史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

茅野

2021年09月04日 | 長野県

(茅野)

 明治十三年(1880)、明治天皇は山梨、三重、京都巡幸の際、茅野を通過し、五味三郎宅で休息をとった。六月十六日に出発し、二十三日山梨県から諏訪に入り、午後二時に五味宅に到着した。伏見宮、太政大臣三条実美、参議寺島宗則、伊藤博文等五百余名(三百名とも)が従った。五味宅では、五味又三、大島総十郎、五味嘉与助らが当たった。一行は約一時間をここで過ごすと、上諏訪へ出発した。

 

明治天皇茅野御小休所

 

 辺りを見渡してもなかなか石碑が見当たらない。諦めかけたその時、自動車の影に石碑を発見した。

 

(宗湖寺)

 明治天皇が茅野で小休をとった際、宗湖庵の井戸水を用いてお茶を献上した。宗湖寺の本堂前ではそれを示す石碑とともに、今も水が湧いているのを見ることができる。

 

宗湖寺

 

明治天皇茅野御膳水

 

 

(金沢)

 

明治天皇金澤行在所趾

 

 金沢宿は、慶安年間の初めまでは、現在地の北方権現原にあってそれまで青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安四年(1651)、現在地に移転し金沢町と改称した。

 本陣は約四反歩(約四〇アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米蔵などがあった。小松家は青柳宿時代から代々本陣問屋を務めていた。隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れて町民の先頭に立って働いた四代目三郎左衛門は、延宝六年(1678)、高島藩は伝馬を怠ったという廉で、町民の見守る中で磔の刑に処し、小松家は闕所断絶となった。その後、明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。

 本陣跡には何も残っていないが、明治十三年(1880)の明治天皇巡幸を記念した石碑が立っている。

 

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諏訪 Ⅱ

2021年09月04日 | 長野県

(明治聖園)

 

明治聖園

 

 現在明治聖園となっているこの場所は、高島城柳口御役所跡である。高島藩は、民政の窓口として城入り口の柳口の近くに柳口御役所を置き、その中にはお白洲(今でいう裁判所)もあった。一帯には島崎に次いで上級藩士の屋敷が多く、近くの虫湯は藩主や藩士たちが利用する温泉であった。明治二年(1869)、ここに国学校が開かれ、明治十三年(1880)には高島学校が新築された。同年六月二十三日には、明治天皇の巡幸の行在所にもなった。

 

明治天皇上諏訪行在所趾

 

明治天皇御製

 

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下諏訪 Ⅱ

2021年09月04日 | 長野県

(下諏訪本陣跡)

 明治十三年(1880)六月二十四日、明治天皇巡幸の際、小休所となった。

 

明治天皇下諏訪御小休所

 

本陣遺構

 

 

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岡谷

2021年09月04日 | 長野県

(今井)

 

今井番所跡

 

 岡谷市の今井地区では、東西に旧中山道が走っている。江戸時代初期、徳川家康は街道を整備した。当初中山道は今井より東方の東堀から川岸を経て木曽へ通じる道であったが、慶長十九年(1614)に塩尻峠越えの道が開削された。今井は、塩尻峠の東の登り口にあたり、古来交通上の要衝であった。今井番所跡は、幕府が江戸防衛のために街道の要衝に設置した関所の一つである。

 

明治天皇今井御膳水

 

 番所跡碑の近くに御膳水碑がある。

 

明治天皇今井御小休所

 

明治天皇今井御小休所

 

 今井家は、中山道の本陣であり、今もその旧観を伝えている。文久元年(1861)十一月五日、皇女和宮がこの本陣で休憩をとっている。さらに時代は下がって、明治十三年(1880)六月二十四日、明治天皇が山梨、三重、京都方面巡幸の際に御小休所となった。

 

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松本 Ⅲ

2021年09月04日 | 長野県

(松本城)

 

明治天皇駐輦遺址

 

 松本城の太鼓門の北側に明治天皇駐蹕遺址碑がある。

 明治天皇が松本に巡幸したのは明治十三年(1880)六月のことで、当時、二の丸御殿跡地に新築されていた松本区裁判所に立ち寄られたことを記念したものである。大正十年(1911)の建碑。裁判所は昭和五十三年(1978)に移転したが、この碑は現在地に残された。

