史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

上毛

2016年06月11日 | 福岡県
(矢方池)


矢方池

 筑上郡上毛(こうげ)町の矢方(やかた)池は、度重なる干害に対処するため、高橋庄蔵が私財を投じて築造した貯水池である。庄蔵は、天保七年(1836)に生まれ、十四歳で庄屋代役、十六歳のとき野田村庄屋見習い、嘉永五年(1852)、十七歳のとき、蔵春園に入門した。明治三年(1870)、三十五歳で岸井手永大庄屋となった。庄蔵がため池の築堤を計画して、事業を興したのは明治十一年(1878)のことである。当時の感覚では、あまりに荒唐無稽な計画に、周囲の反応は冷ややかであった。しかし、庄蔵翁は農民を旱魃の被害から救うにはこれしかないと信じ、粘り強く近隣二十八ヵ村を説得し、膨大な私財を投じて事業を推進した。時に物笑いの種にされ、時に中傷を受けることもあったという。明治二十四年(1891)、庄蔵が五十六歳で他界した後、この事業は八幡小太郎(黒土村長)に引き継がれ、完成を見たのは丙池が明治二十一年(1888)、乙池は明治二十二年(1889)、難工事が続いた甲池は明治三十三年(1900)のことであった。「人間の偉さ」とか「人生の尊さ」というものは人それぞれ尺度があるし、一概に誰が偉いといえるものではない。たとえば明治時代に中央政界で国創りに生命を賭した人たちも非常に偉い人ばかりだと思うが、高橋庄蔵のように地域のために自分の生命財産を擲った無名の人物も同じように偉いと思ったので、ここに紹介したものである。


高橋庄蔵翁遺髪埋祀處


矢方池碑

 高橋庄蔵翁の遺髪碑と庄蔵を祀る矢方池神社が、矢方池を見守るように建てられている。
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豊前

2016年06月11日 | 福岡県
(蔵春園)


蔵春園

 蔵春園は、文政七年(1824)、恒遠醒窓(つねとうせいそう)が開いた私塾で、別に恒遠塾とも呼ばれる。醒窓は、文政二年(1819)、十七歳で廣瀬淡窓の咸宜園に入門して、ここで五年間学ぶ。二十二歳のとき、長崎に出て高島秋帆の家に身を寄せて、多くの人々と交わりながら学を修めて帰郷した。当地で私塾を開いて子弟の教育に力を注いだ。門下には海防僧として有名な僧月性などがいる。醒窓は五十九歳で没したが、その子の精斎が後を継ぎ、明治二十八年(1895)に歿するまで、父子二代にわたって七十年間続けられた。その間の入門者は約三千といわれる。蔵春園は、仏山の水哉園とともに北豊私塾の双璧と称えられた。


恒遠醒窓生誕二百年記念碑


恒遠梅村麟次先生像

 福岡旅行の初日はここで日歿を迎えた。本当は豊前市の史跡をもう少し見て回る予定であったが、日が暮れてしまっては致し方ない。この原因の一つは、レンタカーのカーナビの使い方に不慣れだったことにある。このカーナビは有料道路を使うことに極めて消極的であった。このカーナビの癖に気付いたのは、使用後数日を経た後であった。それまで盲目的にカーナビの勧める道を走っていたため、特に車量の多い飯塚、鞍手、北九州を移動するのに、予想以上の時間を要してしまった。この時間のロスは痛かったが、何とか最終日までに取り返すことができた。

(千束八幡神社)


千束八幡神社

 慶應二年(1866)八月、小倉小笠原藩は、長州との戦いに敗れ、自らの手で小倉城と藩邸を焼いて南に逃れた。小倉新田藩は、自領に陣屋(藩庁)を持たず、小倉城下の屋敷に常駐していた。幕末の小倉新田藩一万石の藩主小笠原貞正は、同年十一月、小倉藩の当主小笠原豊千代丸(のちの忠忱)とともに領内安雲(あぐも)の光林寺に入り、明治二年(1869)塔田原に館の建設を始め、翌明治三年(1870)に完成し、旭城と名付けた。実態としては城というより、政治的な藩庁と呼ぶべきものであった。現在千束八幡神社の周囲に残る石垣はその当時構築されたもので、千塚原古墳の石を転用したものと伝えられる。明治四年(1871)の廃藩置県により、結果的にここに千束藩庁が置かれたのは僅か一年ほどのことであった。全国で最後に築かれた城と呼ばれる。


