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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

御蔵島 Ⅱ

2019年10月05日 | 東京都

(神の尾墓地)

 ヘリポートの手前、小中学校の向い側が町で唯一の墓地である。この墓地を歩いてみれば直ぐに気が付くが、御蔵島の住人のほぼ半分は広瀬姓、次いで多いのが栗本姓なのだそうだ。住宅にはほとんど表札は掲げられていない。多分町の人は誰がどこに住んでいるのか正確に把握しているに違いない。郵便物は、「東京都御蔵島村」だけで届くそうである。でも、ちゃんと下の名前まで書かないといけない。住所よりも名前の方が大事なのである。

 

                       

栗本一郎翁の墓

 

 最上段の一際背の高いのが栗本一郎(市郎左衛門)の墓である。文久二年(1862)四月、ヴァイキング号が座礁した折、御蔵島の地役人として対応に当たったのがこの栗本一郎であった。栗本は、村全体で被災者を受け入れることを決断し、幕府との間に奔走した。その際、「西洋黒船漂難一件記」を書き残した。慶応四年(1868)にロシア船が遭難した際、この記録が役に立ったといわれる。維新後は、御蔵島の産業振興と教育に尽くした。

 

 

明治元年 露國商船溺死者之墓

 

 墓地の同じ段、唐金仏(からかねぼとけ)の隣に、栗本一郎が建てた「露國商船溺死者之墓」がある。慶応四年(1886)にロシア船が遭難。十二人が御蔵島に漂着し、九人(広東人四人、台湾人一人、黒人三人、日本人一人)が救助されたが、三人(ロシア人一人、日本人二人)が溺死した。この時、栗本一郎は惣代年寄として対応に当り、溺死者を手厚く葬っている。

 

 さらにヘリポート側に進むと古入金七人塚がある。

 

 

古入金七人之墓

 

 宝暦五年(1755)、流人の島抜け未遂事件が起こった。当時、島にいた八人の流人が、里に火を着け、その騒ぎの間に船を奪って逃げようとしたのである。そのうちの一人が島娘と恋中になっており、事前に娘に打ち明けたため、青年は島の恩人となり、残る七人は処刑された。この伝承には一切の記録がなく、当時の流人の数にも一致しないという。墓が一基残るのみで、しかもこの墓についても過去帳で確認できないという。ヘリポートの工事の際、墓も移転したが、何もそれらしいものは発掘されなかった。

 

奥山交竹院之墓

 

 神の尾墓地から都道を挟んだ南側に奥山交竹院の墓がある。左の玉石の墓石は、利島の船頭彦四郎のものである。奥山交竹院は幕府奥医師であったが、絵島事件に連座し御蔵島に流された。当時、御蔵島は三宅島の属島となっており、三宅島の財政が厳しくなると黄楊(つげ)を伐採して送るように要求していた。御蔵島では黄楊はほとんど切り尽くしてしまったという。御蔵島の窮状を見かねた奥山交竹院は、江戸の人脈を使って幕府を動かし、御蔵島を三宅島から独立させることに成功した。このとき江戸で動いたのが桂川甫竹であり、御蔵島側では加藤蔵人が活躍した。御蔵島では交竹院を恩人として祀っている。

 

(伊豆諸島東京都移管百周年記念碑)

 

昼寝する猫 

 

 観光案内所の前の坂道の途中に伊豆諸島東京都移管百周年記念碑がある。

 明治四年(1871)、廃藩置県後、伊豆の島々は、相模県、韮山県、足柄県、静岡県と目まぐるしく変わったが、明治十一年(1878)、一月十一日の太政官布告第一号(太政大臣は三条実美)により東京都に編入された。この石碑は、昭和五十三年(1978)一月十一日、移管百年を記念して建てられたのである。

 ということで、御蔵島の自動車は品川ナンバーである。見た限り、軽自動車しか走っていない。高速道路があるわけではないし、ガソリンが高価なので、坂道さえ登れば、軽自動車で十分なのだろう。因みに坂道の急なこの島では自転車は走っていないし、自転車屋も存在していない。

 

伊豆諸島東京都移管百周年記念碑   

 

(御蔵島観光資料館)

 今回の御蔵島訪問では、観光案内所の方々に本当にお世話になった。開館の八時半にお約束していたので、その時間に伺った。直ぐに祖霊社の神主さん宅を教えていただいた。

 祖霊社で栗本鋤雲の胸像を拝見したら、再び観光案内所に戻って、「御蔵島村史」などの史料を閲覧し、一階にある郷土資料館(入館料百円)の展示を拝見した。郷土史料館では、特別展示「奥山交竹院没後三百年記念展」を開催中であった。

 

 御蔵島観光資料館

 

 郷土資料館はヴァイキング号事件やその解決に尽力した栗本一郎関係の展示などが注目である。

 観光案内所では、奥山交竹院没後三百年記念展を機に限定三十組の記念手ぬぐいを作った。いかにも売れそうもないグッズであったが、勧められると断れない私は、言われるまま購入してしまった(千八十円)。

 

郷土資料館 

 

 

ヴァイキング号模型

 

(祖霊社)

 観光案内所で神主さんの自宅をご教示いただき、早速神主さんを訪ねた。観光案内所から事前に連絡をしていたこともあって、神主さんには心よく案内に応じていただいた。

 祖霊社は、民宿御蔵荘に隣接する神社である。維新前は万蔵寺という寺であったが、廃仏棄釈により神社に転換したという歴史を持っている。いわれてみれば神殿前の鳥居は何だかとってつけたような感じがするし、神殿そのものもいかにも御寺の本堂っぽい建物である。

 神殿に入って、右側の大き目の戸棚の中に栗本鋤雲胸像の石膏製原型は保存されていた。地元では「白ん爺」(しろんじい)と呼ばれているそうである。普段この像は神殿の奥にしまわれており、人の目に触れることも少ないため、保存状態は極めて良好で、作られた当時のままといっても良い。孤島だからこそ少しの破損もなく今に伝わったのであろう。

 

祖霊社

 

 

栗本鋤雲胸像の原型

 

 伝えられるところによれば、鋤雲の門弟である犬養毅が美校(現東京藝術大学)出身の某に作らせ、栗本重光(神主さんのご先祖にあたる)の養嗣子である栗本俊吉に贈ったものという。俊吉自身も鋤雲と親交があり、御蔵島には、鋤雲が俊吉に贈った送別の辞の扁額や鋤雲遺愛の硯なども伝わっている。

 これを原型として群馬県権田の東善寺や横須賀市自然・人文博物館にも盟友小栗上野介の横に栗本鋤雲の胸像が並ぶことになったのである。

 

 

栗本一郎辞世碑

 

 祖霊社境内には栗本一郎の辞世碑もある。残念ながら何が書いてあるか読み取れない。

 

(鉄砲場)

 ここまで来てほぼ予定していた史跡はほぼ見終えてしまった。戸数百七十五という集落はさほど大きいものではなく、一~二時間もあれば一周できてしまう。船が出るまでの残り時間をどうするか、なかなか悩ましい問題であった。観光協会からいただいた里中マップに蔵屋敷跡、鉄砲場というそれらしい地名があったので、行ってみることにした。

蔵屋敷跡は稲根神社の近く、三宝橋を渡った辺りである。

 

 蔵屋敷跡

 

 蔵屋敷といえば、一般的には藩で生産された米や特産品を貯蔵しておく施設のことであるが、御蔵島では季節によって使わない農具や漁具を保管しておく倉庫が並ぶ場所のことであった(言わばトランクルームである)。

 さらにこの道を進むと鉄砲場という名前の民宿がある。想像するに、ここで鉄砲の調練を行ったとか、鉄砲隊が警護したとか、そういういわれのある場所なのだろうか。何故、鉄砲場という妙な名前なのか、「御蔵島村史」などでも調べてみたが、最後までよく分からないままであった。

 

 

鉄砲場

 

鉄砲場からの眺望 

 

 鉄砲場から町を一望できる。昔は島の南東部の南郷にも集落があったそうだが、今は廃村となったため、この島の街はこれで全てである。島の主な産業は農業、漁業、林業や観光業だが、もともと土地はやせており農作には向かない。どうしても観光収入に頼るところが大きいであろう。やはりこの島がもっとも賑わうのはイルカ・ウォッチングやダイビング客が訪れる夏である。この日も東京に戻る船に乗るため、大勢の観光客が桟橋に集まっていた。

 

往復十五時間をかけて、島の滞在時間は六時間半。時間的には割りが合わない旅であったが、大満足であった。

 

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御蔵島 Ⅰ

2019年10月05日 | 東京都

 伊豆諸島の旅第五弾は御蔵島である。

 御蔵島は東京から南に約二百キロメートル、三宅島から二十キロメートル足らず南の海に浮かぶ周囲十六キロメートルという孤島である。この島には毎日一便、東京の竹芝桟橋を夜中に出て、八丈島に向かう東海汽船の橘丸が寄港している。しかし、風浪が高いと接岸ができず、上陸できないこともある。実際、台風が接近した今年のお盆前後には何日も観光客が島内に足止めされることになった。

 週間天気予報をみて、この週末であれば大丈夫と踏んで御蔵島訪問を決めた。

 御蔵島における史跡訪問の目玉は、祖霊社という神社に保存されている栗本鋤雲の胸像原型である。

 都の教育庁三宅支所に問い合わせたところ、栗本鋤雲胸像原型は文化財などに指定されているものではないので、教育委員会に閲覧許可を得る必要はない。御蔵島観光案内所を通して神社管理者に連絡してほしいと返事があった。そこで一週間前に御蔵島観光案内所にコンタクトした。観光案内所によれば、栗本鋤雲像は神主さんの都合さえ良ければ問題はないが、宿の予約なしに御蔵島に来るのは困る。野宿はご遠慮いただいている。とはいえ、観光シーズンなので今から宿の手配をするのは現実的ではない。結論としては、前日に観光案内所に連絡して、翌日の船が接岸できそうかどうか、確認してくださいという。

