(聖福寺)
聖福寺
やはり福岡市観光案内ガイドの調査によれば、聖福寺に斎藤五六郎の墓があることが確認できたということであったが、実際に聖福寺に行ってみると墓地には立ち入りができなかった。諦めきれずに本堂の角に立って塀越しに墓地を見渡してみると、偶然にも斎藤五六郎の墓を発見することができた。望遠レンズにて撮影。執念の一枚である。
禅機院心應一腫居士(斉藤五六郎墓)
斎藤五六郎は文政十二年(1829)、江戸福岡藩邸に生まれた。父は福岡藩士斎藤儀一郎定得。諱は定広。安政年間より加藤司書と協力して藩論の一致に努めた。元治元年(1864)の禁門の変に際して、福岡藩は禁裏守護のために加藤を長として派兵することになり、五六郎は大組頭助役としてこれに従い、加藤の補佐役に勤めた。第一次征長の役により派兵は中止となったが、征長軍の解兵のことに尽力し、また五卿保護の任に尽くした。のち大目付に進んだが、時に勤王・佐幕の二派に分れて争い、五六郎は尊王の藩論確立に努めたが、佐幕派の台頭により、翌慶応元年(1865)六月、職を追われて屛居させられ、博多天福寺にて自刃を命じられた。年三十七。
聖福寺には、ほかに玄洋社の平岡浩太郎もあるが、残念ながらこちらは発見に至らず。
(節信院)
節信院には加藤司書の墓がある。
節信院
見性院殿悟道宗心居士
(加藤司書の墓)
加藤氏はもと摂津伊丹の豪族で、荒木村重によって幽閉されていた黒田孝高(如水)を救出した加藤重徳を祖とし、代々福岡藩の中老を務めた。司書は天保十一年(1840)に家督二千八百石を継いだ。嘉永六年(1853)、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した際、福岡藩では司書に命じて藩士五百とともに長崎を警備した。元治元年(1864)の第一次長州征討の際には、広島の征長総督本陣に出向いて内戦の不可を訴え、長州征討の中止に尽くした。戦後、家老に昇進したが、司書の率いる改革派と保守派の対立が深まることになった。政権を把握した改革は、藩政の拡張と他藩との連携強化を進めたが、幕府・朝廷の意向を重視する藩主長溥の怒りを買う結果になり、慶應元年(1865)家老を罷免された。さらに幕府が長州再征を決したことから、保守派が復権し、改革派、尊攘派は弾圧を受けた(乙丑の変)。司書は同年十月二十五日、天福寺にて自刃。
加藤大三郎墓
加藤司書の墓の近くには、司書の子で玄洋社員として活動した加藤大三郎の墓もある。
(妙楽寺)
妙楽寺
鷹取養巴墓
鷹取養巴は文政十年(1827)の生まれ。父は福岡藩医鷹取秀綽。安政五年(1858)、勤王僧月照が京都から福岡に逃れてくると、同志と謀って月照を薩摩に遁れさせた。万延元年(1860)、藩主黒田長溥の参勤交代に際し、尊王派とこの阻止を建言したため、幽囚された。文久三年(1863)、許されて、浅香市作らとともに周旋方に任じられ、隣藩を歴訪し、その見聞に基いてしばしば建白を行った。元治元年(1864)、第一次征長に際して藩命により長州に使して恭順を勧め、また福岡藩内屯営の薩摩、肥前、筑後の諸藩兵の解兵を説き、ついで五卿の大宰府移転を斡旋した。慶応元年(1865)の乙丑の獄に連座。月形洗蔵らとともに枡木屋の獄において斬られた。年三十九。
伊丹真一郎墓
伊丹真一郎は天保四年(1833)、福岡藩士伊丹三十郎重遠の長男に生まれた。諱は重本、字は子信、雅号として信堂とも称した。万延元年(1860)、家督を継いで、藩政改革と尊王攘夷を唱えたため、文久元年(1861)五月、隠退、閉門を命じられた。文久三年(1863)、許されて、元治元年(1864)幕府が征長の軍を起すと、同志と解兵のために斡旋し、長州に赴いて意思の疎通に努め、五卿の西渡、薩長和解、高杉晋作の筑前亡命等に尽力した。ことに五卿を大宰府に迎えるに当たり、その中心的役割を果たし、以後五卿の警衛として大宰府に駐留した。ときに喜多岡勇平らが陰に幕府に通ずるを疑い、翌慶応元年(1865)六月、同志とともに暗殺した。同月、藩論が一変し禁固に処せられ、九月下獄、ついで死刑に処された。年三十三。