旭城跡

(八屋)


小今井乗桂翁像


浄土真宗乗桂校舊跡

 小今井潤治(乗桂)は、文化十一年(1814)、上毛郡小祝村に生まれた。文政年間に宇島(うのしま)に移り住み、小今井家の営む萬屋を継いで、養父とともに米穀商と酒造業を商った。米や酒を運ぶために多くの船を保有し、四国や関西の商人と取引を行った。天保七年(1836)、小倉藩から紙幣「萬屋札」の発行を許され、格式大庄屋、御蔵本(年貢米を管理する役)を申付けられた。この頃、相次ぐ飢饉のため藩財政は苦しかったが、江戸西の丸の焼失による幕府への献金二万五千両のうち七千両を引き受けた。維新後も宇島港の管理と修理費用を負担したり、明治十七年(1884)の全国的飢饉にあたっては、二年間無制限の炊き出し、施し米を行った。明治二十年(1887)には私費で施療病院を開き、宇島駅の開業にあたって三町歩余りの土地を寄附した。明治八年(1875)、明治政府が信教の自由を達示すると、仏教の前途を憂い、独力で浄土真宗の私立大教校小今井乗桂校をこの地に開校した。ここで学んだ僧徒は三千人と伝えられる。乗桂とは西本願寺から賜った名である。明治二十年(1887)、大阪出張中に急逝した。享年七十四歳。


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行橋

2016年06月11日 | 福岡県
(水哉園跡)


仏山塾

 仏山塾は、幕末の儒学者で、詩人の村上仏山が開いた私塾である。仏山は文化七年(1810)、京都郡稗田村の庄屋の家に生まれた。筑前秋月の原古処の門下となり、古処の没後、各地に遊学して、二十六歳の時、母の勧めで家塾を開き、水哉園と名付けた。塾名は孔子の「水なる哉」に由来し、水の絶え間ない姿を学問の勧めに引用したものという。水哉園に学んだのは、近在の人々のみならず、仏山の学徳を慕って全国から多くの青年が集まった。明治十二年(1879)、七十歳で仏山が亡くなるまでの入塾者は千人を越えた。その中には「防長回天史」を書いた末松謙澄もいた。仏山の死後、養子静窓が跡を継ぎ、明治十七年(1884)、廃校となった。水哉園で使われた和漢の書籍、仏山が収集した書籍、書画、有名な学者と交わした書簡などは仏山塾関係資料として保管されている。


仏山先生墓

 水哉園内には村上仏山の墓が置かれている。

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みやこ

2016年06月11日 | 福岡県
(本立寺)


本立寺

 本立寺はもともと信濃国深志(現・長野県松本市)に所在していたが、小笠原氏の転封に伴い、播磨国明石、豊前小倉へと寺地を移した。慶応二年(1866)の幕長戦争で城下町が焼失した際、本立寺も一時廃されたが、明治二十年(1887)、豊津の地に再建された。国学者西田直養の墓があるというので、探してみたが、墓地すら発見できないまま撤退することになった。

(峯高寺)


峯高寺

 峯高寺を訪れると、ちょうど庭の手入れをしている御婦人がおられたので、墓の所在を確認することができた。墓地は境内を出て少し離れたところにある。墓地を入ったところに岡出衛の墓がある。


花柳院遊夢俊治居士(岡出衛墓)

 岡出衛(いずえ)は、文化九年(1812)小倉藩士の家に生まれた。初名を半五郎といった。二十代後半から太腿の肉が「腐肉」となる奇病に悩まされた。様々な治療を試みたがいずれも効果がなかった。竹中謙随という医師に診てもらったところ、十年越しの病はウソのように完治した。ようやく職務に専念できるようになった出衛は小倉藩の縁戚である播磨安志小笠原藩一万石に派遣され、そこで家老席に列するなど手腕を振るった。小倉に帰郷すると、用人役を命じられ、奥向きの御用掛や新設された政事掛奉行職に登用されるなど、出格の扱いを受けた。維新後も小笠原家の家令を務め、その家政を支え続けた。

