行する。恐らく安田の主張が松本清張自身の考えとも重なっているのであろう。安田の言い分は説得力があり、読者は誰もが長庵の冤罪、藤田組贋札事件の背景にある薩長の藩閥争い、その蔭に井上馨の存在を信じるであろう。ところが三人が分かれた一か月後に神岡から分厚い手紙が安田の手元に届く。その手紙を掲載してこの小説は終わる。神岡の手紙は、言わば清張自身の仮説に対する反論とでも呼ぶべきものである。この中で神岡に「井上馨に贋札注文の疑いをかけられた経緯のご類推は、同公爵の伝記からヒントを取られて、感歎のほかはございませんが、残念ながらわたくしにはにわかにご同意しかねるところでございます」といわせているが、清張自身も井上馨が贋札の製造を命じたという確実な証拠がないことは気になっていたのであろう。確かに、薩長閥の争いだとか、川路大警視の急死や金銭に汚い井上馨の暗躍を加えると、俄かにこの事件が劇場的になってくるが、現実はさほど事件性が高いものではなく、真贋を見極める練習用に作成した贋札が混在してしまった程度のものかもしれない。そう考えれば、膨大な手間をかけて贋札を印刷したにもかかわらず、割が合わないほどその枚数が少ないという矛盾にも納得がいく。いずれにせよ、熊坂長庵は、無実を訴えたにもかかわらず、十分な裁判が行われることもなく、遠く樺戸集治監に送られ二年間の獄中生活を送った。厳しい自然環境と過酷な労働に耐えきれず病死。明治政府としては「藤田組贋札事件」に終止符を打つために必要に駆られての措置だったのかもしれないが、人権も何もあったものではない。長庵がこの事件における最大の被害者であるということは間違いなさそうである。
この文庫の表題にもなっている、もう一篇「疑惑」は、読んでいるうちに昔テレビで見たことがあると気づいた。インターネットで調べてみると、この小説は映画やテレビで何度も映像化されている。私が見たのもそのうちの一つだったということになる。しかし、テレビで見たのとは違う結末に軽い衝撃を受けた。
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「人間臨終図巻」 山田風太郎著 角川文庫

2015年10月30日 | 書評
古今東西、老若男女を問わず、職業も政治家、芸術家、作家から俳優、スポーツ選手、犯罪者に至るまで、様々な人間を対象として、臨終つまりどのように死を迎えたかを紹介した「天下の奇書」である。紹介されているのは約九百人におよび、その人の経歴や事績などの紹介よりも、徹底的に死の間際を描き出す。その姿勢はもはや偏執的といってもよいくらいである。作家、山田風太郎の「死」への執着を感じさせる一冊(正確には上中下三巻)となっている。
本書は十代で死んだ人を筆頭に、死亡した年齢順に臨終を紹介する。これを見ると、現在では有名な芸術家であっても、生前は作品が正当に評価されずに不遇のうちに亡くなった人が実に多いことに気付く。たとえば三十一歳で亡くなったシューベルト。短い生涯であったが、九百曲以上の作品を残した。この人の作品 ― 歌曲にしろ、ピアノ曲にしろ、管弦楽曲にしろ ― を聴けば聴くほど、天才としか形容のしようがない。歌曲集「冬の旅」の底知れぬ寂寥感。とても三十歳代の若者の作品とは思えない。最後のピアノ・ソナタ第21番。ドラマティックではない淡々とした曲でありながら、静かな感動を呼ぶ。合唱曲では「水の上の聖霊の歌」水の流れを視覚化して見事である。どうして同時代の人は、シューベルトの楽曲を聴いてその天才性を見抜けなかったのだろうか。

山田風太郎はいう。
――― もし自分の死ぬ年齢を知っていたら、大半の人間の生きようは一変するだろう。従って、社会の様相も一変するだろう。そして歴史そのものが一変するだろう。

