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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

可児 Ⅱ

2021年09月11日 | 岐阜県

(土田宿本陣)

 

史跡 土田宿本陣址

 

史跡 土田宿本陣址

 

 土田(どた)宿は、中山道が整備される以前からの宿駅であった。慶長五年(1600)には徳川秀忠が関ヶ原合戦の際、ここに宿泊した記録が残る。また初代尾張藩主徳川義直も、本陣に宿泊し、この一館を「止善殿(しぜんでん)」と名付けた。しかし元禄七年(1694)、伏見宿が新設されると、中山道の宿場としての使命を終えている。

 

 

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下呂

2021年09月11日 | 岐阜県

(都築家)

 

都築家

 

 下呂市は下呂温泉で全国的な知名度を誇るが、実は上呂、中呂という場所もある。上呂に近い下呂市萩原町羽根に天正年間に建築されたという都築家住宅がある。

 奥座敷は明治元年(1868)の梅村騒動で梅村速水高山県知事が投宿したことでも知られる。

 

(はぎわら ふれあい通り)

 

ファンシーショップ「陣屋」

 

 ファンシーショップ「陣屋」店内には、梅村騒動で打ち壊しの群集が刀傷を付けた陣屋の柱が残っているという。例によって、私がこの場所を訪ねたのは、午前七時前だったため店内を見ることはできなかった。

 

(玉龍寺)

 

玉龍寺

 

 玉龍寺には、万延元年(1860)の遣米使節団に賄方として参加した加藤素毛(そもう)雅英の墓がある。八人の連名墓であるが、一番右に素毛の法名「霊芝庵鳳山素毛居士」が刻まれている。

 

霊芝庵鳳山素毛居士(加藤素毛の墓)

 

(下原小学校)

 現在、下原小学校のある場所に、天正年間に飛騨を平定した金森長近が中山七里の道路を改修した後、陣屋を建設した。長近は国内の各地に陣屋を築いたが、下原旅館は飛騨の玄関口として重要な役割を果たした。堀を巡らし、米蔵や武器蔵を備えた旅館の館主には山下市正氏政(道安)があたり、金森氏が京都、大阪、伏見などへの参勤の行き来の宿泊に使われていた。正門脇に下原旅館(陣屋)跡を示す標柱が建てられている。

 

下原小学校

 

下原旅館(陣屋)跡

 

 下原小学校には加藤素毛の句碑がある。素毛は早くから文雅の道に造詣が深く、ことに俳諧を好んだ。ほかにも和歌や絵画にも素養があった。

 

(加藤素毛記念館)

 

加藤素毛記念館(霊芝庵)

 

 加藤素毛の生家に記念館が開設されている。素毛の雅号に因んで霊芝庵と称されている。素毛は紫色角形の霊芝(サルスベリ科の万年茸)を珍蔵し、常に携帯していたという。

 霊芝庵は、朝十時の開館。普段は無人だが、電話をすれば開けてくれる。私がここを訪れたのは朝八時だったので拝観することはできなかったが、素毛の遺品を展示している。

 

 加藤素毛は、文政八年(1825)の生まれ。嘉永年間、高山に出て飛騨郡代小野朝右衛門の公用人となり、朝右衛門の長男鉄太郎(のちの山岡鉄舟)とも交わりを結んだ。俳諧を能くし、豪家の二男という恵まれた身の上の加え、終生妻を娶らなかった身軽さから、嘉永五年(1852)二月、郷里を立って筑紫巡りの旅に出て、安政元年(1854)正月帰郷した。筑紫旅行後、米国渡航の人選が決まる安政六年(1859)の行動は明らかではない。安政六年(1859)の日米修好通商条約の本書批准交換のために遣米使節の派遣が決まるや、素毛は外国方御用達伊勢屋平作の手代として使節の一行に加えられ、翌万延元年(1860)正月、米艦ポーハタン号に乗って品川沖を出帆して米国に渡航し、世界一周して九月帰朝した。帰国後は、各地で洋行談を試み、文久元年(1861)八月、高山から美濃の上有知を経て名古屋に至った。ここでの洋行談が水野正信(尾張藩重臣大道寺家の家臣)記した「二夜語」である。その後の行動は不明であるが、明治二年(1869)四月、実家の加藤家は高山県知事梅村速水に与するものと睨まれ、一揆暴徒の襲撃を受けた。明治五年(1872)の夏、伊勢の国学者佐々木弘綱が高山の富田礼彦の招きに応じて飛騨に来たとき、素毛はその講筵に列して深い感銘を受けたという。明治十二年(1879)、年五十五で没。

 

(下原八幡神社)

 加藤素毛は常に諸国を吟遊した。嘉永五年(1852)の関西九州一周の旅はことに有名である。素毛はこの大旅行を記念して、下原八幡神社に丸い懸額の絵馬を奉納した。

 また米国から帰朝後、持ち帰ったアメリカの国旗(星条旗)を八幡神社に奉納した。

 

下原八幡神社

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高山 Ⅱ

2021年09月11日 | 岐阜県

(飛騨護国神社)