(甲塚墓地)


秋月士族戦死墓


秋月藩士の墓

 明治九年(1876)の秋月の乱の際、秋月党の人々が旧小笠原藩士の蹶起を促すためにこの地へ来て説得を始めたが、結局小笠原の人々は動かず、やがて小倉から派遣された政府軍との間で戦闘となり、秋月の人々は十七名の戦死者を出して敗走した。十七名の遺骸はこの場所に葬られ、翌年遺族らによってこの墓標が建てられた。


斗南藩郡長正霊位(郡長正の墓)

 郡長正は、会津藩家老萱野権兵衛長修の二男に生まれた。萱野権兵衛は会津戦争の敗戦の責任を負って自刃し、萱野家は断絶。遺族は郡という姓を名乗ることになった。維新後、藩では同じ佐幕派として戦った小笠原藩の藩校育徳館に長正ほか六名の若者を派遣し、留学させた。わけても長正は文武にわたって優れていたという。彼が故郷にあてた手紙の中に寮の食事に関することが書き添えてあり、それがたまたま他の生徒の目に触れて問題となった。ついには武士の精神をなじられるに至り、長正は会津武士の面目を守るため切腹して果てた。明治四年(1871)五月一日のことであった。この墓は遠く三百里を隔てた故郷会津に向けて建てられている。

(育徳館高校)
 豊津高校の一角に、豊津高校の前身育徳館の校門が残されている。この黒塗りの門は「黒門」と呼ばれている。育徳館は、小笠原藩の藩校である。第二次征長戦の小倉口の戦いに敗れた小倉藩が、藩庁を田川郡(現・香春町)に移した際に、小倉城三の丸にあった藩校思永館も閉鎖され、新たにこの地に藩校を開くことになった。黒門も育徳館正門として建てられたものである。育徳館は明治十二年(1879)県立豊津高校(現・育徳館高校)に発展した。


育徳館高校


育徳館 黒門


郡長正ゆかりの石

 昭和三十一年(1956)、会津鶴ヶ城茶室の庭石と郡長正の実家である萱野家の墓石の一部が、郡長正ゆかりの石として育徳館高校に寄贈された。

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香春

2016年06月11日 | 福岡県
(香春小学校)


旧香春藩庁

 幕府の小倉口総督小笠原長行の脱走を知った小倉藩では、小倉新田藩主小笠原貞正、安志藩主小笠原幸松丸(貞孚)、それに家老の小宮民部、原主殿、小笠原甲斐、島村志津摩、小笠原織衛らが城内に集まり、幕府目付の松平左金吾、平山謙次郎(敬忠)に対し、小倉城の受取を要請した。当惑した二人は小倉城を放棄し、藩が要害の地に撤退することを認める旨の書付を小倉藩に渡して、天領日田に去った。そこで小倉藩幹部は軍議を開き、軍を門司口、中津口、香春口に後退させ、そこで防戦することを決した。小倉藩では香春(かわら)御茶屋を仮藩庁とした。長州藩と停戦協定が結ばれた後も、小倉藩は香春を正式な藩庁として使用し、明治三年(1870)、仲津郡錦原(現・京都郡みやこ町)に藩庁を移し豊津藩と改称するまで続いた。現在、香春小学校に残る藩庁門は、領主や賓客のほかは開門することがなかったといわれる。明治後、御茶屋は、小倉県第二大区調所、田川郡役所、郡立鷹羽学館などに利用され、大正十五年(1926)解体された。

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北九州 金辺峠

2016年06月11日 | 福岡県
(金辺峠)
 国道三二二号線を北九州から香春方面に南下すると、金辺峠(きべとうげ)を越えるところで隧道が穿たれている。トンネルを抜けて最初の交差点を左に折れて七百メートルほど旧道を進むと、自動車では進行できないような未舗装道となる。ちょうど峠付近に島村志津摩の碑がある。この辺りの地名は採銅所という。かつてこの付近で銅が採れたのかもしれない。


