(松本城)

明治天皇駐輦遺址
松本城の太鼓門の北側に明治天皇駐蹕遺址碑がある。
明治天皇が松本に巡幸したのは明治十三年(1880)六月のことで、当時、二の丸御殿跡地に新築されていた松本区裁判所に立ち寄られたことを記念したものである。大正十年(1911)の建碑。裁判所は昭和五十三年(1978)に移転したが、この碑は現在地に残された。
(四柱神社)
八王子の自宅を昼過ぎに出発し、高尾山インターから高速道路に乗ったが、中央高速に合流するまでわずか数キロメートルが渋滞して、そのわずかな距離を進むのに二時間を要した。その後はまずまず順調に流れたが、松本に到着したのは午後五時半になっていた。早く着けば塩尻、岡谷辺りを回ってから松本市内へと考えていたが、初日は結果的には松本市内の史跡しか回ることはできなかった。
四柱(よはしら)神社は、天照大神や天之御中主神ら四人の神様を祀っている。境内には松本市招魂殿や明治天皇聖蹟など見所が多い。

四柱神社

松本市招魂殿
松本市招魂殿は、西南の役をはじめ、日清日露戦役に至るまで殉難した旧松本市出身戦没者の神霊を祀るものである。

戦功碑
戦功碑は、明治十年(1877)の西南戦争に従軍した信濃出身者の戦功を顕彰するもので、明治二十六年(1893)の建立。撰文は時の陸軍大臣山県有朋。書は金井之恭。
明治十三年(1880)の明治天皇巡幸に際して、松本における行在所は、四柱神社併設の神道事務分局と定められた。同年六月二十四日、明治天皇は松本に到着。午後三時三十分に、四柱神社の御幸橋を渡って行在所に入った。

聖蹟 御幸橋

明治天皇行在所舊址
(日本銀行松本支店)

明治天皇聖蹟
松本城の太鼓門前に日本銀行松本支店がある。その北東の隅に将棋の駒の形をした明治天皇聖蹟碑が置かれている。書は東郷平八郎による。
(源智の井戸)
源智(げんち)の井戸は松本市内の名水の一つで、松本に城下町が形成される以前から飲料に用いられたという古い歴史を持っている。所有者は小笠原氏の家臣河辺縫殿助源智で、その名前をとって源智の井戸と呼ばれるようになった。天保十四年(1843)に書かれた「善光寺道名所図会」によれば、この井戸は「当国第一の名水」で松本市内の酒造業者は悉くこの水を使い、歴代の領主は制札を出して、この清水を保護したといわれる。明治十三年(1880)の明治天皇松本巡幸には、この井戸の水が御膳水として使用された。

源智の井戸

明治天皇松本御膳水
(深志神社)

深志神社
深志神社は、暦応二年(1339)九月九日、信濃国守護小笠原貞宗の創建と伝えられる古社である。永正元年(1504)、深志城(松本城)築城にあたり社殿を南西から西面に尚志、城の辰巳方の守護神とされた。歴代松本藩主(石川・小笠原・松平・水野・堀田・戸田家)の崇敬篤く、神領、祭器、神宝、社殿等が寄進された。天保十二年(1841)、深志神社と公称された。

松澤君碑
社殿の裏手に松澤君碑がある。
松澤求策は「東洋自由新聞」の発起人の一人で編集員。西園寺公望が社長、主筆は中江兆民、幹事に松田正久がいたが、政府の容れるところとならず、西園寺は辞任に追い込まれ廃刊となった。松澤は内勅の事実を暴露したため、捕らえられ、明治二十年(1887)、三十二歳で獄死した。この石碑は大正十三年(1925)の建立。篆額は西園寺公望の書。
(中田家)

中田家住宅
中田家は江戸時代には出川組の名主役を務め、役宅に相応しい庭園を備えた屋敷を構えていた。江戸時代中期からは酒造業を営んだ。旧態を今日に伝えている。明治天皇の北国巡幸の際、御小休所となった。

明治天皇信楽御小休所
(村井)
村井宿は、慶長年間、北国脇往還に開かれた宿場である。松本から一里二十町、郷原宿へは一里十二町という位置にあった。宿場の長さは五町九間、町割りは一戸分の間口六間、奥行き二十間から三十間。元禄年間の記録では八十二軒ほどの家があったされる。本陣、問屋、旅籠が並んでいたが、明治二十年(1887)と明治二十七年(1894)の二度の大火により当時の姿を失った。

村井宿

明治天皇村井御小休所