 実に十五年振りの高山となった。前回は鉄道を使ったが、今回は自家用車での訪問となった。以前の職場に高山出身の女性がいて、彼女によれば家族で帰省する際にはいつも松本から国道158号線を使っていると聞いていたので、迷わずこのルートを採用した。松本市街地を出て二時間足らずで高山に到着した。

 高山では市内の観光駐車場で夜を明かした。その駐車場から近い場所に飛騨護国神社がある。夜明けとともに、十五年前に見落とした梅村速水遺愛碑を訪ねた。岩倉具視の篆額。

 

飛騨護国神社

 

梅村速水遺愛碑

 

(北ヶ洞墓地)

 左京町の北ヶ洞墓地は古い墓石が並ぶ墓地である。雑草が生い茂り、お世辞にも手入れが行き届いているとはいえない。そこに「無名氏之墓」と刻まれた小さな墓石がある。

 

無名氏之墓

 

 この墓は慶應四年(1868)閏四月、新町川原に薦に包まれた女児の遺体が捨てられていた。当時、飛騨は明治新政府の支配下になっており、梅村速水が県知事として着任していた。速水は悲惨な死者が出るのは政治を与る自分の責任であるとして、葬式を行い子の墓を建てた。正面には「無名氏之墓」と彫り、他の三面には建碑の由来を記した碑文を刻み、「罪人 梅村速水」と結んでいる。

 梅村速水といえば性急な改革で人々の反感を買い、梅村騒動の原因となった人であるが、この碑は速水の別の一面を物語っている。

 

(飛騨国分寺)

 飛騨国分寺の歴史は、奈良時代まで遡る。さすがに奈良時代の建物は残っていないが、境内には七重塔の心礎や、金堂の礎石などが残っている。ほかには元文四年(1739)建造の表門や推定樹齢千二百年という大イチョウなど、歴史を感じることができる。

 

飛騨国分寺

 

大イチョウ

 

白真弓肥太右衛門之墓

 

 白真弓肥太右衛門(しらまゆみひだえもん)は、飛騨国白川郷木谷の出身の幕末の力士である。二十五歳のとき、江戸相模の浦風部屋に入門した。嘉永七年(1854)、アメリカのペリー提督が二度目に横浜に来航した折に、力士たちが薪水米穀の供給運搬奉仕をしたが、白真弓は背に米四俵、胸に二俵、両手に一俵づつ、合計八俵を運び、アメリカ人を驚かせた。身長は六尺八寸六分(二〇八センチ)、体重は四十貫五百匁(一五二キロ)の堂々とした体格で、また怪力の持ち主だったといわれる。最高は西前頭筆頭。引退後は浦風部屋を継いだ。明治元年(1868)十一月、没。享年四十一。

 

押上家先祖代々之霊位(押上美喬墓)

 

 押上美喬(おしあげよしたか)は、文化十三年(1816)、飛騨高山に生まれた。明治元年(1868)正月、三郡村々の名主と協議して新見内膳逃亡後の混乱をよく防いだ。民情の嫌う郡上藩の飛騨国取締を拝し、鎮撫使竹沢寛三郎による天朝支配を請願して許された。間もなく竹沢に代わって梅村速水が高山県知事として入国し、翌二年(1869)、梅村知事の施政に反対する農民一揆が起きると、その鎮静に努める一方、京へ代表を派遣して梅村拝訴を具申し、新たに宮原積知事を迎えることに成功した。明治二年(1869)六月、年五十四で没。

 

(上岡本町)

 

節斎富田禮彦之墓

 

 富田礼彦(いやひこ)は文化八年(1811)の生まれ。天保十三年(1842)、高山代官所地役人頭取となり、時の郡代に奨めて備荒の穀倉を建て、安政五年(1858)の大地震には多くの窮民を救った。国学を田中大秀に、漢学を赤田章斎に学び、敬神尊王の志厚く、明治元年(1868)には高山建判事に任命された。翌年梅村騒動の責を負い、乱民の助命を願って割腹したが一命をとりとめた。門人も多く、飛騨郡代小野朝右衛門高福の五男、のちの山岡鉄舟も門下で学んだ。明治十年(1877)、年六十七で没。墓標は長三洲の筆。

 

(江名子)

 

田中大秀之奥城

 

 田中大秀(おおひで)は、安永六年(1777)の生まれ。兄の夭折によって家業薬種商を継ぎ、享和元年(1801)、京都に学んでいたとき大秀と改めた。寛政九年(1797)、熱田の社司栗田知周の門に入り歌道を学んだ。のち伴高蹊に師事し、本居大平を伊勢松阪に訪ね、さらに上洛して本居宣長の門に入り、親しくその教えを受け、宣長学風の真諦を会得し、彼の学風を樹立した。宣長没後は大平と親交し、松坂に三か月在留して宣長の遺著の筆写に従事した。文化十四年(1817)、隠居して荏名神社の神官となり、専ら国学の研究に従事した。多くの著書があり、敬神尊王の精神を鼓吹し、幕末飛騨国の精神的支柱として多くの子弟を育成した。彼の文庫を荏野文庫と称する。高山郷土館に保存されている。弘化四年(1847)、年七十一にて没。

 

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