 

(四柱神社)

 八王子の自宅を昼過ぎに出発し、高尾山インターから高速道路に乗ったが、中央高速に合流するまでわずか数キロメートルが渋滞して、そのわずかな距離を進むのに二時間を要した。その後はまずまず順調に流れたが、松本に到着したのは午後五時半になっていた。早く着けば塩尻、岡谷辺りを回ってから松本市内へと考えていたが、初日は結果的には松本市内の史跡しか回ることはできなかった。

 

 四柱(よはしら)神社は、天照大神や天之御中主神ら四人の神様を祀っている。境内には松本市招魂殿や明治天皇聖蹟など見所が多い。

 

四柱神社

 

松本市招魂殿

 

 松本市招魂殿は、西南の役をはじめ、日清日露戦役に至るまで殉難した旧松本市出身戦没者の神霊を祀るものである。

 

戦功碑

 

 戦功碑は、明治十年(1877)の西南戦争に従軍した信濃出身者の戦功を顕彰するもので、明治二十六年(1893)の建立。撰文は時の陸軍大臣山県有朋。書は金井之恭。

 

 明治十三年(1880)の明治天皇巡幸に際して、松本における行在所は、四柱神社併設の神道事務分局と定められた。同年六月二十四日、明治天皇は松本に到着。午後三時三十分に、四柱神社の御幸橋を渡って行在所に入った。

 

聖蹟 御幸橋

 

明治天皇行在所舊址

 

(日本銀行松本支店)

 

明治天皇聖蹟

 

 松本城の太鼓門前に日本銀行松本支店がある。その北東の隅に将棋の駒の形をした明治天皇聖蹟碑が置かれている。書は東郷平八郎による。

 

(源智の井戸)

 源智(げんち)の井戸は松本市内の名水の一つで、松本に城下町が形成される以前から飲料に用いられたという古い歴史を持っている。所有者は小笠原氏の家臣河辺縫殿助源智で、その名前をとって源智の井戸と呼ばれるようになった。天保十四年(1843)に書かれた「善光寺道名所図会」によれば、この井戸は「当国第一の名水」で松本市内の酒造業者は悉くこの水を使い、歴代の領主は制札を出して、この清水を保護したといわれる。明治十三年(1880)の明治天皇松本巡幸には、この井戸の水が御膳水として使用された。

 

源智の井戸

 

明治天皇松本御膳水

 

(深志神社)

 

深志神社

 

 深志神社は、暦応二年(1339)九月九日、信濃国守護小笠原貞宗の創建と伝えられる古社である。永正元年(1504)、深志城(松本城)築城にあたり社殿を南西から西面に尚志、城の辰巳方の守護神とされた。歴代松本藩主(石川・小笠原・松平・水野・堀田・戸田家)の崇敬篤く、神領、祭器、神宝、社殿等が寄進された。天保十二年(1841)、深志神社と公称された。

 

松澤君碑

 

 社殿の裏手に松澤君碑がある。

 松澤求策は「東洋自由新聞」の発起人の一人で編集員。西園寺公望が社長、主筆は中江兆民、幹事に松田正久がいたが、政府の容れるところとならず、西園寺は辞任に追い込まれ廃刊となった。松澤は内勅の事実を暴露したため、捕らえられ、明治二十年(1887)、三十二歳で獄死した。この石碑は大正十三年(1925)の建立。篆額は西園寺公望の書。

 

(中田家)

 

中田家住宅

 

 中田家は江戸時代には出川組の名主役を務め、役宅に相応しい庭園を備えた屋敷を構えていた。江戸時代中期からは酒造業を営んだ。旧態を今日に伝えている。明治天皇の北国巡幸の際、御小休所となった。

 

明治天皇信楽御小休所

 

(村井)

 村井宿は、慶長年間、北国脇往還に開かれた宿場である。松本から一里二十町、郷原宿へは一里十二町という位置にあった。宿場の長さは五町九間、町割りは一戸分の間口六間、奥行き二十間から三十間。元禄年間の記録では八十二軒ほどの家があったされる。本陣、問屋、旅籠が並んでいたが、明治二十年(1887)と明治二十七年(1894)の二度の大火により当時の姿を失った。

 

村井宿

 

明治天皇村井御小休所

 

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