八代家累代之墓(八代主馬墓)
八代主馬は天保三年(1832)の生まれ。親族吉田岩見利尚の養子となったため、一時吉田主馬とも称した。諱は利征。家督を継いで中老に班し、用人に進んだ。万延元年(1860)、藩主の東上に扈従し、文久元年(1861)、世子に従い、帰国以来国事に奔走した。文久三年(1863)、遠賀郡在住の命を受け、東郡領端守衛を委任された。芦屋、山鹿、若松に砲台を築き、また農閑期に装丁の者を選抜し郷兵を組織し、外国軍艦の下関砲撃時には長州藩を援助した。慶応元年(1865)、己丑の獄に連座して用人を免ぜられたが、四月には長州再征の役に復職。京都出向を命じられた。時に中村到とともに藩論の回復を謀ったが、再び佐幕派に排斥されて、帰藩の命を受け、放役の上、逼塞謹慎に処された。慶応三年(1867)十月、許されて前職に復し、慶応四年(1868)三月、参政に進んだ。明治二年(1869)六月、版籍奉還ののち執政となり、福岡藩政を主導した。このとき初めて八代を姓とした。明治三年(1870)正月、権大参事、明治四年(1871)の廃藩に当たり士族授産の法を講じ、区長に任じられた。しかし、明治六年(1873)県下に竹槍一揆が起こると、責任を負って切腹した。年四十二。
大野氏累代之墓(大野仁平墓)
大野家の墓に大野仁平が合葬されているそうである。戊辰戦争では博徒や神官、僧兵、農民から成る勇敢隊を結成して、奥羽を転戦した。維新後は玄洋社に加わり、平岡浩太郎の炭鉱業をサポートした。
森勤作墓
森勤作は天保二年(1831)の生まれ。諱は通寧。字は子静。初め耕之助、のちに主一、升などと称した。父は福岡藩士吉田兵太夫生秀。福岡藩士森専蔵通知の養子となった。一時江戸納戸役として江戸藩邸に住み、水戸藩の尊王志士と交わり、藤田東湖と海防、軍備のことを論じた。元治元年(1864)、第一次征長に際し、藩命により諸藩征長軍の隊長に解兵を説いてまわった。慶応元年(1865)、対馬藩で勤王・佐幕の内訌が起こると、藩命により尾崎惣左衛門、尾上四郎左衛門らとともに対馬に渡り、朝廷に尽力した。その頃、福岡藩内の藩論が一変し、本国の同志はみな罪を蒙り、勤作もまた召還の命を受けた。薩長の同志は帰国に反対したが、勤作はこれを斥けて帰藩し、捕えられて処刑された。年三十五。
(天福寺跡)
天福寺跡碑
祇園の第一生命ビルの前に天福寺跡を示す石碑が置かれている。石碑には、この場所で切腹して果てた加藤司書の歌と辞世も刻まれている。
君が為 盡す赤心今よりは
尚いやまさる 武士の一念
(万行寺)
万行寺
福岡旅行の二日目、夕刻に万行寺を訪れたら、正門が閉ざされ中に入ることができなかった。翌朝、改めて訪問して入ることができた。墓地入口付近に石蔵卯平の墓がある。
贈従五位石蔵卯平忠明之墓
石蔵卯平は天保七年(1836)、屋号を石蔵屋という対馬藩御用を務める博多鰯町の商家に生まれた。尊王の志士と交わり、対馬、福岡両藩士のために金銭を供給し、あるいは自分の家に尊王の志士を庇ったり、また志士の依頼を受けて各地の情況を偵察した。対馬藩内訌では平田一族救出に尽くすところ大であった。慶応元年(1865)の夏、福岡尊王藩士月形洗蔵の書を携えて京都に上り、西郷隆盛の返書を得て帰る途中、形勢一変、月形らの刑死を聞き、下関にとどまって奇兵隊に入った。以後、高杉晋作に従い、野村望東尼に姫島脱出にも協力した。慶応四年(1868)、王政復古が宣言されたが、未だ諸藩の向背定まらず、ために九州の同志糾合に活躍中、天草で暗殺された。年三十三。
(立花寺)
福岡空港に到着してレンタカーを手に入れると、最初の訪問地は立花寺の白垣亦吉の墓である。接取寺の墓地の一角にあるが、墓地のブロック塀の外側にある。
御地蔵様 白垣亦吉の墓
白垣亦吉は、西南戦争に出役し、植木町辺田野山にて戦死。二十四歳と伝わる。