幕末の頃、日本人の平均寿命は三十代半ばくらいであったと言われる。今でこそ日本は世界に冠たる長寿国となったが、平均寿命が五十歳に達したのは第二次世界大戦の前後のことだそうだ。動乱に身を投じた活動家たちだけでなく、一般庶民にとっても死は身近なものであった。この時代、人は実によく死んだのである。
だからこの時代の人たちは、常に死を意識しながら生きることになった。死を考えることは即ち如何に生きるかを考えることである。幕末の若者たちが輝きを放っているのは、生に対する執着の無さ、言い換えれば何かのためにあっさりと自分の命を投げ出す潔さを持っているからである。翻って現代の我々を顧みると、ほとんど日常において死を意識することが少ない。本当は道を歩いていていきなり自動車が突っ込んでくることだってあるかも知れないし、乗っている飛行機が墜落してしまう恐れだってある。現代人とはいえ死と隣合わせであるはずなのだが、敢えて考えたくないことは遠ざけて、我々は死を意識することがほとんどない。「如何に美しく生きるか」などと考えることもないのである。その結果、日本人は、世界的にみても情けないほど意地汚い人種に堕してしまった。オレオレ詐欺やマルチ商法、カード詐欺など、確かにあれはあれで(高度ではないにしろ)知能犯なのかも知れないが、全く崇高さが感じられない。これは平均寿命が伸びてしまったがための弊害ではないのか(そりゃ、幕末でも程度の低い犯罪者は存在したと思うが…)。日本人は幕末人の生き様を見て、もっと死を意識して生きるべきであると、最近つくづく思うのである。
約九百人に及ぶ死にざまを見ると、ほとんどの人は自分の死期を意外な形で迎え、「やり残したことがある」と悔しい想いをしながら死の床に就いている。お世話になった人や愛する家族に御礼と別れを告げ、苦しむことなく静かに死を迎えるのが理想であるが、現実はそう甘いものではない。やはりほとんどの人が病魔と戦い七転八倒しながら、ようやく終焉を迎える。今、生きている我々もピンピンコロリという理想的な死に方ができるとは思わない方が良かろう。
上・中・下の三巻にわたる分厚い書であるが、人の死を見て己の生を考えるにはこれ以上ない本である。

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「「幕末大名」失敗の研究」 瀧澤中著 PHP文庫

2015年10月30日 | 書評
巻末の著者紹介によれば、著者の瀧澤中(たきざわあたる)氏は、作家・政治史研究家とある。本書は瀧澤氏による幕末の失敗事例の解析である。我々は歴史の結果を知っている。結果を知った者が、結果を知らずに行動を起こした者を批判するのは簡単だし、ある意味では卑怯である。言わば野球解説者が、打たれたのを見た上で「ここでカーブを投げてはいけません」という類の評論と同じである。ただし野球評論家は大抵の場合、野球経験者であり、そこに多少説得力があるというべきである。ところが政治評論家については、必ずしも政治経験者とは限らない。実際に経験したことのない者がいくら偉そうなことを言って、批評したところで、そういう発言を私は信じない。「ならば、貴方がやってみたら」と言い返すのみである。
以上を踏まえて、本書を読み通してみたが、さすがに古今東西の政治を知った著者だけあって、指摘は的確だし、分析の切れ味もするどい。
たとえば、老中阿部正弘の失敗を次のとおり解析する。
その一。オランダ商館から事前にアメリカ艦隊の来航などの情報がもたらされていたにもかかわらず、対応を怠ったこと。
その二。一に関連して、軍備増強に関わる予算を確保しなかったこと。
その三。外様大名や陪臣、市井の者にまで意見を求めたこと。
三つ目の失敗、広く意見を聞いたということは、今の民主主義の世から見れば「良いこと」のように思えるが、このことで①意見を求められた大名らに戸惑いと不安をもたらした。②幕府に多様な意見を活用できるだけの人材やシステムが存在していなかった。③武士階級はもとより意識の高い一般人にまで、藩を越えて日本という国全体の将来を考えるきっかけを与えた。④幕府内保守派に猛反発を生じた。
このことが結果的に幕府崩壊の端緒となったというである。もちろん、これは結果を知っているから言えることであって、広く意見を求めた結果、皆が満足する方向に政策を持っていければ、効果は絶大であったに違いない。
「与党外交は、現実に政権を担当している者が行っているから、現実を無視した外交は行えない。」
「政権を担っていないからこと理想論がいえるし、あるいは過激なことが言える。」
など、現実の政治を見て来た筆者だからこそ言える発言である。それが証拠に、攘夷一辺倒だった長州藩も、維新後政権を担うと、攘夷を忘れて当たり前のように開国に転じたのである。
第四章では、西郷と久光を論じる。筆者は「頑迷さを持っていながら、現実に政治を動かすために優先順位をつけることのできるリアリスト」「藩内での改革、あるいは上京して国政改革を行うために藩内に出兵反対があっても断行した久光の決断力」と久光に対して一定の評価を与えている。しかし、岸信介を引き合いに出しながら、久光には「親しみと威厳」が欠如していたと指摘する。
この本に書かれていることは、いちいち納得ゆくものであるが、それでもやはり「ここでカーブを投げてはいけません」式の評論のような気がしてならない。改めてその場に立って判断をすることの難しさを痛感した。

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