史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

館林 Ⅳ

2019年10月12日 | 群馬県

(田中正造記念館)

 

 

田中正造記念館 

 

 せっかくだから館林の田中正造記念館を訪ねることにした。いうまでもなく、足尾銅山鉱毒事件で活躍した田中正造の功績を顕彰する記念館である。時系列に田中正造の事績をパネル展示している。

 銅山が流す鉱毒が渡瀬川流域に拡散し、川魚が死滅したのみならず、農産物も壊滅的な被害を受けた。木が伐採された山は大雨が降ると土砂崩れが発生し、鍰をためるダムが決壊して、多くの住民が被災した。

 明治三十四年(1901)、田中正造は銅山の操業停止を訴え、それが受け入れられないと知ると、明治天皇に直訴するという「禁じ手」に出た。直訴は未遂に終わったが、田中正造の住民を助けたいという情熱がなせる行為であった。

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幸手 Ⅱ

2019年10月12日 | 埼玉県

(幸手西高校)

 

幸手西高校 

 

 幸手西高校の裏(正確に言うとグラウンドの東側)の一角に橘守部の遺蹟碑が建っている。この石碑を見るために八王子から幸手まで往復した。東武鉄道の幸手駅から徒歩二十分。残暑の厳しい日で、幸手高校に着いたときには汗で目が開けられないくらいであった。

 

 

橘守部翁遺蹟碑

 

 伊勢国に生まれた橘守部は、十七歳で江戸にでて学問を志し、やがて積極的に国学の道に入った。文化六年(1809)、二十九歳のときから内国府間常照院に住み、約二十年間、この地域の教育に携わった。門下生は約二百人に及んだといわれる。

 常照院の敷地は県立幸手商業高校に引き継がれ、現在は幸手西高校になっている。この石碑は昭和四年(1929)に建立されたもの。市立図書館には守部の書簡が市指定有形文化財として保存されている。

 

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