島村志津摩の碑

 慶応二年(1866)八月二日、田川郡採銅所で小倉藩の軍議が開かれ、金辺峠(きべとうげ)を島村志津摩率いる一軍が固め、企救郡と京都(みやこ)郡の郡境狸山は家老小宮民部が兵を率いて長州勢の侵攻を防ぐこととなった。既に幕府軍目付斎藤図書は大砲の音に怯えて山に逃げ出したというし、幕府軍小倉口総督で唐津藩世子の小笠原長行は戦線を離脱して長崎に逃れていた。九州諸藩兵も戦闘意欲に欠け、藩領を長州藩兵に冒された小倉藩は、まさに孤軍奮闘という状態であった。その象徴が島村志津摩であった。
 戦後、島村志津摩は、千石の加増も断り藩の再建に全力を注いだ。封建制度のもとで民意を徴し、政策を確立した。のち刈田町二崎に隠退し、明治九年(1876)八月、享年四十四にて死去した。

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北九州 小倉南

2016年06月11日 | 福岡県
(開善寺)
 開善寺は小倉南区湯川二丁目の坂の途中にある。その前の道をさらに進むと、山頂近くに開善寺の墓地がある。一見すると比較的新しい墓石が多いが、その中にあって一際古さが目につくのが小宮家の墓所である。なかなか分かりにくい場所にあるが、どういうわけだか一切迷うことなく直線的に行き着くことができた。


開善寺


小宮民部墓

 小宮民部は文政六年(1823)小倉藩士秋山衛士助光芳の二男に生まれ、のちに小宮親泰の養子となる。通称は民部のほか、又彦、小三郎、四郎左衛門とも。諱は親懐。天保十一年(1840)小宮家を相続し、嘉永六年(1853)家老に就いて藩財政の確立に尽くした。功により加増された。この頃、民部の名を賜った。慶応元年(1865)、藩主小笠原忠幹の死後、幼君豊千代丸を護り難局に当たった。長州再征の戦闘中、総督小笠原長行および応援の諸藩が小倉を去ったため、慶応二年(1866)八月、小倉城を焼いて藩庁を田川郡香春に移し、守備陣地を後方の天険に布いた。しかし、小倉城自焼の責を問われ、自刃した。年四十七。

(成就寺跡)
 小倉南区津田二丁目の住宅街の中に忽然と墓地が広がるが、かつてここには浄土宗護念寺の末寺成就寺があった。現在は墓地のみが残されている。ここに幕末の名手永(てなが)中村平左衛門の墓がある。


中村平左衛門維良墓

 中村平左衛門は豊前国菜園場村(現・北九州市小倉北区)に生まれた。文化五年(1808)、十六歳で企救郡勘定役(人馬方)に就任した。文政五年(1822)、小森手永(手永とは小倉藩における行政区画のこと)の大庄屋に任命された。継いで富野手永、津田手永の大庄屋に転じた。天保六年(1835)、旱魃に悩まされていた下曽根村(現・小倉南区)のために大池を造成した。その後、京都郡の延永、新津両手永の大庄屋に任命された。安政四年(1857)、高齢と病身を理由に大庄屋退任したが、その二年後、城野手永の大庄屋として異例の再登板をすることになった。文久元年(1861)、ようやく退任が認められ隠居生活に入った。慶応三年(1867)、七十七歳にて没。平左衛門は、文化八年(1811)から慶応二年(1866)まで五十六年にわたって日記を残した。幕末期の小倉藩の政治動向や社会の様相が描かれた貴重な資料となっている。
 中村平左衛門の墓の隣には、平左衛門の息でやはり藩政時代に手永を務めたほか、維新後は企救郡の初代郡長を勤めた津田維寧の墓もある(維新後、地名の津田に改姓)。

(蒲生八幡神社)


蒲生八幡神社


幸彦社

 蒲生八幡神社の境内社幸彦社は、国学者西田直養(なおかい)を祀るものである。
 西田直養は、寛政五年(1793)、小倉藩士の家に生まれた。文化十一年(1814)、白黒騒動では小姓役として使者を務め、天保十年(1839)以来、京都、大阪の留守居役となり、用人格まで昇った。安政元年(1854)蟄居を命じられると、藩の役職を退き、蟄居を解かれたあとも各地を巡って著述に勤しんだ。この時代の小倉藩を代表する国学者であり、「金石年表」「篠舎漫筆」「神璽考」など多くの著書を残した。慶応元年(1865)三月、七十三歳で亡くなって小倉の本立寺(現在、みやこ町豊津に移転)に葬られた。性洒脱、多芸多才で交友範囲も広く、野村望東尼らもその門を訪れた。没後、門人たちが計って蒲生神社内に幸彦社を建て、亡師を祀った。

