史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

烏丸 Ⅳ

2015年10月02日 | 京都府
(佐賀藩屋敷跡)


佐賀鍋島藩屋敷跡

 四条通り沿いの東京三菱UFJ銀行の前に佐賀藩屋敷跡碑を発見した。これまで何度もこの場所は通過していたはずだが、気が付かなかったのが不思議なくらいである。たまたまバスから外を眺めていて、見つけることができた。京都では至るところに石碑があり、まだまだその気になって街を歩けば、新たな発見があるかもしれない。この石碑は平成三年(1991)に佐賀県人会の手によって建立されたものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新京極 Ⅱ

2015年10月02日 | 京都府
(誠心院)


吉岡庄助墓

 積み重ねられた墓石の中に長州藩士吉岡庄助のものがある。隙間から辛うじて長州藩の「長」という文字が確認できる。新選組による池田屋襲撃の夜、一斉に残党狩りが行われた。その時、川端四条下るにあった料理茶屋近江屋にて襲われて女将とともに殺害されたのが、長州藩作事方吉岡庄助であった。吉岡は、その夜、酒を飲んでいたところを会津勢に踏み込まれ、酔いながらも刀を抜いて応戦したが、遂に討たれた。三十四歳。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宮 Ⅳ

2015年10月02日 | 京都府
(妙恵会総墓所)


元恭廣瀬先生墓

 妙恵会総墓所は、複数の寺院の墓地を集めたものである。その中の一つが観持院という寺で、入り口右手の一角が観持院墓地らしい。そこに廣瀬元恭の墓がある。
 広瀬元恭(がんきょう)は、文政四年(1821)、甲斐巨摩郡藤田村(現・山梨県南アルプス町)の医師広瀬周平の次男に生まれた。江戸の平井誠軒の蘭学塾にあること十年。弘化元年(1844)、京都に蘭学塾時習館を開いた。時に二十四歳。講義は語学、医学、軍学、天文、地理と多彩で、門下生から陸奥宗光、佐野常民、田中久重らを生んだ。津の藤堂家から客臣として遇され、それに報いるため「築城新法」「砲術新書」を翻訳して献じた。文久元年(1861)、和宮降嫁には侍医として奉仕した。戊辰戦争では官軍病院長として施設と治療に尽力した。「理学提要」「知生論」「西医脉鑑」「人身究理」「新訂牛痘奇法」など多数の著作がある。明治三年(1870)十月、五十歳にて没。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下賀茂神社 Ⅱ

2015年10月02日 | 京都府
(十念寺)


十念寺


贈正五位曲直瀬
享徳院道策法橋墓

 十念寺に曲直瀬道策(まなせどうさく)の墓を訪ねた。曲直瀬道策は、天保九年(1838)京都の生まれ。父は向日神社社家六人部雅香で、幼時より父について平田派の国学を学び、勤王の志が厚かった。曲直瀬道三の興した医家曲直瀬家の養子となった。常に京都に住し、加賀藩前田家に仕えるようになった。慶応二年(1866)七月、加賀藩の有志と尊攘の説を唱え、実弟六人部雅楽らと金沢に赴いて、藩世子前田慶寧の入朝を勧め、あるいは志士の窮状を救って家産の蕩尽するのも顧みなかった。ついで小松帯刀、三上兵部、陸奥陽之助らと諮って大阪に出て船舶運輸業を興し、その利潤で勤王同志の活動資金を得ようと種々努力したが、幕吏および新選組の知るところとなり、慶応三年(1867)五月、大阪難波新地において新選組に襲われ斬殺された。年三十。


徳大寺公城の墓

 いわゆる宝暦事件で蟄居処分を受けた徳大寺公城は、維新後の明治二十四年(1891)に復権を果たし、従一位の追贈を受けた。墓の前に、そのことを記した、末裔である徳大寺実則が建てた碑がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡崎 Ⅷ

2015年10月02日 | 京都府
(真如堂)

