(手向山公園)
今年(平成二十八年(2016))は、慶応二年(1866)の第二次長州征伐、(長州藩側から見れば四境戦争)から百五十年の記念の年である。これまで芸州口、大島口、石州口の戦跡は訪問済みであるが、残る小倉口の戦跡が未踏となっているのがずっと気になっていた。今回、ようやく実現することができた。
手向山公園
関門海峡方面を臨む
いわゆる小倉口の戦い(もしくは小倉戦争)の最激戦地となったのが、赤坂地区である。幕府の命を受けて小倉に集結した九州諸藩の兵は二万以上といわれる。これに対し、総督高杉晋作の指揮の下、長州藩の兵力はわずか一千であった。幕府は下関に攻め入る準備を進めるが、一足早く長州軍は関門海峡を渡った。
戦いの火ぶたは、慶応二年(1866)六月十七日の早朝、長州軍が下関より対岸の門司、田ノ浦を奇襲して始まった。狼狽した幕府軍は簡単に敗走した。
つづく七月三日、長州軍は再び海峡を渡って、今度は大里(現在の門司駅付近)の幕府軍陣営を奇襲した。七月二十七日、赤坂をめぐって激戦となった。ここを破られると小倉城は目の前である。幕府軍も凄まじい反撃に出た。およそ十三時間に及ぶ戦闘の結果、長州軍は戦死者の遺体を戦場に放置したまま下関に退却することになった。
手向山砲台跡
手向山は、代々小倉藩の家老であった宮本家が、藩主から拝領していた。明治に入ってこの山一帯を陸軍が接収し、明治二十一年(1888)関門海峡防備のために山頂東側に砲台を構築した。今もその痕跡を見ることができる。
手向山山頂には宮本武蔵や佐々木小次郎に関する碑や展望台があって、なかなか楽しめる。
(赤坂東公園)
慶應丙寅激戦の碑(赤坂合戦の碑)
赤坂周辺は今や閑静な住宅街であるが、慶応二年(1866)六月の第二次長州征伐(長州でいう四境戦争)小倉口の戦いでは激戦区となった。高台にある住宅街の一角、赤坂東公園にこのことを示す石碑が建てられている。
(赤坂山)
長州奇兵隊戦死墓
長州藩軍戦没者二十二名が眠る墓地である。長州奇兵隊戦死墓や山田鵬輔墓など四基の墓が並んでいる。彼らの墓は、対岸の下関の本行寺にもある。
慶応二年(1866)七月二十七日、長州軍と幕府軍(肥後藩・小倉藩ら)との戦いで、上鳥越(赤坂三丁目)に肉薄してきた長州藩奇兵隊山田鵬介隊との戦いは激しかった。山田隊は隊長以下多数の戦死者を出したが、肥後軍の直前で遺体収容もできず大里に引き上げた。肥後軍の参謀格横井小楠は、放置された遺体を集め「防長戦死塚」の木柱を立て手厚く葬った。明治になって長州出身の木戸孝允が、長州の僧田中芝玉に奇兵隊の遺骨を下関の奇兵隊墓地に移すように依頼した。これを聞いた新政府参与横井小楠は「墓を移すのは肥後藩の気持ちを無視するもので、遺憾である」と抗議した。木戸は諦めて芝玉に小倉の墓を守らせることにした。芝玉は長州が良く見えるこの地に墓を移し、墓守を続けたという。
山田鵬輔墓
山田鵬介は生年不明。諱は成功。文久三年(1863)奇兵隊に入隊し、慶應二年(1866)六月、幕長戦において豊前小倉口に出陣。小隊(砲護隊)司令として大里で戦い、鳥越千畳敷砲台に進入して奮戦中、銃丸に当たって戦死した。
慶應丙寅戦蹟
(延命寺)
木戸孝允の依頼をうけた長州の僧芝玉は、墓守のために延命寺に居住することになった。
延命寺は、正徳元年(1711)、小倉藩主小笠原忠雄(ただかつ)が、上野寛永寺の末寺として加護した寺で、境内には東照宮まで祀られていた。小倉城陥落後、この寺に長州軍が駐屯して荒らしたため、その規模は維新前よりずっと縮小してしまった。(一坂太郎著「高杉晋作を歩く」山と渓谷社)
延命寺
