史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日本橋 Ⅱ

2015年10月16日 | 東京都
(にんべん)


にんべん

 日本橋周辺は、江戸時代から続く老舗が集中する土地でもある。成田から上海に出張する日の午前中、この界隈を歩いた。
 この日訪ねた店は、いずれも三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」で紹介されているものである。にんべん(中央区日本橋室町2‐2‐1)は鰹節の専門店。創業は元禄十二年(1699)という老舗である。当時、屋号は伊勢屋伊兵衛といったが、伊兵衛の伊と金を現す¬とを組み合わせて商標としたが、いつしか「にんべん」と呼ばれるようになった。
 幕末の「にんべん」を支えたのは、八代・伊兵衛。幕府の長州征伐には一万両もの献金を行っている。さらに慶応四年(1868)には、新選組から分派した永倉新八らが率いる靖共隊にも資金を提供している。

(千疋屋)
 にんべんの入っているコレド室町の向い側辺りに千疋屋総本店(中央区日本橋室町2‐1‐2)がある。千疋屋は江戸時代から続く高級果物店である。明治初年、新政府に出仕した西郷隆盛は、ここに近い日本橋人形町に住んでいたが、千疋屋を贔屓にしていたという。
 現在、千疋屋は果物だけでなく、洋菓子やジャム、フルーツジュースなどを手広く扱っている。


千疋屋総本店

(神茂)
 神茂(中央区日本橋室町1‐11‐8)は、明暦二年(1656)に創業されたかまぼこ店である。その後、はんぺんの製造販売も手掛けるようになった。明治天皇の即位の際にも神茂の極上かまぼこは宮中に納められ、その後も大正・昭和天皇の即位の時にも使われたという高級品である。現在、神茂は立派なビルとなっている。日曜日は休みだが、ネットでも購入可である。


神茂

(丸善)
 丸善(中央区日本橋2‐3‐10)といえば本屋であるが、その三階にカフェがある。ここの定番メニューであるハヤシライスは、丸善の創始者早矢仕有的が考案したメニューで、言わばここはハヤシライス発祥の地というわけである。さすがにこの後、弁松の弁当を食べることにしていたので、ハヤシライスをここで取るわけにはいかなかったが、せっかくだから一度はここでハヤシライスを食べてみたいものである。


マルゼン カフェ

 丸善の百年史によるとハヤシライスの由来を次のとおり説明している。
――― 幕末か明治の初年のことであろう。友人が訪問すると、有的は有り合わせの肉類や野菜類をゴッタ煮にして、飯を添えて饗応するのが常であった。そこから人々はこの料理をハヤシライスといい、ついにはレストランのメニューに書かれるようになった。

 早矢仕有的は、福沢諭吉の門下生であった。明治二年(1869)、商社丸善を興したことで知られる。

(とよだ)


とよだ

 とよだ(中央区日本橋1‐12‐3)は文久三年(1863)の創業という老舗割烹である。幕末には、西郷隆盛が屋台寿司時代のとよだに立ち寄ったという逸話が残る。「江戸東京幕末維新グルメ」によれば、とよだが現在地に移ったのは昭和三十六年(1961)のことという。

(山本海苔店)


山本海苔店

 山本海苔店(中央区日本橋室町1‐6‐3)が創業したのは、嘉永二年(1849)のことで、以来この場所で営業を続けている。新社屋が建ったのは、昭和四十年(1965)のことである。
 山本海苔店の二代・徳治郎は商人でありながら剣も学び、北辰一刀流の玄武館で汗を流していた。そこで知遇を得たのが山岡鉄舟であった。鉄舟と徳治郎の交友は維新後も続き、現在も包装シールに使われている「東海名産無双佳品」という文字は鉄舟の揮毫によるものである。

(弁松総本店)


弁松総本店

 弁松総本店(中央区日本橋室町1‐10‐7)の弁当は予約制である。事前に注文せずにいきなりここで手に入れることはできない。ただし、幸いにして三越百貨店の地下の食料品売り場に弁松の弁当を売っていて、ここでなら普通に買うことができる。


赤飯弁当

 明治十一年(1878)五月十四日、大久保利通が紀尾井坂にて暗殺された。その日、大久保家には旧知の人々や親類が集まり大混乱となったが、西郷従道が手配した弁松の弁当が届いたため、一同大いに驚いたという話が伝わる。

 上海出張に向かう成田エクスプレスの車中で弁松の赤飯弁当を食べた。少し濃い目の味付けが特徴である。

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