(疎水公園)
この春、息子が京都の大学に進学し、一人暮らしを始めた。敢えて京都の大学を選んだのは、偏に親元を離れて一人暮らしを謳歌したいという不純な?動機であったが、待ち望んだ一人暮らしが余程楽しいらしく、滅多に連絡をよこさないし、何より孫が近くに越してきた私の両親にしてみれば、孫から全く連絡がないことにイライラし通しであった。そこでわざわざ私が京都まで出向いて行き、息子を引っ張り出して両親と叔父夫婦同席のもと、食事会となった。
予想とおり、息子は、こちらの心配をよそにキャンパス・ライフを楽しんでいるようであった。約束までの時間、久しぶりに京都の街を散策した。
ねじりまんぽ 「雄観奇想」
地下鉄蹴上駅を降りて地上に出ると、国道沿いに赤レンガ造りのトンネルがある。「ねじりまんぽ」と呼ばれる構造物である。「ねじりまんぽ」というのは、煉瓦を捻じるように積み重ねた工法のことで、日本国内に蹴上のトンネル以外にもいくつか確認されている。トンネルの上部に北垣国道の書で「雄観奇想」という文字が記されている。これが疎水公園の入口である。
公園に入ると、琵琶湖疎水産みの親である田邊朔郎像が出迎えてくれる。
田邊朔郎先生像
田邊朔郎は文久元年(1861)、江戸で生まれた。工部大学校在学中の学生であった田邊を、当時の京都府知事北垣国道が熱心に口説き、明治十六年(1883)、京都府に着任した。財政と技術を案ずる反対派の説得に、知事を助けて奔走し、明治十八年(1885)ようやく起工にこぎつけた。その後は設計、施工の総責任者として、卓抜な技術と強い信念、不屈の精神力で難工事を克服した。ことに当時世界で二番目となる水力発電を蹴上で始めた先見性は、今も高く評価されている。これを動力として、京都では我が国初の路面電車を走らせることに成功した。明治二十三年(1890)、晴れの通水式を迎えたとき、田邊はまだ二十八歳の若者であった。
工学博士田邊朔郎君紀功碑
琵琶湖疎水殉難碑
インクライン
このインクラインは、トンネルを掘削した土砂を埋め立てて造られたもので、蹴上船溜から南禅寺船溜までの落差三十六メートルを克服するために導入されたものである。インクラインの開通により、当時荷物を積み替え、陸送していた手間が解消されることになった。
(大日山墓地)
田邊朔郎之墓
疎水公園の大津側に、日向(ひむかい)大神宮の参道が通じている。この参道を登っていくと、途中で二股に分岐するが、うち左手の道が大日山墓地へつながっている。
大日山墓地に一番奥に、田邊朔郎が眠る。もっと巨大な墓石を想像していたが、意外なほど慎ましい。墓石の背面には、彼の事績が細かく刻まれている。