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北九州 小倉北

2016年06月11日 | 福岡県
(手向山公園)
 今年(平成二十八年(2016))は、慶応二年(1866)の第二次長州征伐、(長州藩側から見れば四境戦争)から百五十年の記念の年である。これまで芸州口、大島口、石州口の戦跡は訪問済みであるが、残る小倉口の戦跡が未踏となっているのがずっと気になっていた。今回、ようやく実現することができた。


手向山公園
関門海峡方面を臨む

いわゆる小倉口の戦い(もしくは小倉戦争)の最激戦地となったのが、赤坂地区である。幕府の命を受けて小倉に集結した九州諸藩の兵は二万以上といわれる。これに対し、総督高杉晋作の指揮の下、長州藩の兵力はわずか一千であった。幕府は下関に攻め入る準備を進めるが、一足早く長州軍は関門海峡を渡った。
 戦いの火ぶたは、慶応二年(1866)六月十七日の早朝、長州軍が下関より対岸の門司、田ノ浦を奇襲して始まった。狼狽した幕府軍は簡単に敗走した。
 つづく七月三日、長州軍は再び海峡を渡って、今度は大里(現在の門司駅付近)の幕府軍陣営を奇襲した。七月二十七日、赤坂をめぐって激戦となった。ここを破られると小倉城は目の前である。幕府軍も凄まじい反撃に出た。およそ十三時間に及ぶ戦闘の結果、長州軍は戦死者の遺体を戦場に放置したまま下関に退却することになった。


手向山砲台跡

 手向山は、代々小倉藩の家老であった宮本家が、藩主から拝領していた。明治に入ってこの山一帯を陸軍が接収し、明治二十一年(1888)関門海峡防備のために山頂東側に砲台を構築した。今もその痕跡を見ることができる。
 手向山山頂には宮本武蔵や佐々木小次郎に関する碑や展望台があって、なかなか楽しめる。

(赤坂東公園)


慶應丙寅激戦の碑(赤坂合戦の碑)

 赤坂周辺は今や閑静な住宅街であるが、慶応二年(1866)六月の第二次長州征伐(長州でいう四境戦争)小倉口の戦いでは激戦区となった。高台にある住宅街の一角、赤坂東公園にこのことを示す石碑が建てられている。

(赤坂山)


長州奇兵隊戦死墓

 長州藩軍戦没者二十二名が眠る墓地である。長州奇兵隊戦死墓や山田鵬輔墓など四基の墓が並んでいる。彼らの墓は、対岸の下関の本行寺にもある。
慶応二年(1866)七月二十七日、長州軍と幕府軍(肥後藩・小倉藩ら)との戦いで、上鳥越(赤坂三丁目)に肉薄してきた長州藩奇兵隊山田鵬介隊との戦いは激しかった。山田隊は隊長以下多数の戦死者を出したが、肥後軍の直前で遺体収容もできず大里に引き上げた。肥後軍の参謀格横井小楠は、放置された遺体を集め「防長戦死塚」の木柱を立て手厚く葬った。明治になって長州出身の木戸孝允が、長州の僧田中芝玉に奇兵隊の遺骨を下関の奇兵隊墓地に移すように依頼した。これを聞いた新政府参与横井小楠は「墓を移すのは肥後藩の気持ちを無視するもので、遺憾である」と抗議した。木戸は諦めて芝玉に小倉の墓を守らせることにした。芝玉は長州が良く見えるこの地に墓を移し、墓守を続けたという。


山田鵬輔墓

 山田鵬介は生年不明。諱は成功。文久三年(1863)奇兵隊に入隊し、慶應二年(1866)六月、幕長戦において豊前小倉口に出陣。小隊(砲護隊)司令として大里で戦い、鳥越千畳敷砲台に進入して奮戦中、銃丸に当たって戦死した。