 堀河紀子と同じ墓域に、堀河親賀、康隆父子の墓がある(康隆のそれは歯碑)。


正三位堀河親賀卿之墓

 堀河親賀(ちかよし)は、文政五年(1822)の生まれ。康親の長男であり、堀河紀子とは兄妹という関係である。天保六年(1835)、元服して昇殿を許され、安政五年(1858)三月の八十八卿列参に加わった。維新後の明治二年(1869)、皇后宮亮に任じられたが、翌年十二月に辞し、その後は宮中勤番、淑子内親王家祗候を務めた。明治十六年(1883)、年六十二歳で没。
 康隆は、親賀の長男。天保七年(1836)に生まれ、弘化四年(1847)に元服して昇殿を許された。安政五年(1858)の八十八卿列参に父とともに参加した。明治二年(1869)八月、明治天皇の侍従に任じられ、以来側近として奉仕すること二十有余年に及んだ。明治二十九年(1896)、年六十一にて没。


従二位勲三等子爵堀河康隆卿歯碑

(みやこめっせ)


京都博覧会碑

 みやこめっせの植え込みの中に京都博覧会碑がある。篆額は松方正義、撰文は槙村正直。京都では明治四年(1871)以来、毎年博覧会が開催されたが、明治十三年(1880)、京都御苑東南角に常設展示場が開設されたことを記念して、この石碑が建立された。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蹴上

2015年10月02日 | 京都府
(疎水公園)
 この春、息子が京都の大学に進学し、一人暮らしを始めた。敢えて京都の大学を選んだのは、偏に親元を離れて一人暮らしを謳歌したいという不純な?動機であったが、待ち望んだ一人暮らしが余程楽しいらしく、滅多に連絡をよこさないし、何より孫が近くに越してきた私の両親にしてみれば、孫から全く連絡がないことにイライラし通しであった。そこでわざわざ私が京都まで出向いて行き、息子を引っ張り出して両親と叔父夫婦同席のもと、食事会となった。
予想とおり、息子は、こちらの心配をよそにキャンパス・ライフを楽しんでいるようであった。約束までの時間、久しぶりに京都の街を散策した。


ねじりまんぽ 「雄観奇想」

 地下鉄蹴上駅を降りて地上に出ると、国道沿いに赤レンガ造りのトンネルがある。「ねじりまんぽ」と呼ばれる構造物である。「ねじりまんぽ」というのは、煉瓦を捻じるように積み重ねた工法のことで、日本国内に蹴上のトンネル以外にもいくつか確認されている。トンネルの上部に北垣国道の書で「雄観奇想」という文字が記されている。これが疎水公園の入口である。
 公園に入ると、琵琶湖疎水産みの親である田邊朔郎像が出迎えてくれる。


田邊朔郎先生像

 田邊朔郎は文久元年(1861)、江戸で生まれた。工部大学校在学中の学生であった田邊を、当時の京都府知事北垣国道が熱心に口説き、明治十六年(1883)、京都府に着任した。財政と技術を案ずる反対派の説得に、知事を助けて奔走し、明治十八年(1885)ようやく起工にこぎつけた。その後は設計、施工の総責任者として、卓抜な技術と強い信念、不屈の精神力で難工事を克服した。ことに当時世界で二番目となる水力発電を蹴上で始めた先見性は、今も高く評価されている。これを動力として、京都では我が国初の路面電車を走らせることに成功した。明治二十三年(1890)、晴れの通水式を迎えたとき、田邊はまだ二十八歳の若者であった。


工学博士田邊朔郎君紀功碑


琵琶湖疎水殉難碑


インクライン

 このインクラインは、トンネルを掘削した土砂を埋め立てて造られたもので、蹴上船溜から南禅寺船溜までの落差三十六メートルを克服するために導入されたものである。インクラインの開通により、当時荷物を積み替え、陸送していた手間が解消されることになった。

(大日山墓地)


田邊朔郎之墓

 疎水公園の大津側に、日向(ひむかい)大神宮の参道が通じている。この参道を登っていくと、途中で二股に分岐するが、うち左手の道が大日山墓地へつながっている。
 大日山墓地に一番奥に、田邊朔郎が眠る。もっと巨大な墓石を想像していたが、意外なほど慎ましい。墓石の背面には、彼の事績が細かく刻まれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木屋町 Ⅶ

2015年10月02日 | 京都府
(河原町御池)


此附近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地
此隣地 明治時代 山本覚馬・八重邸宅跡

 河原町今出川の交差点の西南角(京都市役所の向い側)に吉田稔麿殉節地と山本覚馬・八重の住居跡を示す石碑が建てられた。例によって歴史地理史学者中村武生氏の尽力によるものである。
 元治元年(1864)六月の池田屋事件が起きたとき、吉田稔麿は長州藩邸のあったこの辺りで会津藩兵に襲われ落命した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする