(神の尾墓地)
ヘリポートの手前、小中学校の向い側が町で唯一の墓地である。この墓地を歩いてみれば直ぐに気が付くが、御蔵島の住人のほぼ半分は広瀬姓、次いで多いのが栗本姓なのだそうだ。住宅にはほとんど表札は掲げられていない。多分町の人は誰がどこに住んでいるのか正確に把握しているに違いない。郵便物は、「東京都御蔵島村」だけで届くそうである。でも、ちゃんと下の名前まで書かないといけない。住所よりも名前の方が大事なのである。
栗本一郎翁の墓
最上段の一際背の高いのが栗本一郎(市郎左衛門)の墓である。文久二年(1862)四月、ヴァイキング号が座礁した折、御蔵島の地役人として対応に当たったのがこの栗本一郎であった。栗本は、村全体で被災者を受け入れることを決断し、幕府との間に奔走した。その際、「西洋黒船漂難一件記」を書き残した。慶応四年(1868)にロシア船が遭難した際、この記録が役に立ったといわれる。維新後は、御蔵島の産業振興と教育に尽くした。
明治元年 露國商船溺死者之墓
墓地の同じ段、唐金仏(からかねぼとけ)の隣に、栗本一郎が建てた「露國商船溺死者之墓」がある。慶応四年(1886)にロシア船が遭難。十二人が御蔵島に漂着し、九人(広東人四人、台湾人一人、黒人三人、日本人一人)が救助されたが、三人(ロシア人一人、日本人二人)が溺死した。この時、栗本一郎は惣代年寄として対応に当り、溺死者を手厚く葬っている。
さらにヘリポート側に進むと古入金七人塚がある。
古入金七人之墓
宝暦五年(1755)、流人の島抜け未遂事件が起こった。当時、島にいた八人の流人が、里に火を着け、その騒ぎの間に船を奪って逃げようとしたのである。そのうちの一人が島娘と恋中になっており、事前に娘に打ち明けたため、青年は島の恩人となり、残る七人は処刑された。この伝承には一切の記録がなく、当時の流人の数にも一致しないという。墓が一基残るのみで、しかもこの墓についても過去帳で確認できないという。ヘリポートの工事の際、墓も移転したが、何もそれらしいものは発掘されなかった。
奥山交竹院之墓
神の尾墓地から都道を挟んだ南側に奥山交竹院の墓がある。左の玉石の墓石は、利島の船頭彦四郎のものである。奥山交竹院は幕府奥医師であったが、絵島事件に連座し御蔵島に流された。当時、御蔵島は三宅島の属島となっており、三宅島の財政が厳しくなると黄楊(つげ)を伐採して送るように要求していた。御蔵島では黄楊はほとんど切り尽くしてしまったという。御蔵島の窮状を見かねた奥山交竹院は、江戸の人脈を使って幕府を動かし、御蔵島を三宅島から独立させることに成功した。このとき江戸で動いたのが桂川甫竹であり、御蔵島側では加藤蔵人が活躍した。御蔵島では交竹院を恩人として祀っている。
(伊豆諸島東京都移管百周年記念碑)
昼寝する猫
観光案内所の前の坂道の途中に伊豆諸島東京都移管百周年記念碑がある。
明治四年(1871)、廃藩置県後、伊豆の島々は、相模県、韮山県、足柄県、静岡県と目まぐるしく変わったが、明治十一年(1878)、一月十一日の太政官布告第一号(太政大臣は三条実美)により東京都に編入された。この石碑は、昭和五十三年(1978)一月十一日、移管百年を記念して建てられたのである。
ということで、御蔵島の自動車は品川ナンバーである。見た限り、軽自動車しか走っていない。高速道路があるわけではないし、ガソリンが高価なので、坂道さえ登れば、軽自動車で十分なのだろう。因みに坂道の急なこの島では自転車は走っていないし、自転車屋も存在していない。
伊豆諸島東京都移管百周年記念碑
(御蔵島観光資料館)
今回の御蔵島訪問では、観光案内所の方々に本当にお世話になった。開館の八時半にお約束していたので、その時間に伺った。直ぐに祖霊社の神主さん宅を教えていただいた。
祖霊社で栗本鋤雲の胸像を拝見したら、再び観光案内所に戻って、「御蔵島村史」などの史料を閲覧し、一階にある郷土資料館(入館料百円)の展示を拝見した。郷土史料館では、特別展示「奥山交竹院没後三百年記念展」を開催中であった。
御蔵島観光資料館
郷土資料館はヴァイキング号事件やその解決に尽力した栗本一郎関係の展示などが注目である。
観光案内所では、奥山交竹院没後三百年記念展を機に限定三十組の記念手ぬぐいを作った。いかにも売れそうもないグッズであったが、勧められると断れない私は、言われるまま購入してしまった(千八十円)。
郷土資料館
ヴァイキング号模型
(祖霊社)
観光案内所で神主さんの自宅をご教示いただき、早速神主さんを訪ねた。観光案内所から事前に連絡をしていたこともあって、神主さんには心よく案内に応じていただいた。
祖霊社は、民宿御蔵荘に隣接する神社である。維新前は万蔵寺という寺であったが、廃仏棄釈により神社に転換したという歴史を持っている。いわれてみれば神殿前の鳥居は何だかとってつけたような感じがするし、神殿そのものもいかにも御寺の本堂っぽい建物である。
神殿に入って、右側の大き目の戸棚の中に栗本鋤雲胸像の石膏製原型は保存されていた。地元では「白ん爺」(しろんじい)と呼ばれているそうである。普段この像は神殿の奥にしまわれており、人の目に触れることも少ないため、保存状態は極めて良好で、作られた当時のままといっても良い。孤島だからこそ少しの破損もなく今に伝わったのであろう。
祖霊社
栗本鋤雲胸像の原型
伝えられるところによれば、鋤雲の門弟である犬養毅が美校(現東京藝術大学)出身の某に作らせ、栗本重光(神主さんのご先祖にあたる)の養嗣子である栗本俊吉に贈ったものという。俊吉自身も鋤雲と親交があり、御蔵島には、鋤雲が俊吉に贈った送別の辞の扁額や鋤雲遺愛の硯なども伝わっている。
これを原型として群馬県権田の東善寺や横須賀市自然・人文博物館にも盟友小栗上野介の横に栗本鋤雲の胸像が並ぶことになったのである。
栗本一郎辞世碑
祖霊社境内には栗本一郎の辞世碑もある。残念ながら何が書いてあるか読み取れない。
(鉄砲場)
ここまで来てほぼ予定していた史跡はほぼ見終えてしまった。戸数百七十五という集落はさほど大きいものではなく、一~二時間もあれば一周できてしまう。船が出るまでの残り時間をどうするか、なかなか悩ましい問題であった。観光協会からいただいた里中マップに蔵屋敷跡、鉄砲場というそれらしい地名があったので、行ってみることにした。
蔵屋敷跡は稲根神社の近く、三宝橋を渡った辺りである。
蔵屋敷跡
蔵屋敷といえば、一般的には藩で生産された米や特産品を貯蔵しておく施設のことであるが、御蔵島では季節によって使わない農具や漁具を保管しておく倉庫が並ぶ場所のことであった(言わばトランクルームである)。
さらにこの道を進むと鉄砲場という名前の民宿がある。想像するに、ここで鉄砲の調練を行ったとか、鉄砲隊が警護したとか、そういういわれのある場所なのだろうか。何故、鉄砲場という妙な名前なのか、「御蔵島村史」などでも調べてみたが、最後までよく分からないままであった。
鉄砲場
鉄砲場からの眺望
鉄砲場から町を一望できる。昔は島の南東部の南郷にも集落があったそうだが、今は廃村となったため、この島の街はこれで全てである。島の主な産業は農業、漁業、林業や観光業だが、もともと土地はやせており農作には向かない。どうしても観光収入に頼るところが大きいであろう。やはりこの島がもっとも賑わうのはイルカ・ウォッチングやダイビング客が訪れる夏である。この日も東京に戻る船に乗るため、大勢の観光客が桟橋に集まっていた。
往復十五時間をかけて、島の滞在時間は六時間半。時間的には割りが合わない旅であったが、大満足であった。