慶應丙寅戦蹟

(延命寺)
 木戸孝允の依頼をうけた長州の僧芝玉は、墓守のために延命寺に居住することになった。
 延命寺は、正徳元年(1711)、小倉藩主小笠原忠雄(ただかつ)が、上野寛永寺の末寺として加護した寺で、境内には東照宮まで祀られていた。小倉城陥落後、この寺に長州軍が駐屯して荒らしたため、その規模は維新前よりずっと縮小してしまった。(一坂太郎著「高杉晋作を歩く」山と渓谷社)


延命寺

 延命寺境内で奇兵隊の墓を発見した。墓石が破損して奇兵隊の「奇」の字が欠落しているが、「丙寅八月」すなわち慶応二年(1866)という建立年月から推定して、間違いなく奇兵隊の戦死者を葬ったものであろう。


奇兵隊戦死墓(右)

(宗玄寺)
 慶應二年(1866)の長州藩との戦闘で宗玄寺は幕府軍の本陣となり、戦火で焼けてしまった。再建は明治四年(1871)のことであった。
 なお、宗玄寺、開善寺とも、幕末の頃は市の中心部、小倉城に近い馬借町(小倉北区馬借)にあったらしいが、昭和五十一年(1976)に現在地に移転したものである。


宗玄寺

(仏母寺)
 仏母寺には一瞬本堂が存在していないのかと見えたが、墓地の右手にまるで一般住宅のような御堂があった。墓地入口に「長州征伐無縁塔」が建てられている。「長州征伐」という用語から推測するに、幕府方の戦死者の供養塔であろう。


仏母寺


長州征伐無縁塔

(福聚寺)


福聚寺

 福聚寺(ふくじゅじ)は、寛文五年(1665)、小笠原忠真の願いにより創建された寺で、小笠原家の菩提寺でもある。全盛期には二十五の宿坊と七堂の伽藍が並んでいたという。慶応二年(1866)七月の第二次長州征伐の際には、長州奇兵隊の侵攻を受け、彼らが福聚寺を本陣としたため、その後荒廃した。藩主菩提寺を他藩の軍隊に占拠されたというのは、小倉藩士にとって屈辱であっただろう。


慶応之役小倉藩戦死者墓


徹心院忠巌義俊居士(河野四郎の墓)

 河野四郎は、文政三年(1820)、小倉藩士の家に生まれた。弘化元年(1844)、藩校思永館の助教となった。七代藩主小笠原忠徴の代、嘉永五年(1852)七月、島村志津摩が家老に就任すると、本格的に藩政改革に着手したが、志津摩の片腕として活躍したのが郡代河野四郎であった。藩政改革は主に小倉藩領の産業の振興を図るもので、石炭や金の採掘、養蚕・製糸・製茶の奨励、小倉織・小倉縮の増産、精蝋、学校の運営などを行った。文久三年(1863)五月十日、長州藩が関門海峡で外国船を砲撃すると、小倉藩に対し砲台の借用を申し入れ、遂には小倉藩領田野浦を占拠し、砲台を築いた。対応に苦慮した小倉藩では、河野四郎と勘定奉行大八木三郎右衛門を使者として幕府に伺いをたてた。河野らは江戸城で老中に面会しその場で外国船砲撃詰問のため使番中根一之丞らを長州に派遣することを伝えられた。河野四郎と大八木は中根一之丞らと幕府軍官朝陽丸に同船して長州に入ったが、長州藩ではこれを砲撃。さらに抜刀した数十名が朝陽丸に乗り込み、河野四郎の身柄引き渡しを要求した。これを知った河野、大八木は幕府の使者に難が及ぶのを恐れて船内で自刃した。河野四郎は四十四歳であった。八月十八日の政変前夜の尊攘派の鼻息の荒い時期に置きた――― かなり無謀な ――― 事件であった(朝陽丸事件)。


無聖院廓然瑩徹居士(小倉藩島村志津摩之墓)

