史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「「鎖国」を見直す」 荒野泰典著 岩波現代文庫

2021年09月25日 | 書評

帯に「江戸時代の日本は「鎖国」ではなかった」とややセンセーショナルに記載されている。

筆者は、近世国際関係史を専門とする大学の先生である(現在は立教大学名誉教授)。江戸時代の日本は、「四つの口」すなわち長崎、対馬、薩摩、松前を通じて海外と繋がり、開かれていたというのが本書のキモである。この体制を「鎖国」と呼ぶのは誤解を招く。代わって「海禁・日本型華夷秩序」と呼ぶべきだとする。

本書は、第Ⅰ部は川崎市民アカデミーにおける講義、第Ⅱ部は2017年の明治維新史学会における講演会をもとに修正を加えて文庫としたものである。先生の主張は終始一貫している。

我が国は鎖国などしていない。にもかかわらず、「鎖国・開国言説」がいまだに行われている背景には、我が国が江戸時代を通じて「鎖国」していたため、世界の進歩から取り残されていたが、「開国」によって近代化に成功し、欧米諸国と肩を並べる、いわゆる一等国になったという物語を正当化するためこの言説がまかり通っているのだと、ほとんどいきり立っている。もともと講演録を文字にしたものなので、先生の熱量が文面から伝わってくるものとなっている。

ご指摘のとおり、江戸期を通じて我が国は長崎を通じてオランダ、中国と通商を行っていた。タテマエとして幕府は貿易には直接関与せず、民間レベルの交易にとどまっていたが、中国やオランダ産の生糸や絹織物が輸入され、日本からその対価として銀や銅、あるいは海産物などが輸出された。近世日本は決して自給自足ではなく、国内で調達できない必要な物資は「四つの口」を通じて補給していたというのである。

そこで気になったのは、「四つの口」をほぼ対等に描いているが、特に薩摩を通じた琉球(その背後に中国がある)との交易、さらに松前藩を通じてアイヌとの関係(筆者によればその背後にはロシアがある)である。薩摩藩の琉球との交易は密貿易だったと理解している。さらに松前藩とアイヌの関係はとても交易と呼べるようなものではなく、松前藩による一方的な搾取のイメージが強い。これを以て「近世日本は鎖国していない」というのはかなり無理があるのではないか。

結局のところ、開国・鎖国という言葉の定義が曖昧、さらにいうと個人によって受け止め方が異なることに論争の原因があるのかもしれない。幕末によく使われた言葉でいえば、「攘夷」という言葉にも幅があった。条約を破棄して直ちに外国人を追い払うという即時攘夷を考える者もいれば、交易を盛んにして国力を高めた上で覇を唱えるという大攘夷の考え方もあった。

「鎖国はしてなかった」という主張には異論はないが、だったら自由貿易や海外渡航を認めるような「開国をしていた」のかというとそうではない。開国と鎖国の間であって、どちらかというと「鎖国寄り」というのが実態ではなかろうか。

この実態を表すため筆者は、新たに「海禁・華夷秩序」とい概念を持ち出している。「海禁」という言葉はやや聞きなれないかもしれないが、もともと明王朝で使われていた「下海通蕃之禁」という熟語を縮めたもので、一般人が海外に出たり外国人と自由に交際することを禁止した制度のことである。確かに江戸時代の日本は海禁政策を採っていた。

「華夷意識」あるいは「華夷秩序」という概念も、もともと漢民族の伝統的な意識からきている。彼らは自分たちが世界の中心であり、他の国は文化的劣っていると認識しているが、こういった意識は中国に限ったものではなく、日本にも当てはめることができる。朝鮮、琉球、清、オランダは、徳川幕府に服属的儀礼を尽くすことによって関係を維持することができた。筆者がいう「日本型華夷秩序」である。

筆者は「鎖国と呼ぶのは断じて容認できない」と強硬である。かといって「海禁・華夷秩序」という概念も実態を網羅的に表しているとも言い難い。そもそも近世日本における複雑な国際関係を一つや二つの単語で表現しようとすることに無理があるのかもしれない。近世日本は決して完全に国を閉ざしていたわけではないという実態を正確に理解した上で「鎖国」「開国」といった言葉を使うことが何より重要であろう。すみません。筆者にいわせれば、頭のかたいアンポンタン的結論かもしれませんが。

 

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「渋沢栄一の足跡をたどる旅」 「渋沢栄一の足跡をたどる旅」製作委員会著 講談社

2021年09月25日 | 書評

大河ドラマ「青天を衝け」の視聴率が好調なようである。オリンピックやパラリンピックで中断しているが、私も毎回欠かさず視ている。

主役渋沢栄一を扱った書籍も多数刊行されている。書店では「渋沢栄一コーナー」が設けられているが、そこで見つけたのが本書である。渋沢栄一の伝記は、どれも似たりよったりであるが、関連史跡をまとめて紹介している本は多くない。

九十一歳まで長生きした渋沢栄一には、それだけ関連史跡も多い。しかも北海道から関西まで拡がっている。ここで紹介されている史跡は、ほとんど訪問済みであるが、それでも未踏地が残っている。特に北海道清水町や群馬県伊勢崎市、藤岡市の史跡は盲点であった。