 金曜日、渡航できるかどうか判然としないまま大きな荷物を背負って会社に行き、昼休みに観光案内所に電話をすることになった。「ま、大丈夫でしょう」という返事だったので、晴れて御蔵島に行けることになった。あまり御蔵島に日帰りで行こうという人はいないと思うが、天候次第では行けなくなってしまうというリスクを十分承知しておく必要がある。

 

御蔵島 

 

 御蔵島は、お椀を伏せたような形をしている。伊豆大島や三宅島同様、この島も火山であったが、五千年以上も噴火の記録がないという。そのため内陸部は深い森に覆われている。

この島の特徴は、水が豊富に湧き出ていること、それに海岸部が絶壁となっていることである。島を流れる川は、大きな滝となって海に注ぎ込んでいる。船の甲板からも大きな滝が確認できる。

 

 

橘丸  

 

行きの橘丸は、ダイビング客や釣り人で満席であった。御蔵島は特にイルカ・ウォッチングで有名であるが、史跡訪問を目的に、しかも日帰りで御蔵島に渡ろうという変人は、一人だけだったかもしれない。

橘丸に乗るのも、もう五回目なので慣れたものである。いつものことながら、酔い止めの薬を服用した。船内で貸し出される毛布は二枚借りた方が良い。船内にレストランもあるが、ちょっと高い(キツネうどんが六百円)。少なくとも翌日の朝食は東京で仕入れておいた方が良いだろう。

御蔵島には朝の六時頃に到着する。予報では曇りときどき晴だったのだが、小雨がぱらつく曇天であった。民宿から迎えの車がきているが、日帰り客は歩いて街に向かうしかない。港から急な坂を登ると、「イルカの見える丘」と名付けられた展望台を通る。実際にはなかなかイルカを見ることはできないが、対岸の三宅島を臨むことができる。

 

 

玉石の海岸

 

 「イルカの見える丘」の真下に玉石の海岸がある。玉石は長年の波による侵食作用によりラグビーボールのように丸くなった石である。この海岸には玉石が敷き詰められている。砂浜では砂が波に巻き上げられて海が濁ってしまうが、ここでは海岸であっても透明度が高い。

 御蔵島には人が住める平地が少なく、急な斜面に牡蠣殻が張り付くように家屋が建てられている。御蔵島村のホームページによると、現在、戸数は百七十五戸、人口は三百二十一名(平成三十年八月現在)となっている。安政年間の人口調査では二百六十名だったので、この百五十年でさほど人口は増えていないのである。この狭い空間に、役所、学校、幼稚園、郵便局、診療所、墓地など生活に必要なものが一通りそろっている。ガソリンスタンドも一つだけあるが、ガソリンがリットル当たり二百十七円と内地と比べて驚くほど高価である。因みに、この町に信号機とコンビニはない。同じ東京都とはいえ内地とは別世界である。

 

 

唯一のガソリンスタンド 

 

(稲根神社)

 観光案内所が開く八時半まで時間があったので、それまで町の中を歩いてみることにした。最初の訪問地は、稲根(いなね)神社である。

 

 

稲根神社

 

 参道途中の鳥居の脇にヴァイキング号の記念碑がある。文久二年(1862)四月、御蔵島沖で座礁大破した。ヴァイキング号には乗組員二十三人のほか、中国人鉱夫四百六十名を乗せ、香港を出てサンフランシスコに向かう途上であった。島民の尽力により全員が救助され、当時二百五十名という島民は、自身の衣食住を切り詰めて彼らを厚遇したと伝えられている。

 ここにある石碑は、昭和四十一年(1966)、ヴァイキング号の所属港地であるニューベットフォード市民および遭難者の子孫により建てられたものである。

 

 

ヴァイキング号記念碑 

 

 

ヴァイキング号のギャプスタンを台座に使用した燈籠

 

 記念碑の前にある金属製の燈籠は、ヴァイキング号のキャプスタン(巻き上げ機)を台座に使用したものである。記念碑の横には引き揚げられたヴァイキング号の錨が展示されている。下に敷き詰められている花崗岩は、ヴァイキング号のバラストとして積まれていた石なのだそうである。

 

 

ヴァイキング号の錨

 

 

高橋基生先生顕彰碑

 

 ヴァイキング号記念碑の傍らにこの事件を世間に紹介した東京大学理学博士高橋基生を顕彰する碑が置かれている。高橋先生がこの島を訪れたのは植物調査が目的であったが、稲根神社の燈籠からヴァイキング号事件の史実を解明するとともに米国司法長官や駐日大使らと共同してヴァイキング号記念碑の建立に尽力した。

 境内の三宝神社は、御蔵島の恩人奥山交竹院、桂川甫竹、加藤蔵人を祀るもので、祠の中には三人の小さな銅像がある。毎年、加藤蔵人の命日である十一月十日に三宝神社祭りが行われている。

 

三宝神社   

 

三宝神社に祀られている三人の銅像 

 

 石製の扉を開けると、奥山交竹院、桂川甫竹、加藤蔵人の三人の小さな銅像が現れる。石製の扉の裏側には、ゴキブリとカメムシが合体したような(内地ではちょっと見ないような)虫が密生していた(サツマゴキブリか?)。

 

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