延命寺境内で奇兵隊の墓を発見した。墓石が破損して奇兵隊の「奇」の字が欠落しているが、「丙寅八月」すなわち慶応二年(1866)という建立年月から推定して、間違いなく奇兵隊の戦死者を葬ったものであろう。
奇兵隊戦死墓(右)
(宗玄寺)
慶應二年(1866)の長州藩との戦闘で宗玄寺は幕府軍の本陣となり、戦火で焼けてしまった。再建は明治四年(1871)のことであった。
なお、宗玄寺、開善寺とも、幕末の頃は市の中心部、小倉城に近い馬借町(小倉北区馬借)にあったらしいが、昭和五十一年(1976)に現在地に移転したものである。
宗玄寺
(仏母寺)
仏母寺には一瞬本堂が存在していないのかと見えたが、墓地の右手にまるで一般住宅のような御堂があった。墓地入口に「長州征伐無縁塔」が建てられている。「長州征伐」という用語から推測するに、幕府方の戦死者の供養塔であろう。
仏母寺
長州征伐無縁塔
(福聚寺)
福聚寺
福聚寺(ふくじゅじ)は、寛文五年(1665)、小笠原忠真の願いにより創建された寺で、小笠原家の菩提寺でもある。全盛期には二十五の宿坊と七堂の伽藍が並んでいたという。慶応二年(1866)七月の第二次長州征伐の際には、長州奇兵隊の侵攻を受け、彼らが福聚寺を本陣としたため、その後荒廃した。藩主菩提寺を他藩の軍隊に占拠されたというのは、小倉藩士にとって屈辱であっただろう。
慶応之役小倉藩戦死者墓
徹心院忠巌義俊居士(河野四郎の墓)
河野四郎は、文政三年(1820)、小倉藩士の家に生まれた。弘化元年(1844)、藩校思永館の助教となった。七代藩主小笠原忠徴の代、嘉永五年(1852)七月、島村志津摩が家老に就任すると、本格的に藩政改革に着手したが、志津摩の片腕として活躍したのが郡代河野四郎であった。藩政改革は主に小倉藩領の産業の振興を図るもので、石炭や金の採掘、養蚕・製糸・製茶の奨励、小倉織・小倉縮の増産、精蝋、学校の運営などを行った。文久三年(1863)五月十日、長州藩が関門海峡で外国船を砲撃すると、小倉藩に対し砲台の借用を申し入れ、遂には小倉藩領田野浦を占拠し、砲台を築いた。対応に苦慮した小倉藩では、河野四郎と勘定奉行大八木三郎右衛門を使者として幕府に伺いをたてた。河野らは江戸城で老中に面会しその場で外国船砲撃詰問のため使番中根一之丞らを長州に派遣することを伝えられた。河野四郎と大八木は中根一之丞らと幕府軍官朝陽丸に同船して長州に入ったが、長州藩ではこれを砲撃。さらに抜刀した数十名が朝陽丸に乗り込み、河野四郎の身柄引き渡しを要求した。これを知った河野、大八木は幕府の使者に難が及ぶのを恐れて船内で自刃した。河野四郎は四十四歳であった。八月十八日の政変前夜の尊攘派の鼻息の荒い時期に置きた――― かなり無謀な ――― 事件であった(朝陽丸事件)。
無聖院廓然瑩徹居士(小倉藩島村志津摩之墓)
島村志津摩は諱を貫倫(つらとも)といい、志津摩は通称。天保四年(1833)、島村十左衛門貫寵(内匠)の子に生まれ、天保十三年(1842)、家督を継いで、格式中老、家老席詰を経て、嘉永五年(1852)、小倉藩家老となった。殖産興業、武備増強に腐心した。佐幕攘夷論者であった。特に呼野金山を開き、田川の石炭採掘を奨励し、一方郡代河野四郎とともに新地の開墾、大庄屋・庄屋の帳面調査を行い、諸政を改新した。慶応二年(1866)長州藩再征の戦いには、士大将として活躍。同年八月小倉城自焼後は金辺峠の嶮に拠り、小倉を占領した長州藩軍を悩ませた。この時、農兵を組織して活用、勇名を馳せた。明治二年(1869)職を辞し、官途出仕の勧応に応ぜず、自適の生活を送った。明治七年(1874)の佐賀の乱には旧藩士を鼓舞して政府軍に救済尽力した。年四十四にて没。