巻末には渋沢栄一が関わった六百に及ぶ企業がリストアップされている。「渋沢は生涯五百~六百社の設立に関わった」と言われるが、具体的社名を知ったのは初めてであった。こうして見ると、銀行や重工業、インフラ、電鉄会社が圧倒的に多く、食品関係BtoC企業はサッポロビール以下数えるほどしかない。彼が何を重視していたかを物語っているように思われる。

 

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「越前福井藩主 松平春嶽」 安藤優一郎著 平凡社新書

2021年09月25日 | 書評

本書では福井藩の成り立ちから書き起こされる。福井藩祖結城秀康は、徳川家康の二男として生まれた。しかし、家康の跡を継いで将軍職を継承したのは、すぐ下の弟である秀忠とその子孫であった。長幼の順からすれば、秀康が後継ぎになっても不思議はなかったが、家康が秀忠を選んだ背景には、秀康が豊臣秀吉のもとに養子に出され、下総の名族結城氏を継いだという事情があった。

結城秀康は慶長十二年(1607)に三十四歳という若さで病死し、長男忠直が跡を継いだ。忠直は大阪夏の陣で奮闘し戦功を挙げたが、茶器を与えられただけで加増はなかった。

しかも、家康の九男、十男、十一男がそれぞれ将軍家を継ぐ資格をもつ御三家を起こしたというのに、越前松平家にその資格は与えられなかった。忠直の幕府に対する不満は募っていった。忠直は幕府の命を受けて隠居させられ、代わって忠直の異母弟である忠昌が越前福井藩主を継ぐことになった。

越前家を巡る微妙な空気は、その後もそのまま続いたが、福井藩の分家である高田藩、越前大野藩、越前勝山藩、松江藩、明石藩、津山藩、糸魚川藩、松江の分家である広瀬藩、母里藩などを合わせると一門の石高は百万石を越えた。しかし親藩大名は幕政に関与することはできず、幕府の役職に就けるのは譜代大名に限られた。幕府からしてみれば、大封を与える代わりに政治的発言を封じ込めようという意図が秘められているのである。越前家を継いだ春嶽にとって幕政参加は、彼一人にとどまらず越前家累代の悲願でもあった。

本書で紹介されているように、春嶽が幕政参加のために選んだパートナーは、やはり政治参加が許されない外様の薩摩藩であった。越前福井藩と薩摩藩は、「薩越同盟」とも呼ぶべき緊密な関係を築いた。両藩は、政治上のパートナーであるだけではなく、経済上のパートナーでもあった。福井藩では生糸などの専売を通じてそれを莫大な出費に充てようとはかったが、その販売先として想定されたのが薩摩であった。

薩摩藩と結んで実現した元治元年(1864)の参預会議や慶應三年(1867)の賢候会議は、春嶽が思い描いた雄藩連合構想に近いものであっただろう。しかし、いずれも慶喜によって雄藩連合構想は骨抜きにされた。安政年間に春嶽や島津斉彬が熱心に将軍後継に推した慶喜が、薩摩、越前両藩にとって最大の政敵となったのである。

賢候会議の頓挫以降、薩摩藩は討幕に傾倒していく。対幕強硬派の西郷隆盛、大久保利通の主導のもと、討幕を見据える形で長州や土佐と合従連衡策を進めたが、徳川家第一の親藩を自認する福井藩は薩摩と道をたがえることになった。親藩福井藩の限界であった。

慶應三年(1867)十二月の王政復古のクーデターは、福井藩にとって驚天動地の出来事であった。岩倉具視や薩摩藩の思惑は慶喜を新政府から排除するものであった。春嶽はこれに反発したが、薩摩藩としては薩摩中心の新政府と見られるのを避けるためにも、親藩福井藩、御三家筆頭の尾張藩は新政府側に取り込んでおきたかった。春嶽や尾張の慶勝の尽力で慶喜の新政府入りが内定した。しかし、江戸における薩摩藩邸焼討、それに続く鳥羽伏見の戦いによって、春嶽らの巻き返しは水泡に帰した。

春嶽は明治新政府の議定に迎えられる。しかし、親藩大名出身というだけで、常に政府内で疑念が向けられ、意見はなかなか通らなかった。春嶽は何度も辞職を申し出ているが、都度慰留された。春嶽は、西国の外様大名が主導権を握る新政府と、野党的存在である親藩・譜代大名とを繋ぐ、貴重な存在であり、挙国一致には欠かせない存在であった。春嶽が公職を離れたのは、ようやく明治三年(1870)七月のことである。

幕末から明治にかけて福井藩と春嶽の果たした役割は、「徳川一門の大名でありながら、公論をキーワードに徳川家独裁の政治体制ではなく、挙国一致の国家造りを牽引したことに尽きる」という。その政治理念から五箇条の御誓文、のちの議会制度につながる公議所も生まれたとする。

常々、「歴史は公正中立に見るべし」と自戒している私であるが、青春時代を送った福井のことになると、冷静ではいられない(先日もコンビニの店頭で北陸人のソウルフード「8番ラーメン」のカップ麺を二個発見し、二個とも買ってしまった)。慶喜に振りまわされ、あまり存在感を発揮できなかった。どちらかというと「残念な藩」という印象は拭えないが、本書によって福井藩と春嶽の歴史的役割を確認することができたのは収穫であった。

 

 

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