 島村志津摩は諱を貫倫(つらとも)といい、志津摩は通称。天保四年(1833)、島村十左衛門貫寵(内匠)の子に生まれ、天保十三年(1842)、家督を継いで、格式中老、家老席詰を経て、嘉永五年(1852)、小倉藩家老となった。殖産興業、武備増強に腐心した。佐幕攘夷論者であった。特に呼野金山を開き、田川の石炭採掘を奨励し、一方郡代河野四郎とともに新地の開墾、大庄屋・庄屋の帳面調査を行い、諸政を改新した。慶応二年(1866)長州藩再征の戦いには、士大将として活躍。同年八月小倉城自焼後は金辺峠の嶮に拠り、小倉を占領した長州藩軍を悩ませた。この時、農兵を組織して活用、勇名を馳せた。明治二年(1869)職を辞し、官途出仕の勧応に応ぜず、自適の生活を送った。明治七年(1874)の佐賀の乱には旧藩士を鼓舞して政府軍に救済尽力した。年四十四にて没。

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北九州 門司

2016年06月11日 | 福岡県
(和布刈神社)


和布刈神社

 門司海峡に面した、本州にもっとも近い場所に和布刈神社(めかり)がある。海峡通過の船の航行安全を祈念して祀られたのがこの神社の起源といわれる。


頭上を関門橋が走る

(和布刈公園)
 和布刈公園に隣接する塩水プールの駐車場から、道をはさんで西側に鉄塔が立っているが、そのさらに西側に唐人墓と称する慰霊碑がある。元治元年(1864)の八月五~六日、米・英・仏・蘭の四か国連合艦隊により下関襲撃事件の際に戦死したフランス水兵の慰霊碑である。四か国連合艦隊十七隻による攻撃で、長州藩の軍艦や砲台は壊滅的被害を受けたが、連合艦隊側もかなりの死傷者を出し、戦死者を門司の大久保海岸周辺に埋葬したという。フランスも自軍の戦死者を同海岸に埋葬していたが、明治二十八年(1895)、宣教師ビリオン神父が現在の石碑に建て替えた。その後、諸事情により数回移設を繰り返した後、現在地に落ち着いた。碑の台座にフランス語で次の文が刻まれている。

――― 一八六四年九月五日、六日 下関の戦いにおけるセミラミオ号とデュプレス号の戦死者であるフランス水兵を記念して 彼等のために冥福を祈る


唐人墓


唐人墓の碑文

(大里公園)
 北九州市門司区不老町の大里(だいり)公園に薩摩藩出身の前田正名の顕彰碑がある。調べてみても、どうしてこの地に前田正名に関する石碑がここにあるのかよく分からなかった。
 ちょうどこの日は、近所の方々が総出で公園の掃除をされているところであった。視線を感じながら公園の中を進むと、高速道路に近い、一番小高い場所に故男爵前田正名翁之碑が建てられている。書は同郷の元帥伯爵東郷平八郎による。


故男爵前田正名翁之碑

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鞍手

2016年06月11日 | 福岡県
(伊藤常足旧宅)


伊藤常足翁旧宅

 伊藤常足は、鞍手郡古門村(現・鞍手町古門)の古物神社の神官を代々務める家に生まれた。現在残る旧宅も、古物神社の参道から入ることになる。常足は、亀井南瞑に儒学を、青柳種信に国学を学んだ。常足の最大の学問的業績は筑前国の地誌である「太宰管内志」全八十二巻の編纂である。三十八年という気の遠くなるような年月をかけて、天保十二年(1841)、六十八歳の時、これを完成させ、福岡藩主黒田長溥に献上している。その他にも多くの著書、評論、和歌集、日記などを残した。安政五年(1858)、年八十五にて病没。


伊藤常足翁顕彰碑

 この旧宅は天明六年(1786)に建てられたもので、伊藤常足は十三歳の頃から起居していたと伝えられる。伊藤家資料や古図面に基づいて推定復元されたもので、平成元年(1989)から翌年にかけて「ふるさと創生事業」の一つとして修理復元されたものである。


旧宅内

 常足は五十七歳のとき、桜井神社の神庫学館の創立に関わり、その後教授として「日本書記」などを教えた。また、下関、黒崎、底井野、植木、芦屋などで和歌を指導し、多勢の門人を育て、執筆や講義を続ける学究の生涯を全うした。


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